この世界の花は、「花喰らい」によって、全て封印されている。
**********
優は、息を切らせて、彼女の元に走って来た。
サラサラの髪が、風になびく姿は、思わず見とれてしまうほどかわいい。上気したほほも、どこか希望にあふれるようなうるんだ瞳も、申し分ない。
彼女は、一人、樹の下で、そうやって走ってくる優を、嬉しそうに眺めていた。
どこか寂しげに笑う彼女の表情は優の到着と共に消え、後には、少し意地悪そうな笑顔だけが残った。
とりあえず、ちっちっち、と小動物を呼ぶように指を動かす。
「よーし、来い来いポチ」
「誰が犬だよ!」
優は、彼女の前で急停止すると、息も切れ切れにつっこみを入れる。
確かに、主人の下に駆け寄る子犬にも見えないことはない。そういう愛らしさなら、本人の意見はどうあれ、捨てるほどある。
「いや、何となく。似てるかなあって。ちなみにポチって猫ね」
「あのねえ…どっちでも一緒だよ」
優は、大きくため息をついた。それでも、にじみ出る嬉しさを隠し切れずに、顔がほころぶ。
彼女も、それをちゃかしたりはしない。嬉しいのは、幸せなのは、同じなのだ。
「そんなに急がなくったって、私は消えていなくなったりしないわよ」
「…」
「あ、ごめ〜ん。笑えない冗談だね」
黙った優を、気遣うわけではないのだろうが、彼女は、カラカラと笑い飛ばした。
「気にしない気にしない。明日は明日の風が吹くって言うし」
そう言いながら、彼女は優の頭を抱きしめる。優が、泣きそうな顔になっていたからだ。女性にしてはわりと背が高い彼女が抱きしめると、身長の低い優の頭が、丁度彼女の鼻の辺りに来る。
すーっ、と彼女は優の髪の匂いをかぐ。
「いい匂い…」
「わ、ち、ちょっと!」
慌てて、優は彼女から距離を取った。彼女も、無理矢理捕まえておく気はなかったので、素直に優を解放する。
「恥ずかしいなあ、もう」
優は、顔を真っ赤にして怒るが、声には力がない。そんな優を、彼女は微笑ましく思う。
「優って、ほんとに18歳男なの? 女の子みたいな良い匂いがするのに」
栗色の、赤ちゃんのような柔らかいショートカットの髪。
クリクリとした大きな、潤んだ琥珀色の瞳は、何かを訴えかけてくるように感じられる。
ほりの浅い、すこしまるっこい顔立ちは、男のそれというよりは、少女のそれに近い。
ほとんどひっかかるものがないようななで肩に、160センチを切るか切らないかの低い身長。
見事なまでの美少年、いや、美少女にしか見えない。しかし、これでも、優は今年で18歳。日本で一般的に考えても、成人に近い年齢なのだ。
「気にしてるんだから、言わないでよ」
「いいじゃない、かわいくて。私は好きよ」
その一言で、優はもう何も言えなくなる。自分が気の弱い方ではない、と優自身思っているのだが、どうしても、彼女の前では、自分が子供のような錯覚を覚える。
優と彼女は、このまま、寮の門限まで、どうでもいいような会話を続ける。
永遠に続けばいいと思う、幸せな時間。しかし、それが永遠ではないことを、お互いにわかっていて、その会話を避けるわけでもなく、淡々と、二人は時を過ごす。
「卒業試験が近いんだって?」
「うん。論文の方の出来は、悪くないよ。ただ、実技は、あんまり良い点数取れないかもね」
「どうして?」
「どうしてって、やっぱり、才能のある人間には、負けるよ。光とか、凄いんだから」
それを聞いて、ムウッと、彼女はほほをふくらませた。
「こんなときに、他の女の子の話をするのは、ルール違反だと思うな」
「他の女の子の話って…別に、名前出しただけじゃないか。それに、性格は悪いかもしれないけど、やっぱり光は凄いよ。僕なんかじゃ、全然…」
仕方のないことだとわかってはいても、優は悔しそうに唇を噛んだ。
人並みに、いや、人以上に努力をした。単純に努力した量だけならば、同級生の中では、一番だという自負が優にはある。
しかし、それでも成績は上の下。
勉強や運動だけなら、まだいい。知識は、頭の中に何度もたたき込めば、非効率ながらも覚えられるし、ちゃんと身体を鍛えていれば、一番は無理でも、それなりの結果を出すことはできる。
