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揺れ動く運命の輪

 

俺がえいえんに行っていた一年間は少なからず、変わらないと思っていた日常に変化をもたらしていた。
変わらないと思っていたのは、ずっとその中にいたからで、変わっていることは多々あった。
その事が妙に嬉しかったのを、帰ってきてからしばらく経っても覚えている。

例えば、長森や七瀬、茜は大学にうかっていて、それぞれの道を進んでいる。
澪は相変わらず部活に打ち込んでいて、次期部長候補らしい。
椎名も自分の学校を卒業して、この学校へ通うことになっていた。
みさき先輩は深山さんに付き合ってもらいながらも、だんだんと外の世界へと出ていけるようになった。
住井や沢口など、悪友たちもそれぞれ大学へ行くらしい。
驚いたのは、柚木も大学へ行くということだ。出席日数はもちろん、頭の方も全く問題はなかったらしい。茜と学部は違うが、同じ大学に行くと言っていた。
そして、当の俺は当然卒業などできるはずもなく、留年を余儀なくされた。理由はひどく曖昧だが、取りあえず出席日数不足となっている。まぁ、これは仕方がないだろう。
しかし、今の様子を知らない奴がただ一人……

 

それを思い出してから来たところがここだった。
――――軽音楽部室――――
ここに来るまでに通った部室からは声が聞こえてきたが、ここからはなんの音も聞こえてこない。
一応俺の入っている部活だが、ここだけは前と変わらずにひっそりとした感がある。一年経とうが、ここに活気が訪れることはないらしい。むしろ、潰れてないことの方が意外だった。
恐らく、開けられた回数が数えるほどしかない扉に手を掛ける。躊躇することなく開けた部屋の中には、思っていた通りの人物がいた。
「やあ」
「よう」
限りなく短い挨拶を交わす。
そいつはあの頃と同じ笑顔で、あの頃と同じように立っていた。
「やっぱり戻ってきたんだね」
「まぁな。それより、おまえはどうしたんだよ。まだ行ってないなんて…」
そいつ――氷上の目の前まで歩いていって、初めてそいつの変化に気付く。
「影がない…?」
「そういうこと」
「どういうことだよ?」
一応自分の足下を確認してみるが、当然影は存在している。しかし、氷上の足下にはどう見ても影がなかった。
「ひとまず、座って話そうか。長くなるかも知れないからね」
言われるままに近くから椅子を引き寄せてそれに座る。埃を被っていたが、特に気にしなかった。
氷上も同じ動作をしたが、どこか現実味がないような気がした。
椅子に座って男二人で向かい合っている様子はひどく滑稽に思えたが、それを気にしている場合でもなかった。
座ると早速氷上から切り出してきた。
「まずは何から話そうか?」
「全部順番に話してくれ」
何から、と言われてもどう答えて良いか分からなかった俺は、取りあえずそう言った。
「分かった」
そう言うと、氷上は少し思案顔になったが、おもむろに口を開いた。
「じゃあ、まず、君は僕がまだえいえんに行っていない、と聞いたね?」
「ああ」
「それから答えるとすると、僕はえいえんに行った。と、いう答えを出すことができるね」
「もう行った!?」
その答えは予期していなかった。
氷上は自分から絆を求めたのは俺が初めてだと言った。それに、自分はもう手遅れだ…とも。
だとすれば、戻ってこれるはずはない。行ってないって事も考えにくかったが。
氷上は俺の驚きの声に表情を変えることなく続けてきた。
「そう。正確に言えば、まだえいえんにいるって事になるけどね」
「じゃあ、なんで今ここにいるんだよ?」
「その答えが、僕に影がないっていう答えと重なるんだよ」
氷上は一瞬だけ悲しそうな表情を見せたかに見えた。しかし、あえてその事は指摘せずに黙って話を促す。
「僕は今、永遠と現実世界の間にいるっていう不安定な存在になっている。何でかっていうと、僕はえいえんに行く前に死んでしまったからなんだ」
