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「四か五(シカゴ)」外伝 鬼化粧(オニケショウ)

 

 

 男は駆けていた。

 ハッハッ、と息も荒く、服もはだけている。上等なスーツにも見えるが、それが泥で汚れていくことさえ気にしている様子は、余裕と共にない。

 その駆ける速度は尋常ではない。この闇に包まれた森の中では、近くを通る車のライトも届かない、そんな道なき山の中を、男は車ならば一発免停になるだろう速度で走っていた。

 息は荒く、余裕はないが、きっとこの後生き延びることがあれば、オリンピックに出て何個か金メダルを取ることだってできるだろう。

 そう、この場面から逃げることさえできれば。

 森の中、山の中ならば、それは自分のテリトリー。追い詰められるどころか、苦戦さえするはずはなかった。それなのに、今この男は逃げていた。

 大丈夫だ、逃げるだけなら、どうにでもなる。このスピードに、ついてこれるわけがない。逃げ切れば、もう二度とこんなヘマはしない。

 男はふいに足を止めて、耳を澄ませる。森の中は、まだ人の手が入っていないおかげで、思うよりもにぎやかだ。鳥の声、虫の声、獣の音、闇鳴り。

「いいかげんにあきらめなさい」

 人の声。

「な、追いついたというのかっ!?」

 男は人ならぬ速度で走っていたのだ。いかに後をたどられたとしても、距離は離れているはずだ。だが、その声はごく近くから聞こえた。

 闇夜にたたずむ女の姿は、息を呑むほど妖艶だった。白い化粧と、赤い化粧。闇の中しかし、男の目にははっきりとその姿が写っていた。

 もっとも、この男には、光などさして意味はないのだが。真の闇でなければ、男は5メートル離れた女の顔をはっきりと見れたろう。

「……天狗? ううん、鼻がないところを見ると……廻狗か」

 女はほっと息をついた。

 この女、俺の正体を知っている?

 自分を狙ってきたのだ。自分が人間でないのはばれているとは思ったが、まさか正体を完全に言い当てられるとは思わなかった。

「天狗相手じゃあ、ちょっと明日のお化粧ののりが悪くなるところだったわ。今の装備だと、倒せないもの」

 天狗ともなれば大妖怪だ。いかに彼女が凄腕の退魔士であろうとも、それなりの準備というものが必要になってくる。

「廻狗、山の守護神の成れの果てね。確かにここらも土地開発が進んできたから、自分の山を追い出されたのはわかりますけど……生贄を自分で取ってくるってのは許すわけにはいきません」

 女は手を構える。

「くっ、人間風情に何ができる!」

 自分は山の神だ。人間、それも坊主でもないただの女にどうこうできる訳はない。

 しかし、男のそれは、負け惜しみ、または願望でしかなかった。

 何故なら、すでに男の右腕は、この女の手によって切り落とされているのだ。文字通り、手によって、だ。

「私にできるのは……」

 ゴウッと音を立てて、女の表情が、氷のように凍てつく。その殺気は、男の、いや、人ならざる物の心胆を震え上がらせた。

「あなたを、祓うことです」

 ズダンッ

 女は、大地を蹴って、森の木々の間を駆ける。もうこの一撃からは逃げれない。男はとっさに首を腕でかばった。腕は切り落とされても、またしばらくすれば生えてくる。しかし、首を切られてはそういう訳にはいかない。

 男の人でない赤く血走った目は、女の爪に描かれたものに気付いた。

 ……菩薩?

 女の爪が、一閃された。

 バサリ

 男の頭が、程よいクッションとなった落ち葉の上に落ちた。かばった腕など、その前には紙にも等しく、同じように落ち葉の上に落ちている。

 返り血を浴びた女は、大きくため息をついてから、山を下りていった。

 

 

「では、約束の報酬です」

 スーツケースに入った札束を、千鶴は確認した。二千五百万、相場の十倍以上の値段だ。もちろん、その中には口止め料も含まれている。

「どうもありがとうございます。領収書は……いりませんよね、やっぱり」

 千鶴の冗談に、目の前に座った男は苦い顔で笑う。このことを記録に残してはおきたくないのだ。

 だが、その冗談を言う彼女の顔はまるで童女のように邪気がなく、それなのに非常に美しかった。

「それでは、私はこれで失礼させていただきます。今後ともよろしくお願いします」

 千鶴は席を立とうとしたが、目の前に座る男に声をかけられる。

「よろしければ、この後お食事でもいきませんか?」

「すみません、今日は家族と食事にいく約束をしていますので。また誘ってください」

 千鶴は頭を下げると、部屋を出て行った。

「……よろしいのですか、あのまま帰して」

 ごつい体格の男が、千鶴と話していた男に訊ねる。

「消した方が、いえ、そこまでせずとも、脅しをかけておいた方がよろしいのでは」

 実はこの体格の良い男の言うことはもっともなのだが、それを聞いて顔をしかめた。

「めったなことを言うな、我々はれっきとした一般人だ。そんなことをみだりに口にするものではない。それに……あの女に、そんなものが効くとでも思っているのか?」

「たかが女一人ではないですか」

「……正直、私は倒された怪物よりも、あの女性の方が怖いよ」

 人の手ではどうにもできないものに、平気で手を伸ばす。そして、それを片付ける。いかにこのごつい男が荒事に慣れているとしても、相手にもならないだろう。

「あの女性に比べれば、まだ始末した化け物の方がかわいげがあるものだ。それに、金さえ払っておけば、あの女性はこのことをばらしたりはしない。一応はプロということだ」

 体格のいい男は、憮然としてそれを聞いていた。納得はできないだろうが、上司の言うことは絶対だ。金にならない荒事などこの男としてもする気はない。

「可憐なものには棘があるというが……あれは、そんな生易しいものではないな。あの女は、間違いなく、それが目的で生まれた毒の薔薇だ」

 男は、このことをすぐにでも忘れたいのか、毒気を吐き出すようにため息をつくと、いつもの業務に戻っていった。

 

 時は21世紀。

 非科学的なものはテレビのネタにしかならないこのご時世に、まだまだ非科学的なものは多く存在している。

 むろん、人間にとってみればそれは邪魔なもの、排除したいのは当然だ。

 昔の人間は、その非科学的なものを良く心得ていた。もちろん、うまく扱えるわけではない。ただ、上手に避ける方法を編み出してきただけだ。

 だが、非科学的なものが解明されるにつれ、人はそのせっかく覚えた方法を、ゆっくりと忘れだした。

 簡単なお祈り、簡単な迷信、簡単な習慣。全部が全部そうというわけではないが、中の何割かは間違いなく正しい方法だった。

 もちろん、その多くはただ理由がわかっていなかっただけで、酷く科学的なものだったが、その中に隠れて、これまた酷く非科学的なものが残る。

 人は、それをも克服しようとした。

 こうして生まれた現代の異能者、それが退魔士である。

 これは、現代日本の退魔士の物語の、ついでに外伝のフリーの物語である。

 

 

「ほら、お姉ちゃん、急がないと遅れるよ」

「も、もうちょっと待ってね。もう少しで終わるから」

 四女、初音の急かす声に、あわてて千鶴はお化粧を終える。

 急いでいても、チェックは怠らない。それはもちろん、化粧会社の会長という位置にいる以上、中途半端なお化粧はできないということもあるが、何より、今から会いに行く人には、自分の一番綺麗な姿を見せないと気がすまないのだ。

「もう、亀姉のことなんかほっといて先行くよ!」

「あ、待ってよ、梓〜」

 次女、梓のことだ。下手をすると本当に行ってしまいかねない。

 できの悪いところはない。本当なら後一時間はかけても惜しくないが、今日は特別時間がなかった。これならば、妹達にも手伝わせれば良かったかとも思ったが、今回の仕事は大して難しくなかった。学業やバイトが忙しい妹達の手を煩わせるまでもなかったろう。

「よし、これでOK」

 千鶴は仕上げに白い小瓶に入っている乳白液を手につけ、パンッと一回顔を叩く。

「おら、千鶴姉。急げって」

「今いくわよ、そんなに急かさないで」

 千鶴は鏡の前から立ち上がり、すでに用意してあったバックを手にする。チャネルの新作のバックだが、千鶴は客先からもらっただけなので、あまりそういうものに思い入れはない。

「姉さん、遅い」

 部屋の前で待っていた三女、楓が、無表情ながらも、恨みがましい目で睨んでいる。それもそのはず、今の時間から出ても、約束の時間にはどうやっても間に合いそうになかった。

「仕事があったのはわかるけど、それならもっと急げよな」

 私服では珍しくスカートをはいている梓は、それでも目いっぱいのおめかしをしているように見える。若いし、容姿も抜群な上に、肌もきめ細かい梓には、化粧などほとんどいらないはずだが、慣れないなりに、口紅ぐらいはしているようだ。一応千鶴が手ほどきをしているので、それなりに様にはなっている。

「仕方ないよ、お姉ちゃん忙しかったんだし。それよりも、もうタクシーを前に待たせてあるから急ごう」

 フォローを入れて話をそらし、ついでに急ごうとしている初音は、まだお化粧のいる歳ではない。いや、今の女子高生ならば別にお化粧をしても何らおかしくないのだが、何せ初音は小学生並の外見だ。かわいいフリルの服も、よく似合っている。