しかし、ここは普通の学校ではない。優の通う学校の名は、日本東京魔法学校、通称、東法。
日本で唯一、魔法を教える教育機関だ。
魔法は、霊儀技能と呼ばれる超常能力の技術の中でも、有名なものの一つだ。
世界最大級の霊害、「花喰らい」によって封印された花を、解花させることのできる、唯一の技術。その免許は、専門の教育機関を出なければ取れず、それなりの希少価値を持つ。
しかし、いかに技術が希少価値の高いものであれ、使う者の技量に左右されるのは、技術である以上仕方のない話だ。
優は、はっきり言ってしまえば、才能に恵まれていない。才能に大きく左右される霊儀技能にとって、才能がないことは、致命的だ。
努力が結果として出ないのだ。優が一ヶ月をかけてもできないことを、光なら、一日もあれば十分こなすだろう。それだけの差が出て来る。
「ほらほら、いじけないいじけない。東法の男の子だっていうだけで希少価値があるんだから、問題ないって」
「…それって全然慰めになってないよ」
「そうかな? 希少価値ってのは、大事だと思うよ、ほんと。コレクター必須ってやつだね」
「慰めどころか、慰み者っぽいんだけど…」
優は、一部の趣味のコレクターも生唾者の外見なだけに、酷く笑えない話だ。
「だいたい、いじけるぐらいなら、いっそ一番を取ればいいじゃない」
無責任ここに極まったような応援に、優は苦笑した。
「無理だよ。とりあえず、落第はしないだろうけど」
「駄目だなあ、そんな低い目標じゃあ。よし、じゃあ、こうしよう」
「何だよ?」
彼女は、表情を改めて、真面目な顔で、優を見つめた。
「約束しよう、優。卒業試験で、一番になって」
「え…」
いきなりの彼女の提案。何もかもすっとばしたような言い出しだったが、彼女の真面目な顔に押し切られるように、優は口を動かす。
「む、無理だよ。どうあがいたって、勝てないものは勝てないんだから」
「そんなことないよ、優。優がどれだけ凄いか、私、知ってるんだから。だって、本当に、優にならできるじゃない」
どうにも、誇らしい気持ちと、そして羞恥心が、優の表情を二転三転させる。
「…それは、僕に人生の汚点を残せってこと?」
彼女がそこまで自分のことを褒めてくれるのが、信じてくれるのが、誇らしくもあったが、しかし、その方法が、あまりにもまずい。
「あんなことやったら、一生笑い者だよ」
優にも、確かに自信はある。それなら、一位を取れるかもしれない。しかし、後の人生を引き替えにしたいか、と言われると、躊躇してしまう。
魔法は、いや、魔法に限らず、霊儀技能と呼ばれるものは、感情の高ぶりで、威力を増す。
色々制約も多いし、ただ単純に感情が高ぶっただけでは、威力が上がるものでもないし、上がったとしても、制御できるものではない。
だが、その人その人によって、馴染む感情というものがある。それは怒りだったり、悲しみだったり、喜びだったりするのだが、自分に合った感情の高ぶりならば、飛躍的に能力があがることも、たまにある。
優は、そのタイプであった。偶然に見つけた「馴染む感情」ならば、同級生の間では、ダントツトップ、向かうところ敵なしの光にさえ、勝つことができるかもしれない。
優が躊躇するのは、その感情の高ぶりを、起こす方法だ。
そんな優の葛藤を、まるで断ち切るように、彼女は、言葉を続ける。
「私も、約束するよ。優が、一番になったら、私…」
その続きの言葉に、優は、逆らえなかった。
**********
優は、他の生徒とは違い、手ぶらだった。試験では普通、魔法の媒体を呼び出す霊力も惜しむものなのだが。
実技内容は、いたって簡単。花を、できるだけ多く解花させることだ。
この世界の花は全て封印されている。
世界最大級の霊害にして、魔法の開祖と呼ばれる、「花喰らい」によって、この世の花はことごとく封印されてしまっている。
その封印を解く方法が、唯一、「花喰らい」が使っていた、魔法だ。
花の魔法使い。それが魔法を使う者を、一般人が認識するときに出てくる、最初の単語だ。
