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シングルパンチ

 

「……先輩」

「うん?」

「……ずっと、このまま、私と一緒に、今のクラブを続けてくださいますか?」

「え?」

「……」

 先輩は、戸惑っているというよりは、質問の内容がわからないようだった。

 少し苦笑気味に先輩は口を開いた。

「……なに言ってんだよ。そんなの、あたりまえ……」

 そこで先輩の言葉が止まる。じっと私の顔を見て、私の真意をはかっているようだ。

 しばらくして先輩は答えてくれた。

「正直、自信がない……」

 私の中の何かが、壊れはじめた。

「本心を言うと、このままグラブを続けていく自信がないんだ」

「……自信がない……ですか?」

 それ以上は、もう聞かなくてもわかっていた。

 先輩の表情が、その全てを物語っていた。

 先輩は自信のない理由を私に話してくれた。私は、先輩のその気持ちが分かるだけに、 どうしようもなかった。

 何より、先輩は私を選んでくれなかったのだ。

「先輩、こんな身勝手な私に付き合ってくださって、本当にありがとうございました。 ……そして、本当にごめんなさい」

「あ、葵ちゃん……」

「私、私、いつの間にか先輩のこと……」

 私は、そこで言葉を止めた。

 もう、『告白』は失敗してしまった後なのに、これ以上私は何を言うつもりだったのだろうか。

 もう、失恋してしまったのに。

 私はそれを自覚して、ジワッと目頭が熱くなるのを感じた。

 でも、先輩はやさしいからここで私が泣いたら、きっと私をほっとかない。

 先輩にこれ以上迷惑をかけないために、私は泣くのをこらえた。

 ここで、私は笑わなくちゃいけないんだ。

 私は下をむいて目元をゴシゴシとふいた。

 顔をあげたとき笑っていられるように、私の全力をかけて涙を止めながら。

「先輩には言葉にならないぐらい感謝しています!」

 私は、先輩に頭を下げた。

「じゃあ、私、今日はこれで失礼しますね」

「え? もう、用はすんだのか?」

「はい。……もう、十分決心がつきました」

「……決心?」

 はい、決心は、つきました。

 とっても、悲しい結果ですけど。

 それは、先輩のせいではありません。

 言葉には、やはりならなかった。

 私は、先輩に別れの挨拶をすますと家にむかって歩き出した。

 

 言葉にならないぐらい感謝しています。

 私の初恋の先輩には。

 

 夜、私は眠れなかった。

 明日は、好恵さんとの試合の日。寝なくてはいけないのは分かっていたけど眠れなかった。

 もちろん、緊張もある。あの坂下先輩と戦って勝てる見こみは少ない。

 私が成長した分、坂下先輩も成長しているだろうから。

 そして、私を眠らせないものの正体は、自己嫌悪だった。

 私の格闘技に対する思いは本当なのに、今、私は格闘技をしたいと思えなかった。

 藤田先輩。

 先輩が私と一緒に練習をしてくれるようになってから、どんなにクラブが楽しくなったか。

 先輩は気付いていないのだろうけど、それが私をどれだけ元気づけてくれたか。

 先輩と一緒にいられる、私は、クラブの始まる時間をいつの間にかそんな不純な動機で 待ち遠しく感じていた。

 クラブをやっている間、私は先輩と一緒にいられる。ただそれがうれしかった。

 そんな気持ちで練習をしても、強くなるわけがないのに。

 今日、先輩に聞きにいったのは、私の中のそういう心が暴走してしまったから。

 クラブを続けることが、まるで私と一緒にいたいことのように思えて、私は聞いたのだ。

 

「……ずっと、このまま、私と一緒に、今のクラブを続けてくださいますか?」

 

 ずっと、私と一緒にいてくださいますか?

 

 私のあの言葉にこめた言葉は、『告白』だった。

 自分でもうぬぼれていたのかもしれない。先輩がクラブに来てくれるのは、私に会いに来てくれて いるのではないかと、心のどこかで思ってたのかもしれない。

 先輩は、本当に単純に誠意でやってくれていたのに、それを私の心が裏切ったのだ。

 先輩とクラブ、比較してはだめだと分かっているのに、私は比較してしまった。

 そして、気付く。

 先輩が私の全てだって。

 もちろん、クラブも大切だったけど、それは藤田先輩の次だって。

 クラブがなければ、きっと藤田先輩と知り合うこともなかっただろうから、私は自分がクラブを やっていたことに感謝していた。

 そんな自分が、嫌になった。

 私は、格闘技を捨てるの? 先輩にあそこまで力をかしてもらっておいて?