「……」

 無言で歩を進める楓は、青と黒を基調にしたシックなドレスだ。白い肌にはお化粧など必要ないだろうが、それでも赤い口紅をしている。梓よりはよほど化粧慣れしているようにさえ見える。

 千鶴はと言えば、当然ちゃんとお化粧はしている。肌は綺麗なので、薄くではあるが、その技術にはプロのメイクデザイナーでも驚くほどのものだ。

 スーツ姿は、どこかのキャリアウーマンのようにも見えるが、その温和な瞳は、決して彼女がきつい性格ではないのを表していた。

 この美人四姉妹が、それぞれにできるだけのお洒落をして乗り込むのは、何のことはない、普通のレストランだ。いつもそこまで高くない場所を選んでいるのは、相手が恐縮してしまうのを恐れた千鶴の配慮だ。今回は向こうのおごりなので、味の方は大丈夫だろうが、そんなに高い店ではないだろう。

 しかし、行くお店が高くなくても、四姉妹にはそれでよかった。

 そう、その相手のために、この姉妹はここまでお洒落をしているのだ。

「それじゃあ、私が言うのも何だけど、急ぎましょうか」

 千鶴は、少しいたずらっぽく笑ってから、玄関に急いだ。

 

 

「遅くなってごめんなさい、耕一さん」

 千鶴は深く頭を下げた。長い髪が頭の動きにあわせてパサリと落ちる。

「いえ、いいですよ。これぐらい」

 耕一は、これぐらいならば待たされることも苦ではなかった。何より、この美人四姉妹を待っているのだ、嬉しいこそすれ、嫌だと思う気持ちはまったくない。

「まったく、遅刻するときはいつも亀姉のせいだからね」

「ごめんね、梓」

 少し怒ったような態度を取る梓も、いつもとは考えられないほどお洒落をして、どこか嬉しそうだ。

「でも、食事ならわざわざレストランなんか来なくても、家でもいいのに」

「ま、梓の料理もうまいけどな。給料日なんだ、俺にもおごらせてくれよ」

「貧乏社会人にたかるほど、うちはひもじくないよ」

 憎まれ口を叩いているものの、梓も今日を楽しみにしていたのだ。

「でも、いつもながらみんな綺麗だね」

「まあ、耕一さんったら。ほめても何も出ませんよ」

 千鶴は顔を赤くして嬉しがる。他の妹達も、反応はそれぞれだが、社交辞令にも聞こえる耕一の言葉に嬉しそうに微笑んでいる。

「でも、本当にいいんですか?」

「何がです?」

「お給料日にはいつも耕一さんにおごってもらってますけど、耕一さん、一人暮らしでしょう? なるべくお金はためておいた方が……」

「まあまあ、いつもお世話になってますから、ここの勘定持ってもお釣りが来ますよ」

 耕一はよく柏木家に顔を出す。週に何度も泊まりに行くことはざらだ。食費は当然出していないし、色々良くしてもらっている。この程度のお返しなら、安いものだ。

「それに、みんなのおめかしした姿を見るのも楽しいしね」

 そろいもそろって美人の四姉妹が、おめかしをしてくるのだ。この機会を逃すようなやつは男ではない。

 一方、そんな耕一の姿は、何のことはない単なるスーツ姿だ。別に高そうでもないし、よれているわけでもない、実に一般的な姿だ。

 その冴えない表情も、この四姉妹につりあうとは到底言えない。もっとも、この姉妹の血をわずかなりとも持っているのだから、実際はかなりの美男子なのだろうが。

 冴えない社会人。そういう言い方が耕一にはぴったりとくる。それでも四姉妹は全員耕一にぞっこんなのだから、おそらく耕一としても他にどう評価されようと問題はないだろうが。

「さて、じゃあ入りますか」

 四人もいるので手を取って、というわけにはいかなかったが、耕一は店の中に入った。

 

 

 出されてくる料理は、耕一が足を使って捜しただけはあって、かなり美味しい。金額も、5人分となればそれなりの金額になってしまうし、決して多くもらっているわけではない耕一の懐には、中々の負荷だが、その価値は充分にあると言える。

 何せ、店に来る男来る男、全員がこちらを見るのだ。美人の四姉妹がそろって座っていれば、仕方のないことだが、耕一はちょっと優越感にひたったりもする。

 柏木耕一22歳、今だ彼女と呼べる相手はいたことがなかったが、それでもいいと思える瞬間だ。

「どうしたの、お兄ちゃん?」

 無言で少し感動している耕一に、初音が話しかけてくる。

 ちなみに、席は耕一、初音、楓、梓、千鶴の順番で座っている。今日はローテーション的に、初音と千鶴が耕一の隣だ。

「いや、こんな美人の三姉妹に囲まれての食事で、感動してたの」

「やい、一人欠けてるぞ」

 すぐに梓が反応する。

「ん? 別にお前のことだとは一言も言ってないが」

「くっ……」

 梓はぷるぷると拳を震わせている。もちろん、抜かれたのは梓なのは言われるまでもない。

「もう、お兄ちゃん、梓お姉ちゃんとケンカしちゃ駄目だよ」

「ちょっと待ってよ、初音。今のはどう見ても耕一一人が悪いだろう」

「いいなー、初音ちゃんはやさしくて。こんな男女の肩を持って」

「そ、そんなことないよ」

 えへへと初音は照れる。梓としては疎外感バリバリだ。

「……耕一、命いらないようだね」

「い、いや、冗談だよ、冗談。そんな姿してるんだから、見間違う訳ないだろ」

「え……」

 その言葉に、梓の顔がボッと赤くなる。今日はスカートをはいているし、胸元を強調する服を着ている。確かに、これを男だと思う者はいない。特に、耕一の目線がどう見てもその豊かな胸に注がれているのに気付いて、怒るのも忘れて腕で隠す。

「女装趣味だろ、いや、胸があるからオカマか」

 シュッ!

 耕一のほほを、今さっきまで梓の手に握られていたナイフが掠めていった。

 カツーンと音を立てて、壁にナイフが突き刺さる。ナイフと言っても、そんな鋭利なものではない。壁に突き刺さるということは、投げた者がナイフ投げの達人か、ちょっと怒った梓かのどちらかだ。

「……」

 ほほに流れる一筋の血に、耕一は顔を引きつらせた。

「すみません、新しいナイフいただけますか?」

「ちょっと、千鶴さん。冷静に反応しないで、助けてくれませんか?」

「今のは、耕一さんが悪いと思います。自業自得ですよ」

 会話に入れなかったので少しすねているのか、千鶴は新しいナイフを受け取ると、それを笑顔で梓に渡した。

「はい、梓」

「ありがとう、千鶴姉」

「ちょ、ちょっと待って梓、話せばわかる人類みな兄弟、な」

「……おいしい」

 横の修羅場はどこふく風で、楓は一人もくもくと食事をしている。ある意味かなりの猛者と言えよう。

 一人殺されそうになっていることさえ除けば、ついでにそれもよくある話なので、ほのぼのとした時間だ。

「それで、最近女性を狙った連続通り魔殺人があるらしいんですよ」

 何とか命をつないだ耕一はそんな話題をふってきた。

「そう言えば、ニュースでやってたな」

 梓は、これぐらいの血生ぐさい話程度には動じないのか、デザートのプリン・ア・ラ・モードを食べている。何故かフォークでだ。

「何でも、血が抜かれてたとか、食い散らかされてたとか、そういうホラーチックな話がいっぱいあったよ」

 どこまでが本当なのかは、テレビを見ていただけではわからない。

「仕方ないんじゃないか? もう6人も殺されてるのに、まだ犯人が捕まらないんだろ?」

 日本の警察はまったくの無能というわけではない。それなりに無能ではあるが、単純にこういった犯人を捕まえるのは、それなりの効果を得ている。

 が、それでも犯人が一向に捕まらないのだ。6人も、深夜とは言え人通りもあるような場所で殺されているにも関わらず、いっこうに目撃者の一人も現れないのだ。

「千鶴さん達は、一人例外はいるけど「誰のことよ」全員女性だから、俺としてはちょっと心配なんですよ」

「大丈夫です、タクシーで帰りますから」

 楓はにべもなくそう言ったが、無表情の顔は、そうは言っていなかった。

「うん、まあそうなんだけど、とりあえず今週は俺が泊まりに行った方がいいかなと思うんだけど、どうかな?」

「歓迎します」

 さっきとはうってかわっての返事だ。もっとも、楓が耕一を嫌っているなど、耕一が心配する程度で、誰も思ってはいないが。

「もう、楓。勝手に決めちゃだめよ」

「話し合う余地、ないから」

 確かにそうだ。耕一が泊まりに来ると言って、嫌がる者は四姉妹の中にはいない。嫁入り前の四姉妹の家に男が一人、というのも世間的に見てどう思われているかはわからないが、従兄弟が家に泊まりに来るのは、そんなにおかしなことではない。

「まあ、そりゃ耕一が泊まりに来るのはよくある話だけどさ」

 さも興味なさそうに言う梓が、実は一番それを心待ちにしているのかもしれない。何せ、耕一にご飯を食べてもらって美味しいと言ってもらえるのは、梓の中ではすごく嬉しいことなのだから。