「死んだ?」
「そう、だから影はない。死人なんだから当たり前だね」
氷上はそう言って、なぜかおかしそうに笑った。
だが、俺は笑う気になどなれず、何も言うことができなかった。
「死んだらえいえんに行くなんて無理だと思ってたけど、‘死ぬ’なんて安直な方法で避けられるほど甘くなかった。あの世界はね…」
「で、結局何で今ここにいるんだよ?」
氷上がもう死んでいる、ということから立ち直っても、それだけ言うのが精一杯だった。
「さっきも言っただろう?僕は今不安定な存在なんだ。だからえいえんとここを行き来できる」
「自由に、自分の意志でえいえんから戻れるのか!?」
「まぁ、そうなるね」
死んでも永遠に縛られていることがかわいそうで、自分の事のように辛く感じたが、そうなると話は別だ。
「それは、いいかもな。例えば七瀬に殴り殺されそうになったりしたらいつでも逃げれるもんな」
「いや、それは…」
氷上が何か言いかけたその時、急にこの部屋の扉が急に開いた。驚いて後ろを振り返ると、そこには肩を怒らせた七瀬が立っていた。
七瀬ごときに驚いてしまったのか!?不覚!
しかし、待てよ?七瀬はもう大学に行っているはずじゃなかったのか?
じっくりとそこに現れた人物を観察してみる。
どこからどう見ても七瀬だな。怒った顔もそっくりだ。と、なると…
「何だ、七瀬。おまえ、大学受かっても卒業できなかったのか?」
「折原じゃないんだから留年なんてするはずないでしょっ!?それより、誰が誰を殴り殺そうってのよっ!!」
「おまえが俺をだが…」
「そんな事するはずないでしょっ!?」
「二年の時は良く殺されそうになったじゃないか?」
「それはあんたが悪いんでしょうがっ!」
「まぁ、待て。落ち着けよ」
ヒートアップしてきた七瀬を落ち着けるように目の前に手をかざして、一度話を中断させる。
思った通り、七瀬はそれで多少落ち着きを取り戻したようだ。
「話を戻そうじゃないか。留年してないならなぜここに七瀬がいるんだ?卒業したなら大学にいるはずだろ?ちなみに今は昼休みだ」
「あんたバカ?卒業式は来週でしょうが」
「…そうだったか?」
「そうよ」
少しの間、部室に気まずい空気が漂った気がした。
氷上は相変わらず微笑みながら事の成り行きを見ているが。
少したって、ようやく七瀬が落ち着いた口調で訊ねてきた。
「ところで、こんなところで一人で何やってるの?」
「一人?」
七瀬の言葉を訝しがって小さく繰り返した。
何言ってるんだ、おまえは?氷上がそこにいるじゃないか。
そう口に出すことはできなかった。
その時になってようやく気付いた。氷上を見ると困ったように笑っている。
間違いないようだ。
また俺の中に深刻さが戻ってきた。
その事を話すにはまずこいつを何とかしなくちゃな…。
「なんか、誰かと話してるみたいだったけど…」
「ふっ、七瀬、俺が将来何になるか分かってないようだな」
「何になるか?」
わけが分からないように七瀬は聞き返してきた。
「そう。俺はこう見えても一介の床屋志望者だ。今やってたのは客との世間話のシュミレーションだ!」
「そういえばそんな事言ってたような…」
「そういうことだ。練習の邪魔になるからもう出てけ」
「もう出てけ、ってあんたねぇ!」
怒ってはいたが、七瀬の顔に僅かな驚きが見えた。
それだけ、今自分がどんな顔をしているかが分かった。えいえんに行くと分かったときも今と同じ様な顔をしてたのかも知れない。
「はぁっ、もうあんたとなんか話してらんないわよ」
「ああ、悪いな」
「別に、もう慣れたわ」
そう言って、七瀬は振り返りもしないでこの部屋を出ていった。
足音が遠ざかっていったのを確認してから、俺は氷上に向き直った。
「分かっただろう?部分的なえいえんっていう意味を。決して良いことではないんだよ」
「まぁ…な。軽々しく言ったことは謝る」
「構わないよ」