 そして、その葛藤にさえ、先輩の名前が出てきて、さらに私は自己嫌悪におちいる。

 もう、あなたはふられたのよ。

 もう、先輩をあきらめるしかないのよ。

 心の中でそんな声が私を責める。でも、私はそれを耳をふさいで聞かないふりをする。

 決心が、ついたんじゃないの?

 藤田先輩をあきらめる決心が。

 

 全然、そんな決心なんてできなかった。

 

 いけない、明日は坂下先輩との試合なのに、私は何を……。

 そう思ったところで、私の心からそれが抜けるわけではなかった。

 ……多分、明日私は負けるだろう。

 心の中には、そんな確信めいた言葉が浮かぶだけだった。

 私はそれでも寝ようとして布団を頭からかぶった。

 

「おはよう、葵」

「あ、好恵さん……」

 私は坂下先輩の横にいた人を見て言葉を失った。

「はーい、葵。元気〜?」

「あ、綾香さん……」

 そこにいたのは、私の目指した人、エクストリーム優勝者の綾香さんがいた。

「な、何でここに……」

 私は自分の心臓が緊張でさらに早くなるのを感じた。何で私の試合に綾香さんが?

「一応試合だし、レフェリーが必要だと思って呼んできたのよ。それに、綾香にはエクストリーム を目指すことがどんなに意味がないか分からせたかったからね」

 好恵さんの言葉に、綾香さんがピクッと反応する。

「あ〜ら、言ってくれるわね、好恵」

「私は本当のことを言ったまでだけど?」

 そのまま二人は言い争いをはじめる。私は、それをオロオロとしながら見るしかなかった。

「何度も言ってるでしょ。エクストリームは遊びじゃないのよ」

「は、私から見れば遊びも同じよ。テレビやメディアに出て、勝ったら賞金なんて、私から 見れば格闘技の品性を下げてるようにしか見えないわ」

 綾香さんは肩をすくめた。

「好恵は分かってないわねえ。賞金がつけばよりハイレベルの人達が集まる。 選手のレベルが上がればよりハイレベルな戦いが繰り広げられる。試合がハイレベルになれば 人気があがる。人気が上がれば大きなスポンサーがついて賞金があがる。賞金が上がれば よりハイレベルな人達が集まる。よりハイレベルな戦いがそこで繰り広げられ、 そしてまた人気があがる。このシステムが理解できないの?」

「それが、空手を捨てた理由?」

「別に空手を捨てたわけじゃないわよ。ただ、空手にはもう私の心を躍らす強敵がいないだけ。 好恵、あんたもふくめてね」

「く……」

 好恵さんは悔しそうに唇をかんだ。空手の試合で綾香さんが負けたことは一度もないのだ。

「まあ、口で言ったってわかんないだろうから、葵、エクストリームの強さ、好恵に見せてやりなさいよ」

「え……」

 私はとまどった。そんな、私の実力でエクストリームの強さと言われても……。

「葵がどれだけ腕があがったのか知らないけど、私は負けないわよ」

「え……あ、あの……」

「さあ、さっさとはじめるわよ。葵、準備はいい?」

「え……あ……」

 私の体は緊張で動かなくなっていた。まるで自分の体じゃないようだ。

「……葵?」

 私の異変に、綾香さんは気付いたようだ。好恵さんから私を一度引き離す。

「綾香?」

「好恵、ちょっと作戦タイムね」

「……別にかまないけど、早くしてよ」

 好恵さんは余裕ある表情でそれを承諾した。やっぱり、私など相手ではないのだろう。

「ちょ、ちょっと、葵。どうしたの、その真っ青な顔は」

 ひそひそ声で綾香さんが私に聞いてくる。

「まさか、たかがこんな草試合で緊張してるんじゃないでしょうね?」

 私は図星だったのでビクッと体をふるわした。

「……まさか、ほんとに?」

「は、はい……」

 私は、なんとか言葉を体からひねり出した。

「好恵さん……あんなに気合いこもってるし……もし、私がまけたら……エクストリーム が弱いことになってしまうし……」

「葵……」

 綾香さんも私のあがり癖はよくしっていたのだろうけど、私は綾香さんの予測以上に緊張して しまっていた。

 こんな体じゃあ、好恵さんと戦ったら何秒ももたない……。

 でも、私が負けたら、エクストリームが、ひいては綾香さんが弱いということになってしまう。

 負けられない。

 でも、体がいうことを聞いてくれない。

「何してるの、葵。早くはじめるわよ」

 好恵さんのせかす声が、また私の体を固める。

「も、もうちょっとまってくれない、好恵?」

「もう十分待ったつもりだけど? それとも、緊張して体が動かないとでも言うつもり?」

 ビクッ

 私が震えたのを、綾香さんは好恵さんに見えないように隠してくれたようだ。

「……やります」

「葵……あなた……」

 私は動かない体を引きずるように、好恵さんの方を向いた。

「……もう、いいです。はじめましょう、好恵さん」

 私の体は、やはりまったく動いてくれなかった。

 