「もちろん、わたしも反対じゃないよ。ううん、それどころか、すごく嬉しいな」

 にこにこと初音は素直に喜んでいる。耕一は仕事であまり早くは帰ってこれないとは言え、それでも遊んでもらったり、話相手をしてもらったり、耕一に一番かまってもらっているのは初音だ。

「でも、うちからだと、仕事場まで遠くありませんか?」

 耕一が一人暮らしをしているアパートは、仕事場から徒歩で5分だ。それに比べ、柏木家から通うと、電車を使って片道合計1時間近くはかかってしまうかもしれない。単純にそれだけ時間を取られるというのは、社会人にとってみれば、きつい。

「別にかまいませんよ。どうせ、いつもは帰りにどっかに寄って晩御飯食べたりしますから。それを考えると、こっちの方がよっぽど有意義ですよ」

 千鶴の心配を他所に、耕一はそう言って笑った。

 まあ、世の中のどの男に聞いても、通勤が2時間だろうが3時間だろうが、この姉妹と暮らせるならきついなどとは思わないだろうが……

「ね、ねえ、それならいっそ、うちに住めばいいのに」

 話の流れを崩さないように、梓が少しそっぽを見ながらそう言ってくる。

「そうだよ、お兄ちゃん。一々家に帰る必要もないし、わたしも嬉しいな」

「左右に同じ」

「私もそう思います。さっきの話じゃないですけど、女だけの生活は何かと物騒ですし、耕一さんに住んでいただければ安心ですし……その、私もすごく嬉しいです」

 少し照れたように、それでも一生懸命なお願いをする千鶴や妹達を見て、落ちない男はこの世界にいないだろう。

 だが、耕一の反応は違った。

「すみません、それはちょっと……」

「……そうですか。すみません、わがままばかり言って」

「いえ、これは俺の問題ですから。すごく嬉しいんですけど、こればかりは……」

 どうして、とは聞かない。すでに何度も聞いたが、耕一は何故かそれについては一度も教えてくれなかった。

 彼女でもいるのか、そう勘ぐっても見るのだが、よく四姉妹が別々に遊びに行くときも、その様子はない。女性の気配があれば、いかに耕一にジゴロの才能があり、うまく隠していたとしてもさすがに気付くだろう。

 それに、彼女がいるなら、耕一はきっと話してくれているだろうと、四人は思っていた。

「へ、へん、どうせ、エロ本の隠し場所にでも困るからだろ?」

 梓の憎まれ口に、耕一はニヤリと笑った。

「おお、とっておきのがあるから、今度一緒に見るか?」

「だ、誰がっ!」

 ぶんっと梓は腕を振った。恥ずかしさを紛らわすためにやったのだが、手に握っていたフォークがすっぽ抜ける。

 スコンッ

「うおっ、危ねえっ!」

「ご、ごめん、わざとじゃないんだ」

「梓、だからプリンはスプーンで食べなさいって言ってるでしょ」

 結局、今日は新しいフォークも頼むことになった。

 

 少し田舎の大きな家が、柏木家だった。

 耕一や千鶴達の祖父が一代で築いた鶴来屋グループの会長、それが柏木千鶴の肩書きだ。そして、千鶴はさらに自分で化粧品の会社の社長となった。

 「小果実の鶴(ベリー・クラン)」というブランド名は、今は日本のどこでも聞ける名前だ。すでに祖父が手を出していた事業ではあったが、千鶴はそれを鶴来屋グループから切り離し、自分の思うように会社を動かし、そして、今では押しも押されぬ日本のトップの化粧品会社だ。

 下手をすれば長者番付けにも載りそうな、実際、祖父が死んだときは載ったのだが、誰もがうらやむ位置に、千鶴はいた。

 だが、そんなそぶりはいつもは少しも見せない。耕一や妹にはやさしい、いい姉だ。

「服は一度取りに帰りますか?」

「いや、前から置いているやつなかったけ? とりあえず、明日はそれで会社に行って、帰りに色々取ってきます」

「いいよ、ちゃんとクリーニングには出しといたから」

 梓は口調こそぶっきらぼうだが、気配りは四姉妹では初音に次ぐ。人生経験の差もあるし、家事の実務的なことは梓にまかせっきりだ。

「おお、悪いな」

「うちは特に誰とは言わないけど、そそっかしからね。あたしがしっかりしないと、やっていけないよ」

「ちょっと、梓。誰のこと言ってるのよ」

「へえ、一応自覚はあるんだ。そそっかしいお姉さま」

「もう、ほんとに……」

 「耕一の前じゃなかったら怒鳴ってるくせに」という梓の独り言には大きな声に、きっと睨みつけながらも、千鶴は耕一に愛想をふりまいている。

「もう10時ですね、楽しい時間はすぐに過ぎるんですよねえ」

「今日はもう遅いし、これからは遊べないな……」

 ちょっと初音は残念そうだ。しかし、柏木家はそういうところはしっかりしている。もとから夜に遊びに出るような子がいないというのもあるが、門限もあるし、夜はけっこう早くに寝る。

 夜更かし型の耕一には、確かになじめない場所かもしれないが、その分朝は早くなるし、この姉妹達と朝から会えるとなると、プラスの方が大きい。

「今日はもうお風呂に入って寝ましょう」

「ちゃんと出る前にセットしておいたから、すぐにでも入れるよ。誰が一番に入る?」

「耕一さん、一番にどうぞ」

「いや、少し明日の仕事の準備しないといけないから、一番最後でいいです」

「そうですか? それにしても、プライベートな時間も仕事というのは、大変ですねえ」

 耕一は照れたように笑った。

「まあ、俺はあんまり有能じゃないですし、まだ新人ですからね。もうちょっとがんばらないと、すぐに首にされそうで」

 そうなれば、千鶴のつてでいくらでも就職先はあるのだが、耕一の性格から言って、それを良しとすることはないだろう。そういう所も、千鶴にとっては耕一の好きな一面だ。

「じゃあ、わたしから入るね。楓お姉ちゃん、一緒に入ろう」

「うん……」

 初音ちゃんと楓ちゃんが一緒にお風呂……

 ゴスッ

 梓の拳が、耕一の後頭部を殴っていた。

「……って、いきなりなんだっ!」

「どうせスケベなこと考えてたんでしょ、顔に出てるよ」

 耕一はあわてて顔を隠す。確かに、考えていたのは間違いない。まあ、まだ未遂のタイミングではあったが、間違いなく考えていた。

「もう、お兄ちゃんのエッチ」

「……エッチ」

 二人が顔を赤らめて自分を責める様は、ある意味絶景かもしれないと思う耕一だった。

 

 

『今朝未明、○○市の県道で、女性の死体が発見されました。目撃者はおらず、警察では……』

 居間では、テレビが悲惨な連続殺人事件の続報を垂れ流している。

 悲惨かどうかはわからないが、殺人事件が悲惨でないことはなかろう、と耕一は勝手に納得することにした。

「またみたいですねえ」

 耕一はまったく他人事のように口にした。しかし、千鶴は神妙な顔で答えた。

「そうですね、早く犯人が捕まればいいんですが……」

「とりあえず、みんなにも、夜は早く帰るように言っておいた方がいいんじゃないですか?」

「はい、うちの子達はみんな早く帰ってくるので、あまり心配する必要はないと思いますが、それでも……少し心配です」

 こうも連続して、しかも若い女性ばかり狙われれば、千鶴も心配になってくる。妹達が狙われる可能性だってまったくないわけではないのだ。

「千鶴さんも一緒ですよ」

「私ですか?」

「うら若い女性なんですから。しかも、千鶴さんは綺麗だから、連続殺人の犯人に狙われてもおかしくないんですから」

「そ、そうですか?」

 連続殺人犯に狙われることより、耕一に綺麗と言ってもらったことに気を取られて、千鶴は顔を赤らめた。

「仕事、忙しいんでしょう?」

「はい、それはそうですけど、私の場合は仕事場から家までの道はハイヤーなので、襲われる心配はしないでいいと思ってます」

 鶴来屋グループの会長であり、「ベリー・クラン」の社長であり、しかも凄い美人なのだ。普通の生活だって、いつ狙われてもおかしくないと言える。いつも横には秘書兼ボディーガードの、これまた美人の女性がついている。しかも移動はハイヤーなので、よほどのことがない限り大丈夫のはずだ。