花は、どのような霊儀でも、冠婚葬祭でも、日常生活でも、重要な役割を担っている。神をあがめるとき、死者を弔うとき、子供が生まれたとき、何かしらの儀式を行うとき、彼女を喜ばせたいとき。
封印された花ではあるが、需要はどこにでもある。花を唯一解花できる、東法の卒業者は、その多くが花屋に就職する。
花の魔法使いと言えば、女の子の一番あこがれる職業だ。だから、どうしても、生徒は女性が多くなる。優の同級生に、男はたったの四人しかいない。
花の封印を解く、解花であるが、これは東法で一番最初に教えられる魔法だ。しかし、基本であるからこそ、試験には丁度良い。その人間の地力を見るに適していると言える。
単位の最低本数が、十本であるので、ここで単位を落とすことはないとは言え、花屋以外に就職するつもりならば、ここで大きくアピールしておくのは、後に響いて来る。
観客席には、親御さんにまじって、協会の偉い人や、スカウトマンが多く来ているだろう。三年間も、霊儀技能を専門的に教える機関は少ない。だからこそ、すぐに戦力となるわけだ。
優も、東法に入った目的はそれであったのだが、今はそんなことを気にするほどの余裕はなかった。
きゅっと、拳を握りこむ。
顔は、真っ赤に上気しており、緊張しているだけとは、到底思えない。そのおかしな様子に、順番が優の後の女の子が、不思議そうな顔で優を見ている。だが、優はそれにも気付かない。
そんなこと、できるわけがないのだ。
この場から、何もかも捨てて、逃げ出したい衝動にかられる。だが、優にはそれができない。約束という言葉が、優を、ここに留まらせる。
彼女の提示した交換条件を考えると、それこそどんな手を使っても、一番にならなければならない。
どんな手を…そう、どんな手を使ってもだ。
例え、それが人生を滅茶苦茶にするとしても、ここだけは、この約束だけは、果たさなくてはならない。
舞台の方から、大きな歓声があがった。それも当然、今試験を行っているのか、優の同級生でも、飛び抜けた能力を持つ、神上光だ。
もし、試験の時間が、五分ではなく一週間だったなら、そしてその条件下で、公平に試験が行われたとしたら、歴代のどの魔法使いよりも、光は多くの花を解花させたことだろう。
そうでなくとも、同級生の中で、飛びぬけた結果を出しているのは想像できた。
大きな拍手と共に、光が舞台裏に戻ってくる。そして、優を見つけると、フフン、と意地の悪い笑みを浮かべて、肩を叩く。
「観客は暖めておいてあげたわよ」
光の言葉は激励でも何でもなく、単なる嫌がらせだった。能力が飛び抜けているため、誰も文句は言えないものの、光の性格の悪さは、周知の事実だ。
「じゃ、せいぜいがんばってね」
嫌がらせの相手にはこと公平な光だが、優がよく嫌がらせの対象として目をつけられるのは確かだった。外見から言っても、虐め易いのかもしれない。
しかし、優は、嫌な顔一つできなかった。そんな余裕は、今の優にはない。
かわりに、恥ずかしさに顔を赤くしながらも、優の目には、決意が宿っていた。
良くも悪くも、光の言葉で、優は、今自分が何をしなければいけないのか、理解したのだ。だから、ここで恥ずかしがっている暇はない。
いや、恥ずかしがる必要は、あるのだが。
そんな優の態度に、光は、一瞬ほうけて、すぐに渋面を作った。さすがに暴れることはないものの、反応の薄い優の態度に、満足しなかったようだ。
いつもなら、後からの報復が恐くて、何かしら反応するのだが、優には、もうそんなことなど、どうでもよかった。
『五十三番、
アナウンスが、優の名前を呼んだ。
光のパフォーマンスによって、まだざわつく場内に、優は物怖じすることなく、姿を現した。
舞台には、事前に用意された、解花されていない花が、所狭しと置いてある。試験では、これを解花させていくわけだ。
優の姿を見て、パンフレットを確認している観客が何人もいる。優の外見を見て、一瞬、女の子だと思ったのだろう。しかし、制服は男のものだし、何より、パンフレットにも、男と書いてあるはずだ。