 試合は、始まった。

 

 好恵さんのワンツーが私を襲う。

 私は、それをさばくので精一杯だった。

 体はやはり動いてくれなかった。

 こんな体で好恵さんに立ち向かおうとしていた自分がバカだったのだ。

 私はもういくらかダメージのある打撃を受けていた。

 ただ、体は動かないくせに、それぐらいのダメージでは倒れてくれなかった。

「どうしたのよ、葵!」

 綾香さんの叱咤が飛んできても、私にはどうすることもできなかった。

 好恵さんの一撃一撃が私をおいつめていく。

 私は必死になってそれをさばく。反撃なんて、できなかった。

 戦っているのに、私の心の中には「早く負けてしまいたい」という考えしかなかった。

 負けてしまえば、これは終るのだ。

 このみじめな時間は、終わりをつげるのだ。

 ズバンッ!

 好恵さんの得意のミドルキックを両腕でガードしたときに、私の顔面はがら空きになった。

 しまった、なんていうことを考える暇なんてなかった。

 パパンッ!

 好恵さんのワンツーが、きれいに私の顔面に入った。

「葵!」

 視界はぐちゃぐちゃになったのに、綾香さんの声だけが私の耳に入る。

 それに続く好恵さんのラッシュ。

 それをさばききる力なんて、私にはもう残ってない。

 それなのに、意識はこんなときにかぎってさめていた。

 私が負けるのは、当然なのだ。

 私は、今は単なるシングルパンチだから。

 好恵さんの得意のミドルキックでも、その技一つだけではたいした力にはならない。ミドルキック をガードさせた後に続くワンツー、それがあってやっと好恵さんのミドルキックは技としての能力を満たす。

 技一つでは、パンチ一発では、どうにもならないのだ。

 それに続く、他のコンビネーションの技がなくては。

 私はシングルパンチだから負けるのだ。

 一発ではだめなのだ。もう一発必要だった。

 私一人では、だめなのだ。私は先輩がいなければ、単なるシングルパンチなのだ。

 でも、もう遅い。

 好恵さんは、今から私にとどめをさすだろうし、先輩には私はふられたから。

 

 だから、先輩のときと同じように、さっさと負けてしまえばいいのだ。

 

 だから、きっと幻聴だと思った。聞こえるはず、ないから。

「葵ちゃーーーーーーーんっ!!!!!!」

 私は我にかえった。

 好恵さんは大きくふりかぶり、ミドルキックをはなとうとしていた。

 私はとっさに左足から右にインステップしていた。

 そして、近距離からの下から突き出すようなハイキック。

 バチンッ!

 好恵さんはそれを間一髪のところでガードしたが、ミドルキックを空振りし、ハイキックを片手 でガードしたので、バランスを崩していた。

 パパンッ!

 さっきのお返しとばかりに、私はワンツーを好恵さんにたたきこむ、左はガードされたが、右が テンプルをとらえた。

 好恵さんはバックステップで私から距離を取った。

 私は追い討ちをしたかったが、体がいうことを聞かない。好恵さんのラッシュで受けたダメージ は大きかった。

 それより何より、私は声のした方に目をむけていた。それが試合の最中だというのに。

「せ……」

 そこにいたのは、藤田先輩だった。

「センパイ!」

「葵ちゃん、いけるか!」

「は……はい、まだやれます!」

「よーし、じゃあ、坂下に見せてやれ、葵ちゃんの強さを!」

「は……」

 私は体に力がみなぎるのを感じた。

「はい!」

 私は、好恵さんの方を見る。好恵さんは、私を待っていてくれたようだ。

「坂下先輩、いえ、好恵さん。ここからが、私の実力です」

 好恵さんは、何故かうれしそうに笑った。

「やっと目がさめたみたいね、葵。じゃあ、いくわよ!」

「はい!」

 私は好恵さんに向かって大きくインステップした。

 

 試合は、私の負けで終わりました。

 私がフェイントにひっかかり、右の一撃を受けてしまったのです。

 そのまま、私は好恵さんに押し切られてしまいました。

 綾香さんの言葉いわく、「葵は、試合の経験が少ないから好恵にまけちゃったけど、次はそうは いかないわよ、好恵」だそうです。

 