「でも、耕一さんが心配してくれるのは、嬉しいです」

 社会でかなりの地位がある人物なのに、千鶴は非常に無防備な顔で微笑む。それが、耕一にはたまらなかった。

「はい、お味噌汁持ってきたよ」

 台所から、初音がお味噌汁の入った鍋を持って出てくる。台所では、忙しく梓が朝食を作っているだろう。

 まだ時間はかなり早い。全員が耕一の生活スピードに合わせているのだ。もちろんそれは嬉しいが、耕一としても少し申し訳なくなってくる。

「楓ちゃんは?」

「楓お姉ちゃんはまだ眠ってるんじゃないかな? 楓お姉ちゃん、朝は弱いから」

「……そんなことない」

 タイミングをはかったように、楓が居間に入って来る。しかし、初音の言った言葉を代弁するように、まだパジャマ姿で、目も寝ぼけ眼だ。

「おはよう、楓ちゃん」

「おはようございます、耕一さん」

 ぺこりと耕一に頭を下げてから、楓は席につくと、うつらうつらしながら、ふと気付いたように千鶴と初音に頭を下げる。

「おはよう、姉さん、初音」

「おはよう、楓」

「おはよう、お姉ちゃん。今日は早いんだね」

「……がんばったから」

 でも、やはりうつらうつらしている。どうも、楓は朝には弱いのは本当のようだ。

「はい、できたよ〜、て楓、今日はもう起きたの?」

「うん……」

 驚きの混じった梓の言葉に、楓は少し反論があるようだったが、それよりも眠気がまさっているようだ。

「まだ起きないと思ってたんだけどなあ。まあいいや、用意はすぐできるから」

「あ、手伝うよ」

 初音は、鍋をテーブルの上に置くと、梓と一緒に台所に向かった。

 耕一がいる分いつもと違った、耕一がいる場合はいつも通りの朝の風景だった。

 

 

「それで、日本退魔協会の方が私のようなフリーの退魔士に何か御用ですか?」

 千鶴の言葉には、少し棘があった。が、フリーの退魔士ならば、一般的な対応だろう。日本に何個かある半官の退魔協会の誰もが、フリーの退魔士に対しての対応が悪いのが主が原因だが、今となっては、どちらが先でどちらが後なのかはわからない。

「そう邪険に扱わないでくださいよ。僕も仕事ですから、とりあえず話だけは聞いていただけますか?」

 千鶴は、日本退魔協会から来たという男を観察した。童顔の、いかにも人が良さそうな、青年、いや、下手をすれば少年と言える年齢かもしれない。

「とりあえず、名詞をどうぞ」

 そう言って、礼儀に則った形で千鶴に名詞を渡す。

『日本退魔協会 対大霊部 人事課 課長補佐 佐藤雅史』

「雅史と呼んでください。佐藤では、誰かよくわかりませんから」

「大霊……?」

 大霊、退魔士が数十人組んで、それでも何人かは、下手すれば半分以上を犠牲にしてやっと祓うような、世界クラスの大妖怪や怨霊のことだ。

「それこそ、こちらはお門違いです。大霊が出る危険性があるのなら、そちらの協会でどうにかするべきです」

 大霊は天変地異と同じだ。だからこそ、それに組織だって対抗する退魔士協会には、それなりの権限が与えられているのだ。大霊が出たなら、当然協会が対応すべきである。

「いえ、対大霊課とは言っても、このご時世、そうそう大霊が出るようなこともありませんから、もっぱら僕達は雑用に使われてるんですよ」

「……それで、その雑用係りが、私に何の御用でしょうか?」

「はい、実は、退魔の依頼をしたくて……」

 千鶴は、目線を横に立っている秘書に移した。秘書はうなずくと、部屋を出ていく。秘書が部屋を出たのを確認して、千鶴は話を続けた。

「聞きましょう」

「この依頼は、僕個人がしてると思ってください」

「わかりました」

 それは、案に、日本退魔協会からの依頼だということを示唆していた。協会は非常に体面を気にする。だからこそ千鶴のような腕利きの退魔士は儲かるのも確かだが……

「今朝、一人の女性が殺されたのを知っていますか?」

「連続殺人魔の仕業と言われていたものなら」

「ええ、それです。殺されたのは、うちの協会の退魔士です。返り討ちにあいました」

「……」

 確かに、退魔士は命のかかっている職業ではある。絶対的に人数が不足しているのもあり、多忙でもある。

 だが、今の日本で退魔士を返り討ちにあわせるような霊や魔はほとんどいないはずだ。今の日本の恩恵(マナ)では、そう強くなることはできない。

「相手は、怨霊の類ですか?」

 それならば、恩恵(マナ)をほとんど必要とせず、今の日本でも大きくなることはあるかもしれない。だが、普通ならば、小さいうちに摘み取られるはずだ。

「それが……どうも、鬼のようです」

「鬼……ですか。今の日本に、残っているという話は聞きませんが」

「雨月山の鬼の話、聞いたことはありませんか?」

 千鶴は、ぴくりと反応した。

「……もちろん知っています」

「その鬼が、現代に復活したようなのです」

 雨月山の鬼の話は、この辺りでは有名な伝説だ。伝説があるということは、その鬼は存在していた可能性が高い。姿形、そしてその話や顛末が違ったとしても、そのモデルになった妖怪がそこにいたとしても、何か不思議ではない。

「……鬼と言えば、大霊と言ってもいいと思いますが、それが何故私のようなフリーの退魔士に?」

 千鶴、「柏木の退魔」の名は、この業界では有名だが、協会にもメンツがある。大霊をわざわざフリーの退魔士に頼むとは思えない。

「ここの部屋は、盗聴されている可能性はありますか?」

 ふいに、協会の青年、雅史は声をひそめた。

「私が自身で録音でもしない限り、この部屋を盗聴するのは無理です」

「それを聞いて安心しました」

 ほっと息をついたのもつかの間、雅史は表情を固くした。

「正直、僕はこの依頼、受けない方がいいと思います」

「……理由は?」

「うちの協会は、まず柏木さんを使って、相手の力量を測ろうとしています。柏木さんに倒される程度の妖怪ならば、問題ない。そして……本当に大霊ならば、それから準備をしても遅くはないと思っています」

 それから、というのは、間違いなく、千鶴が殺されてから、という意味で間違いなさそうだ。

「正直ですね、一応、自分の勤めている協会ではないんですか?」

「いや、こういうやり方は、嫌いですし。親友とかも許してくれそうにありませんから」

「いい親友をお持ちみたいですね」

「はい、今度紹介しましょうか?」

 千鶴は、にこりと笑って、答えた。

「その退魔、受けましょう」

「え、でも……」

 雅史は当惑した。自分が、これだけ話をしたのだ。きっと受けないだろうと思っていたのだ。

「どうせ、私が断っても、他のフリーの退魔士に話が行くだけでしょうし……それに、心配していただけるのは嬉しいですけど、私は負けませんよ。鬼程度には」

「そう……ですか。それでは、契約書にサインをお願いします」

 もう何を言っても無駄だと思ったのか、雅史は契約書を取り出して、机の上に置いた。

 千鶴は、軽く目を通す。

『当方は、契約者がこれによっていかなる損害を受けたとしても、それを補償するものではない』

『退魔が失敗した場合、当方はいっさいの報酬を支払う義務を負わない』

『この退魔に関して、当方に不利になる公共の場での発言、行動を行わない』

……

 よくぞここまで、と言わんばかりのわがままぶりが、そこには書かれていた。だからこそ、フリーの退魔士どころか、民間からも協会が嫌われるのだが、今さらそれを指摘したところでどうなるわけでもない。

 退魔が成功した場合は、自分が損をすることは一切ないのを確認して、千鶴は契約書にサインをした。

 

 