いつもと変わらない表情に見えただけに、後悔の念が押し寄せた。
他人に認識されない時の中、えいえんにいることで自分が変わることがない。姿さえも人の目に触れることはない。そんな状況が良いわけがなかった。
「でも、ここに戻ってきたら思い出されるんじゃないのか?」
「えいえんから戻ってきたわけじゃないからね。いまだに束縛されたままなんだよ」
「だったら、何で俺だけが覚えてるんだ?」
そう聞くと、初めて氷上の表情が揺れた。
困惑。
そう言うのが適当だと思うが、とにかく微妙に顔を曇らせる。
異様に長く感じられた数十秒が過ぎて、氷上が口を開く。
「ここでは僕という存在は認められない…。親に死んだということさえ忘れられてたって分かったときは、さすがにショックだったよ…」
「氷上…」
今まで見たことのない、悲壮感が前面に出た氷上を前に俺は名前を呼ぶしかできなかった。
気にした様子もなく、というよりは何も聞こえてないように氷上は続ける。
「何でえいえんに自由に行き来できるのに僕がここにいるか分かるかい?」
「………いや」
俺は軽く首を振る。分かる気はしたが、やっぱり分かるわけがない。ちゃんと戻ってきた俺には…。
「僕も今、やっと分かったよ。僕は君を待ってたんだ、ってね」
「俺を?」
「前に言ったことがあったろう?」
氷上は言いながら部屋の窓際へと歩いていく。
「君は僕が望んだ最初で最後の絆だ、って」
「ああ」
「僕はあの時、君が僕と同じ瞳をしているから友達だ、なんて思ってたんだ。でも、友達ってそんなもんじゃないはずだよね。
 だから、今の僕が望んでいるのは…」
その先が言われる前に氷上は一息ついた。
『本当の友達』
言いたいことは容易に分かった。
だからこそ、俺達はその先を同時に言った。
氷上の表情はここからでは見えない。ただ、何となく、今あいつがどういう顔をしているかは分かる気がする。
立ち上がってから一度息を吸って氷上に向かって言う。
「俺は忘れない」
「えっ?」
氷上が振り向くと、そのすぐ目の前に俺は立った。
「俺は、氷上シュンという親友がいることを絶対に忘れない。
 だから、ちゃんと自分の中のえいえんに決着付けてこいよ。きっとできるはずだ」
「折原君…」
「できるだろ?
 もし戻ってきたら、その時におまえの死を思いっきり悲しんでやるよ」
これは氷上にとって辛いことだとは思ったが、あえて言った。
死んでいる。その事が永遠との決着を長引かせている原因だということは氷上の話から分かった。だから、後押しをしてやりたかった。親友として…。
氷上は俺の目をじっと見てきた。俺もそれを見返す。
やがて、氷上はふっといつものあの笑みを浮かべた。
「分かった。やってみるよ。
 僕が生きてきたっていうことは、この世界に認めさせてみせる。絶対に!」
「よし」
満足げに頷いて見せてから、俺は氷上の手を握ろうとした。
しかし、その手を握ることはできなかった。手がすり抜けたからだ。
よく見ると、氷上の体が透けて、後ろの風景が見える。
それは少しずつ、だが、確実に進んできている。
「氷上?」
「もともともう限界だったんだ。
 でも、必ず戻ってくるよ。約束する」
「ああ、約束だ」
「だから、折原君も約束してくれないかな?」
「何だ?」
そう言っている間にも氷上の体はどんどんと薄くなってきている。
恐らく、こいつの最後になるだろう言葉を聞き漏らさないように神経を集中させる。
「君は、自分の幸せを必ず自分の手で見つける。それを約束して欲しいんだ」
「そんな事で良いならいくらでも約束してやるよ。
 自分の手で幸せを見つけるよ。えいえんなんかにもう頼らない」
「それは大前提だよ」
「そう…だな」
本当に、自分でも今泣いていないのが不思議だった。それぐらいに、消えて行かれることが辛いと理解できる。
「それじゃ、また戻ってくるまで…」
最後に、俺と会うときに必ず浮かべていた笑顔を残して、氷上はこの世界から消えていった。