この試験はスカウトマンが、生徒を見極めるための、お披露目会でもあるのだ。パンフレットには、詳しく生徒の情報が書かれているのだ。そこに、男と書かれているのに、女の子のような顔の生徒が出てくれば、驚くのは当然のことだ。
ビーッ、と合図が鳴る。それで、さっきまでざわついていた観客達は、一様に黙った。
『試験、開始』
そのアナウンスがあっても、優は、五秒ほど動かなかった。おや? と思う観客もいただろう。
優は、手に何の媒体も持っていなかった。いわゆる、魔法の杖というものを、だいたい皆手にしているのだ。杖である必要はないとは言え、手ぶらというのは珍しい。
さらに、三秒かけて、優は、大きなため息をついた。
それで、覚悟は終わった。
優は、手を前にかざした。
「『
その一呪文だけで、手に優の魔法の杖、長さ一メートル少々の、木製の杖が出現する。上部には、青い宝玉が埋め込まれ、作りは精巧だ。
杖の名前は、「One Of The Witch」。優の魔法の媒体だ。
その杖を手にして、優は、顔を上げた。
「あ…」
声を出す。ちゃんと発音できているようだった。あがって声が上ずるというようなこともない。
観客達は、いつまで経っても解花を始めようとしない優を、いぶかしげに思っているだろうが、まだざわつくというほどでもない。
優は、杖を構えた。そして、ただ一点を見る。それは、観客の方に向けられてはいたが、見ているものは、そこにあるものではなかった。
僕、絶対に、やってみせるから。
「『
だから、僕は、恥をかこう。
「…
杖から放たれた帯状の霊力が、優の身体を包み込む。
一瞬で、着ていた制服が分解される。帯が優の身体に巻き付いたため、ぎりぎり成人指定を受けずに済むほどの、きわどい姿だった。
その帯は、虹色に光りながら、足先から形状を変え、優の身体を包んだ。
黒いハイヒールに、黒いストッキング、膝よりも長いロングスカートで、袖の長い、やはり真っ黒なワンピースドレス。杖の宝玉とおそろいの、青いイヤリング。
最後に、帯は、ふちが広く、頭の先がとんがった、大きな黒い帽子に姿を変え、優の手の中に収まる。
手にした魔女のとんがり帽子を、優は頭に乗せた。
そこには、さきほどまでの、女顔の男子生徒の姿はない。どこから見ても、魔女見習いの、または魔女のコスプレをした、女の子だった。
自分が女の子の格好をしている、という自覚が、優の顔を真っ赤にさせる。
と同時に、黒いスカートをめくるほどの勢いで、優から霊力が放出された。霊儀関係の人間は、思わず身構えるほどの、純粋な、そして平常では考えられないほどの量の、霊力の放出だった。
それも、制御出来ずに、少し漏れた分でしかないのだ。
「嫌…だ」
優の口から、殺しきれなかった思いが、吐き出される。その声はか細く、まるで可憐な乙女のようだった。
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。
優の頭の中は、その言葉がリピートするばかりだった。恥ずかしくて、何も考えられない。
自分の人生が、もう取り返しのつかないことになってしまったのだと、優は思った。
どこに行っても、卒業試験で女装したことは、ついて回るのだ。きっと後ろ指さされて、「奥様、知ってらっしゃる? あの子、女装が趣味なんですって」などと影で、もしかしたら面と向かって言われるのだ。
ああ、なんでこんなことやってしまったのだろう。どこで、僕は間違ったのだろう。
その思いが、さらに優の霊力を高める。
感情の高ぶりは、霊力を高める。そして、その感情の種類には、合う合わないがある。
優に合うのは、羞恥心。それも、合いすぎるぐらい、合う。限界を超える辱めを受けた優の霊力は、たがが外れたように、上昇の一歩をたどる。
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい…でも。
一瞬、霊力の放出が、消える。それは、一秒にも満たなかっただろうか。
それでも、僕は。
優は、一点を、にらみつけると言っていいほど、強く見つめた。
そこにはいない、彼女を見るために。
僕はぁっ!!