 土曜日の昼、四姉妹は、居間にそろっていた。

 耕一は、今日は会社に出勤している。週休二日が蔓延した今日びだろうと、土曜日が休みと決まったわけではないのだ。まあ、だからこそ今日を選んだのだが。

「それで、相手の戦力は?」

 梓が、もやしの芽と根をぷちぷちとつまんでは取りながら書類を手にした千鶴に聞いた。もやしはこうやって芽と根を取った方が美味しいのだ。

「資料を見る限りでは、大したことないけれど、多分、嘘ね。この程度の妖怪に返り討ちに会う退魔士なら、協会に入れないでしょうし」

「……私達なら余裕です」

 横から資料を覗きながら楓がつぶやく。手には湯呑みを持っている。昼から日本茶だ。もちろん、誰もこれについては突っ込むことはないが。

「でも、それなら千鶴お姉ちゃんだけもで大丈夫じゃないのかな?」

 初音は紅茶を飲みながら言った。テーブルにはクッキーが置かれ、午後のティータイムと言った感じだ。

 それぞれに、かなりリラックスしているというか、いつもと変わらない風景だ。これが、命がけの仕事の前の作戦会議とは思えない。

「それが、どうも相手の拠点が二つある可能性が高いのよ」

「それじゃあ、いくら凶暴な千鶴姉でも一人じゃあどうにもならないね」

「ちょっと、梓、どういう意味よ。だいたい、あなたは耕一さんの前でも私の悪口言うし、耕一さんに印象悪くなったらどうしてくれるのよ」

「へん、いいじゃんか、別に」

「良くないわよ。あなただって、他の人ならともかく、耕一さんに嫌われたら、梓も困るでしょ」

「べ、別にあたしは困らないよ」

 あわてて梓は否定するが、ここにいる四人は、それが嘘なのは十分理解している。

「まあまあ、千鶴お姉ちゃんも梓お姉ちゃんも落ち着いて。お仕事のお話中でしょ?」

「まあ、初音がそう言うなら……」

「そうね。とりあえず、話を戻しましょう」

 初音になだめられ、二人はしぶしぶとケンカを止める。

「どっちが本命かはわかってるんだけど、もう一方も祓っておかないと、そこからまた復活、なんてことにもなりかねないから、今回は二手に分かれようと思ってるの」

「で、珍しく四人集合って訳か。どんな強敵かと思ったけど、拍子抜けたね」

「そう言わないの。それに、強敵だと思わなければ、あなた達に手伝ってもらおうとは思わないわよ」

 のん気な会話だが、千鶴は、相手が強敵だと言っているのだ。それでも、この四姉妹を囲むゆっくりとした空気は変わらない。この程度では、緊張するようなことはない。

「でも、夜に全員出ちゃうと、お兄ちゃん心配しないかな?」

 初音の言うことはもっともである。連続殺人の犯人がまだ捕まらないので、心配した耕一は柏木家に泊まっているのだ。

「今日は遅くなるので向こうに泊まるそうです」

 楓が、残念そうな声で言った。楓にとっては、仕事などどうでもいいので、耕一に家にいて欲しいのだろう。

「もし、早く終わって耕一さんが帰ってきたら、私が会社の関係で食事に誘われたと言えば問題ないと思うわ」

「耕一に隠し事をするのはあんまり賛成しないけど、これは仕方ないね」

 竹を割ったような性格の梓には、嘘を突き通すというのはけっこう難しい。

「じゃあ、夜の準備しておきます」

 すっと楓は立ち上がった。

「わたしも、衣装の準備しなきゃ」

 初音も立ち上がる。ある意味、退魔の準備は、初音が一番時間がかかるかもしれない。

「あたしは別に何も必要ないけど……もやしの下ごしらえしてるよ」

 精神集中とか、退魔具の用意とか、そういうことがほとんどいらない梓は、食事の準備を続ける。ちなみに、このもやしは、明日の春巻きに入る予定だ。

「明日の夜は耕一さんと一緒に食事に出る予定ですから、今日は手早く仕事を済ませて、ゆっくりと寝ましょう。寝不足は特にお化粧ののりが悪くなるから」

「はい」

「うん」

「へ、化粧の心配をしなくちゃいけないのは年増の千鶴姉だけだって」

「……梓、ちょっとこっちにいらっしゃい」

「う、うわっ、ちょっと、千鶴姉、冗談だって!」

 こうして、明日の春巻きの準備は、予定以外のことに大きく時間を割かれることとなった。

 

 千鶴は、化粧を綺麗に落としていた。

 いわゆる「すっぴん」の状態だが、肌は透き通るように綺麗だ。それだけを見たら、化粧はいらないとさえ思える。

 そこが、「ベリー・クラン」の発展した理由だ。

 化粧は、塗るためのものではなく、落とすためのもの。それが「ベリー・クラン」の考える化粧品だ。

 毎日の手入れを欠かさず行うこと、つまり肌の「手当て」をすることによって、肌のコンディションを保ち、人を綺麗に見せる。もちろん、その後でお化粧はするが、一番大事なのはその「手当て」。

 だから、千鶴はどんなに忙しいときでも、肌のケアを欠かさない。それこそが、千鶴の美しさを保つのだ。

 「ベリー・クラン」は、専門のアドバイザーが、家にまで行って肌のケアを教えるのだ。そうすることにより、より化粧の効果があがることを、千鶴は経験で知っていた。そして、それを広めたのだ。

 専門のアドバイザーと、そのアドバイスで択ぶ化粧品。そうやって、「美」を追求するこそ、今の「ベリー・クラン」がある。

 そこから、化粧水、乳液、クリーム、ファンデーション、パウダーなどでベースメイクをして、マスカラ、アイシャドー、口紅などで整えていく。

 素材が悪くないので、どれもそんなに濃くする必要はない。必要なだけ、あくまで薄くだ。

 化粧が終わると、今度はその細い指の先にある爪の手入れを始める。

 いや、手入れというにはいささか語弊があろう。それは、千鶴にとっては刀の手入れにも似た行為なのだから。

 ヤスリで形を整えて、ベースコートを塗り、その上からマニキュアを塗る。それがかわくのを待って、細い筆で爪に絵を描いていく。

 千鶴の爪に描かれるのは、菩薩。千鶴は、器用に自分の爪に菩薩を描く。使われている絵の具も、製法は門外不出のであり、さらに高位の僧侶に儀式をしてもらって作った特注品だ。

 神々しいまでの弥勒菩薩が、千鶴の爪の上に鎮座する。

 これが、千鶴の主戦力、菩薩の爪だ。いかなる妖怪、魔に対してもコンスタントに、しかも場合によっては絶大な威力を誇る。

 その絵をさらにかわかし、上からコーティングを済ませ、準備完了だ。

 そして最後に、特別な精製方法と儀式で作られた乳白色の液、「御神白」を手に取る。

 「御神白」を、千鶴は手早く手に伸ばして、ほほを叩いた。

 パンッ

「よしっ!」

 千鶴は、気合いを入れて鏡の前から立ち上がった。

 

 

 山の中の古ぼけた神社、そこが目的地だった。

「ねえ、千鶴姉、普通は神社って、そういう類は苦手とする場所な気がするんだけど」

 何故か黒いシスターの服を着て、それでも汗一つかかずに山を登っている梓は、しごくまともな質問をした。

 千鶴はと言えば、お化粧には気合いが入っているが、服装は普段着だ。もっとも、そのロングスカートには大きなスリットが入っており、ほとんど脚を見せない千鶴には珍しい服装だ。きっと耕一が見たら泣いて喜ぶだろう。

「それも御神体があってのことよ。神社って言っても、もう何年も前に、いかにも不便だからって移転してるらしいの」

 確かに、こんな山奥では、祭りにも使えないだろうが……

「いいのかよ、神社が移転なんかして」

「正しい手順さえ踏めば問題ないのよ。もっとも、そこに退魔の必要な妖怪だか魔だかが巣食ってるとなると、正しい手順だったかどうかは怪しいけれどね」

 もれてしまった恩恵(マナ)を糧にして、それが育った可能性は低くない。いくら神社自体の移転に祟りがなくとも、それで大霊並の妖怪や魔が育っては、仕方ない。

 この山に登っているのは、千鶴と梓だけだ。初音が気づいたのだが、人払いの呪がかけてあるらしい。もっとも、この四姉妹には、その程度の弱い人払いの呪など、効きはしない。

 楓と初音には、もう一つの拠点に向かってもらっている。こういう手合いは厄介なのだ。拠点としている場所のどちらかが残っていれば、力はそう簡単にはなくならないし、一度祓っても復活する可能性まである。

 いわゆる地脈の強い場所を拠所とすることによって、力を得るのだ。もっとも、それは行動範囲を狭めてしまうし、地脈から切り離されてしまうと力を無くすという弱点もあるが、それでもやっかいなのにはかわりない。

 それも、あくまで他の退魔士ならばだ。地脈から拠所を切り離すなど、この四姉妹にとっては朝飯前だ。少しは護衛もいるだろうが、楓と初音の敵ではなかろう。

「にしても、退魔士を返り討ちにしといて、その処理もしないような頭のめぐりの悪いヤツだろ? あたしがいるのかよ、千鶴姉」

「何、来たくなかったの?」

「当然だよ。明日はミサもあるし、耕一と食事行くんだろ? 今日疲れたら明日に響くよ」

 梓は、かなり男っぽい性格だが、今は教会でシスターをやっていることもある。部活も忙しいので、日曜日のミサ程度しか出れないが、それでもかなり人気者らしい。行って見てきた初音の話によると、どう見ても梓狙いの信者というのもいるそうだ。

「何言ってるのよ。まだ若いのに、おばさんみたいなこと言わないの」

「あたしはまだ若いから気まで若くする必要がないだけだよ、誰かさんと違って」

「梓、あなたねえ」

 千鶴は苦笑しながらヒュッと爪を梓に向かって振った。

 ズバシュッ!

 実体のないはずの悪霊が、千鶴の菩薩の爪でズタズタに引き裂かれる。

 オオオォォォ

 怨念の悲鳴をあげながら、引き裂かれた悪霊は宙に四散する。

「実体が濃いわね。単なる悪霊だと思うけど……」

 千鶴の菩薩の爪は、死したものには絶大な威力を発揮するので、大して悪霊など怖い相手ではないが、確かに悪霊は実体がないはずなのに、臓腑を撒き散らしながら霧散した。

 死霊、悪霊の類は、この日本でもそれなりの能力と霊体を持つことができるし、色々と、人の生死が関わるような悪さもできる。

 だが、半分実体を持ったような悪霊は、この恩恵(マナ)の薄い日本では普通無理な話だ。

 それが、実体を持った悪霊が、二人の行く手を阻むように、神社の前の階段にあふれていた。これは素人でも見れるレベルの実体化だ。

「よっぽど、ここに邪気がたまってるんじゃない? それとも、地脈の力があふれ出してるのかもね」

 梓は、手にした十字架を前にかかげる。

「とりあえず、ザコは一掃するけど、相手に気付かれるよ?」

「かまわないわよ、逃げたら地脈と切り離せば、それこそ単なるザコになるから」

「りょーかい」

 梓は、神社の前の階段にあふれる悪霊の中に、十字架を手にかかげたまま、ゆっくりと歩を進めた。

 ただ殺意と生への執着で現世にとどまっている悪霊は、近づいてくるものを見境いなく攻撃してくる。当然、近づいた梓にもだ。

『主よ』

 凛とした、そして暖かい声色が山の闇夜に響いた。

 梓に襲いかかろうとしていた悪霊達が、梓から流れだす声に、動きを止める。

『永遠の安息をかれらに与え、絶えざる光をかれらの上に照らしたまえ』

 この世に残る生にしがみついたものを、天に送るのは難しい。それは、神がその存在を許していないからだ、と言われている。

 しかし、許されざるものを、天に送ることも、ただ消滅させているだけなのかもしれないが、梓にはできた。

『かれらの安らかに憩わんことを』

 十字架が、強く輝き出す。梓の歌う鎮魂歌(レクイエム)に反応しているのだ。

『父と子と聖霊の御名によって』

 破壊と同等の、絶対的な光が、梓を包み込む。

 目の前にいる全ての自然ならざるものを、強制的にこの世から消し去る、有無を言わせぬ鎮魂。

『アーメン!』

 ヒュパンッ!