 

 

 ―――― 一年後 ――――
 一年留年して、大学に受かり、卒業も何とかした。
俺はいい加減、あそこから帰ってきたばかりの新鮮さもうせて、少々退屈な日々を過ごしていた。
でも、あいつのことは今でもちゃんと覚えている。
結局部活は最後まであのままで、埃を被った部室に行くのもなんだったので、入りもしないで学校を出た。

だから、今ここにいるのは自分でも不思議だったりする。
大学の入学式までは何もやることがなく、家でだらだらと寝てるのも不健康かな、と思って外に出たが、ここに来るとは思わなかった。
自分で来といてなんだが、ここ――軽音楽部室に来るのはあいつが戻ってきたら、と決めていたはずだったのに…。
「俺がえいえんに行ってた時のあいつの気持ちが分かるなぁ」
そう呟きながら、一年ぶりにその扉に手を掛ける。
そこには春休みだからといって、練習をする生徒の姿は一つも見つからなかった。
もちろん、あいつの姿も…
「なんだかなぁ…」
相変わらず埃を被っている部屋の真ん中あたりに座り込む。
俺は何を期待していたんだろう?
その時、ポケットの中にある携帯が鳴った。
「はい。もしもし?」
『もしもし、じゃないよ〜。一体何時間待たすつもりだよっ!』
かけてきたのは長森らしい。なんでだ?
「まぁ、いいか。切るぞ」
『ちょっと、待ってよ浩平!なんでいきなり切るんだよっ!?』
「用がないなら電話してくるなよ」
『用があるからしてるんだよっ』
「なんだよ?早く言え」
電話の向こうで、はあっと溜め息をついてるのが聞こえた。
進歩のない奴だ。
『もしかして忘れてなんかいないよね?昨日さんざん言ったんだから』
「だからなんだよ?」
『浩平の誕生日でしょ、今日?だから、合格祝いも含めてみんなで集まろうって。住井君とか、七瀬さんとか、みんなもう集まってるんだよ?』
そう言えば昨日そんな電話がかかってきた気がする。
確か、その時言われた時間は午後3時。ちなみに今は4時ちょっと前だ。
しかし、忘れてたことを認めるわけにはいかない!ここは一つ、長森のせいにしよう。
「なにっ!?なんで早く言わないんだ!?」
『なんでって、やっぱり浩平忘れてたの?』
「忘れるも何も、そんな事聞いてないぞっ!?驚かそうっていうコンセプトは分かるが、せめてなんかあることぐらいは伝えとけよな!」
『驚かそうなんて思ってないし、ちゃんと言ったもんっ!浩平が聞いてなかっただけだもんっ!』
「言い訳はいい!場所はどこだ?」
『はぁっ…、いつもの所だよ。早く来てよね?』
「分かった」
そう言って携帯を切る。あそこならここからそう遠くはない。
足早に出ていこうとしたが思い立って、部屋を出ていく前にあいつがいつもいたこの部屋を見渡す。
いつも立っていた場所に、今あいつはいない。
「氷上、俺は幸せってのを自分の手で、今ある幸せよりもっと増やしていく。
 だから…、おまえも早く帰ってこいよ…」
それだけ部屋の中に向かって言うと、走って部屋を出ていく。
そして、部屋にはまた静寂が戻った。

 

<了>