ドンッ!!
さきほどよりも、さらに強い霊力の放出が、場内を揺らした。それは、すでに爆発物と同じだ。その力は、一度放出されれば、後は広がるのみ。
優は、呪文を唱える。その声さえ、まるで鈴がなるような、綺麗な声だった。
「あるところに、継母にいじめられる、一人の女の子がいました」
とつとつと、語るは、誰でも知っている童謡。それが、優の呪文。
「彼女の名前は」
パンッ、と優の手にある杖が握りつぶされるようにして、消える。手に残るのは、サラサラと流れ落ちるる、わずかな、灰。
「『
優の手から、膨大な量の灰が、宙に放たれた。それは、解花されていない花、観客と問わず、会場内にくまなく降りかかる。
観客達が恐慌に陥る前に、優は、手に残った灰を振りかざしながら、さらに呪文を続ける。
「かわいがっていた犬は」
くるくると舞台で回りながら、踊るように、両腕を大きく広げる。それに合わせて、スカートのすそも広がるが、優は、それすらもう気にしなかった。
踊る優は、妖精の様と言っても過言ではないほど、神秘的な姿をしていた。しかし、優は、男。
「灰になって、土の中より、風に乗ってどこまでも」
くるくるくるくるくるくるくるくる。
霊力が、その灰一粒一粒にまで流れ込むのを、優は感じていた。信じられないほどの高揚感が、優を襲う。
「枯れ木に、花を、咲かせるように」
踊る優の目の前の解花していない茎に、花が一輪、解花する。それが、合図だった。
「『
花、花、花、花、花、満たされるは、どこまでも、花。
間隔さえなく、優の呪文と同時に、場内が、花で満たされる。どこを見ても、花。ただただ、その空間は、花で埋め尽くされた。
準備されていた花だけではない。大量の解花されていない茎に解花させただけでは飽きたらず、あまった霊力は、さらに花を召喚し、場内を、花で埋め尽くした。
用意されていた、鉢植え四百二十三本、切り花三千四本。
召喚した花一万七千二百九十八本。
合計二万七百二十五本の花が、一斉に、咲き誇った。それは、東法の卒業試験の歴代記録を、大きく上回っていた。
埋め尽くされた場内にいる観客達は、あまりのことに、誰も何も言えず、そして動けなかった。それほど、圧倒的なまでに、花は咲き乱れた。
退魔協会の一流のスカウトマン、礼儀省のお偉いさん、現代の魔女と呼ばれる学長でさえ、驚いた顔で、花と、その花に包まれた優を、呆然として見るばかりであった。
花に埋め尽くされた、壇上という名の花園で、優は、スカートのはしを持ち上げて、ちょこん、とお辞儀をした。
**********
「あー…」
「元気出してよ、優〜」
彼女に頭をゆすられても、優はうなだれたままだった。
「僕は、もうだめだ。僕のことはいいから、先に行って」
「どこによ」
彼女は、くすりと笑って、うなだれて丸くなっている優の頭を、優しく抱きしめた。
「そんなに嫌なことがあったの?」
「…就職活動で、協会の面接受けたんだけど…」
「ふんふん」
「「ああ、あの女装の…」って、言われたから、走って逃げて来た」
「…ぷっ」
優の落ち込みようは、仕方のない話なのかもしれない。
女装ぐらい、と中には思う人もいるかもしれないが、優は昔から女の子のようだと言われ続けて来て、どうしようもないコンプレックスとなっているのだ。
それに、優にはまったく女装の趣味はない。変身願望とかそういうもの以前に、かわいくなりたいなどと思わずとも、かわいいと言われ続けて来たのだ。