 何かを弾くような音と共に、悪霊達は天に召されたか、または滅せられた。普通ならば、退魔士がダース必要な悪霊の数であろうと、梓の前では攻略のわかっているパズルゲームと同じだ。

「はい、お疲れ様」

「まったくだよ。普通なら、これだけの鎮魂、一千万はかかるよ」

 その言葉に嘘はない。正規の手続きをして退魔士を協会からやとったとしても、一千万以下になることはまずないだろう退魔だ。

「けっこう消耗した?」

「いつもよりは平気だよ。ここはどうも恩恵(マナ)が濃いみたいだね」

 梓のような神官系の退魔士は、日本では数少ない。直接恩恵(マナ)の影響を受けてしまうので、消耗が激しいのだ。

 梓は、それを自分の霊力で補っている。膨大な量の霊力を扱えるからこそ、今のような死人が出ても不思議ではない退魔を一瞬でやってのけるのだ。

「今日はもう休んでいいわよ」

「そういうわけにもいかないよ。ちゃんとボスは倒しとかないとね」

 そうは言うが、おそらく今回の退魔のターゲットは、千鶴一人でやることになるだろう。そのために、梓にまかせて自分は温存しておいたのだ。

 大霊とは言わないまでも、それと同等近い力があると千鶴は判断していた。でなければ、協会から自分に仕事がまわってくるわけがないのだ。

 軽やかに千鶴は長い階段をあがっていく。梓も、体力はあるので、その後を少し息を切らせながらついていく。梓は身体が疲れたのではなく、霊力を消耗しているのだ。

 千鶴もひしひしと感じていた。それと同時に、自分の身体に力がわくのを感じる。

 やはり地脈から力があふれているのだ。そのせいで、ここにいる悪霊は活発になっていたし、おそらくここに住む鬼を偽る妖怪だか魔は、退魔士を返り討ちにするほどの力を手に入れているのだ。

 階段をあがった場所にあった神社は、古びた貧相な神社だった。

 人どころか、妖怪の気配さえない、何の変哲もない神社。情報ではここに敵は潜んでいるはずであるし、ここまで地脈の力がもれている場所で、何もないわけがない。

 すでに鳥居も外され、階段をあがったところにある二匹の狛犬だけが、ここが神社だったことを推測させる。

 千鶴は、軽くまわりを見渡して。

 びゅんっ!

 狛犬を狙った爪は、空を切った。狛犬が千鶴の爪から逃げたのだ。

 そのままとーんとーん、と飛び跳ねて千鶴から距離を取ると、その狛犬は固そうな口を動かして、饒舌にしゃべりだした。

「ここは人が足を踏み入れるべき場所ではない。ただちに引き返せ。でなければ、その五臓六腑引きずり出し、八百万の神の供え物にしてくれるぞ!」

 カクカクカク

 狛犬の口が、不恰好に動く。

 千鶴は、その言葉を聞いたものの、小さく笑った。

「ここは、人の世界よ。あなたのような、小物が好き勝手していい場所じゃないのよ」

「このわしを小物呼ばわりするか。我は、神社の守り手、霊格高い山犬ぞ」

 神を祀る神社を守る狛犬。確かに、日本の霊獣の中では格が高い。神社の中にいれば、神格クラスの大霊など以外には、ほぼ無敵と言っていい。

「すぐに引き返すのだ。であれば、生きながらえることもできよう」

「私達が帰って生きながらえるのは、あなた」

「まだ言うかっ!」

 カクカクカク

 怒りのせいかのか、また狛犬の口が揺れる。むしろ、よく見れば滑稽なのかもしれない。

「ねえねえ、いつまでその猿芝居に付き合ってるんだよ、千鶴姉」

 やっと階段をあがってきた梓が、一息ついてから二人の言い合いを止めた。

「言うに事欠いて、猿だとっ!」

 それがよほど腹に据えかねたのか、狛犬はぱっくりと開いた口をガクガクゆらしている。犬猿の仲とは言え、そこまで嫌だったのだろうか。

「ねえ、千鶴姉、いちいちそんなのに付き合ってやるなよ。面倒だろ」

「でもね、梓、悪役の口上ぐらいは聞いてあげるのが正義の味方ってものよ」

 千鶴は自分の言葉に妙に納得しながらうんうんとうなずく。

「そんなことはどうでも良いのだ。猿とは何か、猿とは!」

 えらくご立腹の狛犬に、梓は大きくため息をついて向き合った。

 そして、何を思ったのか、スカートのはしをすっと持ち上げる。健康的な脚を、黒いストッキングが包んでいる。

 そして、その脚の側面には、黒いゴムがつけてあった。

 素早く太もものゴムに十字架をつがえると、梓はそれを引き絞った。

「……あ?」

 狛犬が、梓が何をしようとしているのか、およそ理解に苦しんでいる間に、梓の太ももから、十字架が放たれた。

「シュート!」

 ザクッ!

「ひぎゃぁぁぁぁぁ!」

 梓の太ももから放たれた十字架は、狙いたがわず狛犬の眉間に突き刺さっていた。狂ったように、狛犬は悲鳴をあげる。

「もう、駄目じゃない。有無を言わさず倒そうとしたら」

「いいから、向こうもそろそろ本性現すよ。後は千鶴姉にまかせたから」

「き、貴様ら……」

 狛犬の身体に、パリパリとヒビが入る。

「き、き、き、貴様ら」

 壊れたレコーダーというよりは、調子の外れたラップのように狛犬は言葉を繰り返している。

「いいから、いくよっ!」

 スカートの下にストックしてある十字架をかかげ、梓は祈りを捧げた。

『天軍の総師よ、この世をさまようサタンと他の悪霊たちを、神のおん力によって地獄にとじこめ給え』

 梓の声に反応するように、狛犬に刺さった十字架が光る。

『父と子と聖霊の御名によって、アーメン!』

 パンッ!

 狛犬の額がはじけた。神がこの狛犬だろうとサタンだろうと、全部一緒くたに扱っている証拠だ。神の御心は神のみぞ知る、である。

 今度は、狛犬は悲鳴もあげなかった。

「き、き、き、き、キ、キ、キキキーッ!」

 狛犬の背中が割れ、中から狛犬よりも大きな身体の怪物が飛び出した。そのままその怪物は神社の方まで飛びながら移動する。

「キキキーッ、犬なんてオイラたちの前じゃあ単なる獣」

 形容するならば、ゴリラ、と言えば一番近いのだろうか。しかし、その姿は、どう見てもゴリラなどではなかった。

「キッキキッキー、さっさと帰ってれば、後ろから不意打ちしてあげたのに、つれない女どもだよ」

「犬の次は、猿か」

 梓が疲れたようにため息をついた。もういい加減、この妖怪の話も聞き飽きてきた。

「腐り猿ね。猿の死体に、怨霊が宿ったのね。普通はここまでは成長しないし、猿の妖怪なんて珍しいけど、まあ、大方どこかに封じられてたのが出てきたのね」

「正解だ、キッキー。人間なんておいらを封じることしかできなったんだよ。かわりにおいらは30人ばかし殺してやったけどね、キキキーッ」

 猿は軽率な口調とは裏腹に、ずるりと嫌味たらしいしたなめずりをする。

「やっぱ人肉は女がうまいね。封印がとけてからも、何人かいただいたけど、とくに最後の女はよかったねえ、こう肉に深みがあるというか……」

 ギロリと、血走った目が千鶴と梓を睨みつける。

「お前らも、うまそうだよ、キッキッキのキーッ!」

 その巨体には似合わないスピードで、猿は千鶴に襲いかかった。

 ぶおんっ

 丸太のような腕についた、鋭い爪が空を切る。

「怪物対決かよ」

 少し離れたところで、梓は見物人になっていた。隙だらけだが、そこから梓を狙うとなればそれなりに距離があり、後ろを見せれば千鶴の爪の餌食だ。そこまで考えて距離を取っているのだ。

「怪物とは」

 ガキィンッ!

 千鶴の菩薩の爪のある細腕が、猿の太腕から繰り出される爪を受け止めた。

「心外ね」

 ズバッ!