「葵、これでエクストリームをあきらめる気になった?」

 好恵さんの言葉に対する答えはきまっていた。

「いいえ、やめません。私は、これからもクラブを続けます!」

「……言うと思ったわ。まあ、せいぜいがんばるのね」

 好恵さんはすごくあっさりひきさがってしまった。

「正直、はじめから葵があの調子だったら、勝てる気がしなかったわ。私がラッシュをしてた分、 ダメージが葵の方が多かったから今回は私が勝ったけど……」

 好恵さんは、私に向かって笑って見せた。

「強くなったのね、葵」

「は……はい!」

「さてと、じゃあ、私は好恵と帰るから、後からこの彼のことも紹介してね」

「え、彼って……」

 綾香さんはあきれたように肩をすくめた。

「そんなに仲よさそうに手を組んでるのに、今更とぼけても無駄よ。じゃあ、邪魔者は消えるとしますか、好恵」

「そうね」

 綾香さんと好恵さんは、そのまま帰っていってしまった。

「……葵ちゃん?」

「あ、は、はい、何ですか、センパイ?」

「あの、うれしいんだけど……手ぇ、放してくれないかな?」

「え?」

 気付くと、私はセンパイの手を強く握り締めていた。

 私はあわてて手を放す。

「す、すみません、センパイ」

「いや、別にかまわないんだけどさ……それより、葵ちゃん、体大丈夫?」

「え、は、はい、まだ少し痛いですけど、体を動かす分には問題はないと思います」

「そうか、よかった」

 センパイは安心したようにため息をついた。

「それで、センパイ。なんでここに……」

「それなんだけど……俺、昨日色々考えたんだ。葵ちゃんにはああ言ったけど、本当は俺は 葵ちゃんと一緒にクラブをしていたいんじゃないかって」

「私と?」

「そう、葵ちゃんと。確かに、俺は葵ちゃんほど格闘技が好きなわけじゃないけど、葵ちゃんとは ずっとクラブを続けていきたいと思ったんだ」

 センパイは真面目な顔で私にそう言ってくれた。

「本当は木曜日まで待とうかとも思ってたんだけど、もしかしたら今日もいるんじゃないかと思って きてみたら、葵ちゃんが坂下と戦っていて、しかも葵ちゃんが負けそうだったから……」

「センパイ……」

「何で、俺に言ってくれなかったんだ、葵ちゃん」

「それは……」

 それは……私が、センパイにふられたから。

 

 本当に、『告白』したの?

 

「私は、決心してたんです。センパイが、これからもずっと私と一緒にクラブをやってくれるって いうなら、私はセンパイに来てもらうつもりでした。こう見えても、私はあがり癖があって、今までも 試合になると緊張して実力なんか出せませんでした。でも、センパイがいればすごく心強くて、 もしかしたら緊張しないかもと思ってました」

「葵ちゃん……」

「でも、もし、センパイが私と一緒にクラブを続けるのを嫌がったら、私は一人で戦うつもりでした」

「……」

「センパイ、ワンツー……って、知ってますよね」

「あ、ああ、コンビネーションの一つだろ。左パンチの次に右をあわせる。基本のコンビネーションだろ?」

「はい、それは、パンチ一発ではたいした効果はありません。パンチを二つ重ねることによって、その 技は絶大な効力を発揮します」

 センパイは、私が何を言いたいのか分かっていないようだ。

「私も、同じなんです。私一人じゃあ、全然役にたたなかったんです。だから、私……」

 あのときには、そこに私の意思は入ってなかった。

 でも、今は違う。もう、『ツー』を失うわけにはいかない。私は、自分が『ワンツー』だって分かったから。

「センパイ、私と、ずっと一緒に、グラブを続けてください」

「もちろんそのつもりで……」

「ちがうんです、センパイ。あのときは、私はセンパイの気持ちを聞いたんです」

「俺の、気持ち?」

「はい」

 

 告白する前から、負けを認めていた私。私は、そんな戦いを選んだことはない。

 

「今回は、私の意思です。お願いします。私と、一緒にクラブを続けてください」

「葵ちゃん……」

 

 負けるのは、全力で戦った後でいい。

 

「私は、センパイのことが好きです」

 私の得意のハイキックよりは自信がなかったけれど、自信を持って言えた。

 もう、パンチをシングルで終らせないために。

「俺も葵ちゃんのこと……」

 私は初のKOを、大切な人から奪った。

 

終り