 千鶴の爪が、猿の腕に傷をつける。当たりは浅かったが、爪を受け止めたときでも、千鶴は少しもびくともしなかった。

「ほら、言った通りじゃないか」

 まさか千鶴が力で勝っているとは思えないが、基本のスピードが違いすぎる。またたく間に大小の傷が猿の身体につく。

 それにしても……浅いわね。

 何度かは致命傷かと思われる深さを入れているはずなのだが、猿は最初と同じスピードで攻撃を繰り返している。さすがに軽口はなくなったが、それにしたって妙である。

 千鶴が怪訝な顔をしたのに気付いたのだろう、聞かれもしないのに、猿はペラペラとしゃべりだす。

「キキキーッ、仏教の神の力なんて、もう封印される前に何度も体験してきたよ。今さらその程度の呪力でおいらは殺せないよ〜」

 確かに、爪の感触は、重い上に、ほとんど深い傷を与えているようには思えない。

 しかし、自分の武器が猿に大して効いていないことに、千鶴はまったく動じなかった。

「そう言えば、今日はけっこういい加減にネイルアートしてきたから、できが悪かったのかしら?」

「ちょっと、千鶴姉、こんなところで手を抜くなよ」

 梓も不平は言うものの、まったく動じた様子はない。

「でも、今用意しているのはこれだけだし、あれをすると明日のお化粧ののりが悪くなって嫌なんだけれど」

「キキィ?」

 少しは動揺すると思っていたのか、猿は首をかしげた。相手の動揺を誘うのも、れっきとしたこの猿の戦術の一つだ。おそらくは、今まではそれなりに効果をあげてきたのかもしれない。

「でも、仏教系の効きが悪いなんて資料にはなかったわよ。きっと調査の手抜きね。だから協会の退魔士が返り討ちにあったのね」

「今度死ぬのはお前らだキーッ」

「冗談」

 梓ははんっと鼻で笑ってスカートの中に隠してあった十字架を片手に二本ずつ、合計四本取りだす。

「キキキー、今度は胸の大きなお譲ちゃんが相手かい?」

「梓、前から思っていたんだけど、そのスカートの中に武器を入れるのはやめさない。はしたない」

「いいじゃないか、人の趣味にけちつけるなよ」

「キキッキーッ、おいらを無視するな〜!」

 自分の存在を主張するように猿は千鶴に猛攻を続けるが、攻撃を止め、守りに徹している千鶴にはかすりもしない。

「んじゃ、いくよ!」

 梓は手にした十字架を器用に投げつける。丁度投げナイフの要領だ。

 だが、十字架は一本しか猿の方には飛ばず、その十字架も、猿はいとも簡単によける。これが人間ならいざ知らず、この猿を狙うにはいささかスピードが足りなかったようだ。

「キキキーッ、下手くそ〜」

 その言葉を、また鼻で笑うと、梓は取り出した十字架を天にかかげた。

『神の御母よ、我らの祈りを聞き入れ、御助けをもってすべての害悪から我らを守り給え』

 地面に突き刺さった四本の十字架が、十字を形取り、千鶴と猿を囲む。

『父と子と聖霊の御名によって、アーメン!』

 パキーンッ!

 神聖な光の膜が、千鶴と猿を囲むように形成される。

 強力な結界だ。かなり消耗していた梓には辛い祈りだったかもしれないが、この準備は必要なのだ。

「後は、頼んだからね」

 そう言うと、梓は力尽きたのか、その場にへたり込む。

「キキキーッ、すごい結界だよ。でも、おいらは逃げる気なんてさらさらないよ〜。それとも、おいらを地脈から切り離したかっただけかな〜」

 確かに、その結界は、もれる地脈の力をも遮断している。一日二日もこのままにしておけば、この猿の力はだいぶ弱められるかもしれないが、そんなにこの強力な結果を保てる術者がいるなら、それこそこの猿など余裕で消滅させることができるだろう。

「もちろん、意味はあるわ。いくら何でも、まわりの被害が大きすぎるから」

 そう言うと、千鶴は首から下げているペンダントにしては大きなものを取り出した。貝、普通の白い貝に見える。

 合わせ貝だ。昔の人が、薬などを入れるのに使ったものだ。

「キキィ?」

 千鶴は薬を塗るような怪我はしていないし、毒などが入れてあるとしても、そんなものがこの猿には効くとは思えなかった。

 千鶴は、合わせ貝を開く。赤いものが中には入っていた。

 千鶴は左の小指でそれをすくうと、それを器用に唇につけた。

「キキキーッ、死化粧かな〜」

 それは紅だ。千鶴は、何を思ったのか化粧直しをしているのだ。

 千鶴は懐紙を取り出すと、はむっとそれを口にくわえた。離した懐紙に残るのは、千鶴の真っ赤な唇の後。

 ピンッと千鶴は懐紙を指で弾いた。

『鬼に化粧し魔を祓う』

 懐紙は、宙を舞うと、地面に着く前に手品のように燃え尽きる。

 ゴウッと、千鶴のまわりにを風が舞う。姿は変わらないのに、千鶴の立つ石畳が割れる。物理法則に反して、自重が増えているのだ。

『鬼化粧(オニケショウ)、鬼姫!』

 石畳が千鶴を中心に割れる。千鶴からあふれ出す力に、石は耐え切れなかったのは。

「キキキキキッ!!!」

 あまりのことに、猿は叫ぶことしか忘れていた。先ほどまででも十分その女は人間離れしていたが、今のその姿はまさに。

 千鶴の爪に描かれていたネイルアート、菩薩の爪の絵が割れる。千鶴の、すっぴんの自爪だ。全てを切り裂くための。

 千鶴から流れる冷気にも似た殺気に、猿は縮こまった。

「あなたを、祓います」

「こ、こんな、キキッ、聞いてない、これじゃまるで……」

 千鶴は、爪を構えて、腕を一閃した。

 ズバシュ!

 とっさに受けたその哀れな、いや、嫌な猿の太く長い腕と、分厚い胸を、一振りで引き裂いた。

 ドサッと上半身だけが地面に叩きつけられるのを感じながら、猿は思った。

 さまに、鬼。

 飛び散る血の赤。それよりも、千鶴の唇を彩る紅は赤く、ただ彼女は美しく、強かった。その頭に一本でも二本でも、まるで角が生えているように。

 グシャリ

 もう一振りで、千鶴は猿の頭を砕いた。

 真っ赤にそまった自分の手を、千鶴は悲しそうに見ていた。それは本当に悲しそうな顔で、耕一がいたら抱きしめてしまうほどに。

「……明日は耕一さんとの食事なのに、服を汚してしまったのはともかく、化粧ののりが悪くなるわ……」

 はあっ、と大きなため息をついてから、千鶴は残った猿の身体を踏み潰して、懐紙で紅をふき取った。とたん、今まで吹き荒れていた力の奔流が治まる。

「梓〜、もういいわよ」

「了解。まったく、相変わらず凄いよねえ、この破壊力。同じ血が流れてるとは思えないよ」

 梓は、結界をとく。千鶴の奥の手、鬼化粧を普通に使うと、ここら一体をなぎ倒す可能性があるので、梓が結界役をやっているのだ。

「あら、そんなこと言って。梓も、ゆくゆくはこれを使えるようになるわ。柏木家の血を継ぐ者、私の妹ですもの」

「勘弁して欲しいよ。あたしは千鶴姉と違って、平凡な人生を送りたいんだ」

 もちろん、その平凡な人生に、耕一がいてくれれば、梓としては何も望まないのだが。

 それでなくとも、こんな無茶苦茶な術は、下手に使えば人生を棒にふる。千鶴だからこそ使いこなしているのだ。それだけは、我が姉ながら尊敬してもいい、と梓は思っていた。

「楓と初音に電話してみて、そっちが終わったようなら、帰りましょう」

「もし、あっちが終わってなくて、こっちのやつが復活したらどうするんだよ」

「もちろん、もう一回やるのよ。私もお化粧ののりが悪くなって心苦しいんだけど」

「うへえ、勘弁してよ、本当に」

 携帯から電話をかけながら、梓は心の底から嫌がった。

 

 

 全てが済んだ後、ほんの数時間後。

 千鶴が猿を踏み潰した状態のまま、放っておかれている。後数時間もすれば、後処理に協会の人間が来るだろう。

 だが、そのつぶれた肉塊の中に、うごめくものの姿があった。

 いや、うごめいているのは、その肉塊そのもの。

 ぶはっと息ができるまでに固まった肉塊だった猿は、大きく息をはいた。

「ふー、死ぬかと思ったキーッ」

 どちらかと言うと、死霊やゾンビ系であろうから、すでに死んでいるのだが、この猿は一人でもこういうことを口にするのが癖なのかもしれない。

 千鶴に引き裂かれ、踏み潰された身体は、もとのものと比べると、非常に貧相だが、それでも人間の体格は裕に超えているし、ニ、三人も食らえばそれも回復するだろう。

 やっと自分の足で動けるようになった猿は、いまいちうまく動かない身体をずるずるとひきずってこの場を離れようとした。

 まだ、並の退魔士に遅れを取ることはないだろうが、正直猿は混乱していた。昔の恩恵(マナ)が濃い世界でも、これほどまでの退魔士はいなかった。自分が封印されている間に、人間はどうにかなってしまったのだろうか。

 あんなものに何人も襲い掛かられては、いかに不死身の身体とて朽ちる。

「あの岩猿でさえ神になったキーッ、この程度で倒れるおいらじゃないよ」

 あのいけすかない岩猿は神となったが、自分はまだこの世でうごめいている。あの岩猿もバカなものをしたものだ。人間の手助けをして、神になるなど。

 人間の血肉の味を覚えたら、退屈な天界など、天界があればの話だが、我慢していれるわけがない。

「それにしても助かったキーッ」

 あのまま地脈から切り離された状態であの力にさらされていたら、いかにこの猿とて危なかった。大霊まで後一歩のこの猿を、千鶴達は油断してしとめそこなったのだ。

「キキキッキのキーッ、あの女どもは、わかってないよ。怪談の定石ってものを。ここから復活するのが、怪談の醍醐味ってものなのにね〜」

「まったくだ」

 気配はなかったのに、いつの間にか階段の上に、一人の男が立っていた。

「千鶴さんもつめが甘いよ。いや、あの人の爪は甘いなんて生ぬるいものじゃないけどな」

「キキキーッ! だ、誰だ!?」

 並の退魔士ならば、今でも十分撃退できるが、もし並ではなかったら……

 猿は汗腺など持たない身体に冷や汗をかく。

 しかし、そこにいたのは、何の力もなさそうな裸の男だった。

「……男の裸なんて見たくないキーッ」

「まったく、同感だ」

 男はふざけたように言った。この猿よりも、その男はもっとふざけていた。

「キキキーッ、何でそんな格好してるんだよ。おいらを殺したかったら、もっと重装備で来ないと。いや、もうおいらは死んでるけどね〜」

 調子を取り戻したのか、男に力がないことを感じて余裕が出たのか、猿が饒舌にしゃべる。

「いや、そこの木の根元に置いてあるぜ」

 男の指差す場所には、男の服が全部脱ぎ捨ててあった。

「……聞いてないキー、死ね」

 自分がおちょくられるのに腹をたてたのか、もとからその気だったのか、はたまた両方なのか、猿は男に飛び掛った。

 猿の爪の一撃を、男は難無く避ける。

 が、ほほに一筋の傷が走っていた。もっとも、猿か首をはねるつもりだったのだから、よく避けたと言えよう。

 これで猿は階段の方に来た。今なら逃げれるだろうが、もう少しこのもれる地脈の力で回復しなければ、後が苦しい。

 この程度の人間、殺すのは訳ない。

 男は、親指でそのほほについた傷をなぞった。

「キキキーッ、男は趣味じゃないが、とりあえずお前を食って回復だよ」

「そいつは、残念」

 男はそう言うと、血のついた親指を、額に押し付けた。

 ピッと、血の線が男の額に描かれる。傷をもう一度なぞると、今度はさっき書いた方とは反対の額に血の線を描く。

 男は、笑った。

『鬼と化粧し魔を祓う』

「キキッ、まさか……っ!」

 男の額に描かれた、二本の血の角は、そのまさかだった。

『鬼化粧(オニケショウ)、血鬼!』

 男の身体が、膨れ上がる。それにともない、男の立つ石畳が割れる。それは千鶴のときの比ではなかった。

 その腕は、まるで丸太のように太くなり。

 その脚は、異常なまでに筋肉を発達させ。

 その胸板は、笑ってしまうほどに厚くなり。

 その身体を、体毛が覆う。

 それは、まさに変化。鬼への変化だ。

 グオオオオオオォォォォォォォ!

 全ての獣の眠りを妨げるように、そして脅かすような咆哮。

 人ならざる者へと変化した男の牙も爪も、猿の比ではない。まさに、この世界で一番強い生命。

「千鶴さんもまだまだだね。力が外にもれるようじゃあ、一流とは言えない」

 まさに、その通り。男の身体からは、一片の力ももれていない。全てを、その身体の中にためこんでいるのだ。

 か、勝てない。

 猿は驚愕した。もう、その咆哮を聞いた瞬間に、戦意は喪失していた。

 勝てないどころの話ではない。このままここにいれば、確実に滅せられる。

 猿は、きびすを返して階段を飛び跳ねるように逃げる。

 もう捨てゼリフのような言葉もない。逃げなければ、この世から猿は消滅する。それを肌で感じ取ったのだ。

 ばっと、何かが猿の上を通り過ぎた。

 ズダンッ

 猿の目の前に、その鬼は回りこんでいた。何のことはない。一気に跳躍してきたのだ。

「キ……キ……」

 硬直する猿の首を、鬼はつかんだ。

 ズダンッ!

 小さくもない猿の身体を片腕で持ったまま、鬼は階段の上まで跳躍する。

「キ、放せ、キキッ!」

 さっきの千鶴のやった惨劇のあった場所まで猿をつかんで持ってくると、鬼は猿の首から手を放した。

 ズドンッ!

 そして、鬼の腕が、猿の身体を貫いていた。

「俺の鬼は、完膚なきまでに、お前の魂をズタズタにするぜ」

「や、やめ……」

 ズバシュッ!

 鬼は、猿の身体を引き裂いた。

 ただそれだけなのに、猿の身体は灰となって霧散した。

 魂を握りつぶした手をしばらく恍惚とながめ、男はその変化を解く。

 身体全体の筋肉が、老廃物のようにこそげ落ちる。それも、すぐに風化してしまう。後に証拠は残さない。

 この鬼のことは、四姉妹にもまだ秘密なのだから。

「さてと、さっさと帰るか」

 耕一は、抜いていた服を着込むと、柏木家への帰路へと向かった。

 

 

「連続通り魔殺人の犯人、まだつかまらないらしいですね」

「まあ、だからこそ耕一が家にいるんだろ」

 バンバンと梓は耕一の肩を叩く。

「何だ、梓。邪魔なら帰るぜ」

「何だよ、耕一。あたしはともかく、初音や楓のこともほっといて帰るのかよ」

 確かに、梓の性格では、襲われる、という動詞は思いつかない。

 今日の食事は順番で梓と楓が耕一の隣の席に座っている。梓は上機嫌だし、楓もいつになく嬉しそうだ。

「帰ってしまうんですか?」

 少し不安げな楓の表情を見て、耕一はうっとなる。かわいい子にこんな顔をさせるのは耕一の本望ではない。もっとも、たまには見てみたいという気もしないでもないのが問題だが。

「梓はともかく、他のみんな見捨てて帰ったりしないよ」

「そうですか」

 楓はほっとして息をつく。

「何、あたしはどうなってもいいって言うの?」

 かなり怒った声で梓が浩之の耳をひっぱる。

「いてて、耳をひっぱるな。どうなってもいいって言うか、襲う方に同情するね。きっと片方は免れないだろうしな」

 何が片方なのかは、梓だけならともかく、他の三人がいる前では言及しないことにした。

 今日の食事は懐石料理だ。おかげで、ナイフが飛ぶということはなさそうだったが、箸で目を突き刺されないように気をつけなければならないだろう。

「明日は休みをもらえたんだけど……土日に休みをもらえないと、みんなと一緒にいられないなあ」

「うん、いくら何でも、わたし達が学校休むわけにはいかないしね」

 初音はそう言ってちろっと舌を出した。その仕草に耕一はぐっと来た。

 個室なので、この四姉妹の魅力を独り占めだ。他の男共に見せびらかして優越感にひたるのもいいが、こうやって一人じめというのも、やはりいい、かなりいい、ものすごくいい。

「でも、このまま犯人がつかまらなかったら、耕一さんはこのままうちに住むんですか?」

「いや、そういうわけにはいかないでしょ。殺人犯がなりを潜めたら、また戻りますよ」

 千鶴の少し期待したような言葉を、耕一はすぐに否定した。

「そうですか、いつでも言ってくださいね。耕一さんが一緒に住んでくれることが、私の、私達姉妹の共通の願いですから」

「……すみません」

 耕一には珍しい曖昧な笑み。千鶴も強制しようとは思わない。いや、強制したって一緒に暮らしたいが、耕一の自主性にまかせるしかできない問題なのだ。

「……にしても、ここの料理うまいですね。梓の料理の次ぐらいに」

 その言葉に、梓はボッとゆで蛸のように顔を真っ赤にする。

「もう、おだてても何も出ないよ!」

 パアンッ!

 力一杯梓は耕一の背中を叩いた。

「いでえっ!」

「お、お兄ちゃん!」

「梓姉さん、酷いです」

「ちょ、あたしは単にスキンシップで背中叩いただけで……」

「まったく、この暴力的なところは誰に似たんだが」

「……胸以外は千鶴姉」

「梓、言っていいことと悪いことが……」

「ま、まあ、千鶴さん、落ち着いて」

「いいですから、背中見せてください。怪我でもしていたら大変です」

「か、楓お姉ちゃん、お兄ちゃんの上着脱がさなくても!」

「あら、ストリップショーですか?」

「その冗談、シャレになってないって」

「うわ、し、下はいいだろ、楓ちゃん!」

 とにもかくにも、この家族は、平和そうだった。

 

「な、何でみんな手伝ってるんだよ!」

 

終わり