人が、自分をそういう風に見ていると思うだけで、優は恥ずかしくて仕方ないのだ。考えてみれば、そんな場所で、仕事など出来るわけがない。
人の噂も七十五日と言うが、当の本人にとってみれば、そんな甘いものではないのだ。
何より、優の反応が正しいかのように、協会や、それに付随する機関からのオファーが、一つも来ていないのだ。
歴代一位の結果を出したにも関わらずだ。だったら、そのやり方に問題があったと思うしか、仕方ないではないか。
しかし、優が本当に落ち込んでいるのか、そして彼女の顔を正面から見られないのは、そんなことが理由ではなかった。
もっと辛い現実に目を向けるぐらいならば、そうやって就職先が見つかっていないという、どうでもいいような悩みでへこんでいるように演技していた方が、何百倍も良かった。
優は、約束を守った。だから、交換条件に出された約束を、彼女に要求してもいい立場なのだ。だが、それを彼女に告げることが、できないでいた。
「それで、卒業試験の結果は?」
「…」
優は、黙るしかなかった。迷うことなく、完全な一番だった。飛び抜けていた光でさえ、解花の数は五百を超えることはなかったのだ。そんなもの、考えるまでもない。
「ねえねえ、卒業試験の結果はどうだったの? いいよ、どんな結果でも、私は、受け入れるから」
それが、さよならを言っているようで、優には我慢できなかった。しかし、今口を開けば、何を言うかわからない。だから、優はうなだれたふりをして、黙っているしかなかった。
意固地になって、何も言わない優を、彼女は笑った。悲しそうに、優しそうに。
顔をあげない優の耳に唇を寄せて、耳を噛むようにしながら、彼女は、求めた。思わず、優は彼女の方を向いた。
彼女と視線が重なる。彼女の瞳は、言い表せないような感情がつまっていた。
数秒、二人はじっと、見つめ合い、彼女は、口を開いた。
「約束、させてよ」
彼女は、優に、黙っておく、という選択肢を、選ばせなかった。
「…一番だったよ。文句なし」
「論文の方は?」
「三位。でも、実技の方が飛び抜けてたから、首席卒業になるよ」
「…そっか。よかった」
にへら、と彼女は嬉しそうに、無防備な笑顔を作る。優の胸が、ジン、と高鳴るが、それを無理矢理、流れ出しそうになった涙と共に押さえる。
「じゃあ、私も、約束するね」
「…いいよ、約束なんか」
「駄目。約束は、ちゃんと守らないと。せっかく、優ががんばってくれたんだから」
「いいよ、約束なんて。卒業試験のおかげで、僕の人生が狂ったって」
「…何、私を責めてるの?」
彼女は、少しむっと表情をゆがめる。しかし、優は、その顔を、いとおしく眺めていた。
「僕のことなんか、どうでもいいんだ。だから、ずっと、このまま一緒にいて欲しい」
「…あー、これって、プロポーズ?」
にはは、と彼女は少し照れる。
「うん、プロポーズ。どう?」
返事は、わかっている。しかし、冗談でも何でもいい、優にとっては、それが本当に、それだけが本当の願いだったのだ。
「でも、ごめんね〜。私、結婚できないから。だって、私人間じゃないし」
「何を今更」
それだけの問題なら、何と楽しかったことだろうか。
「それに、もうちょっとで、消えちゃうし」
それも、知っている。だから、あんな約束をすることができるのだ。消えない人には、まったく必要のない約束なのだから。
「だから、約束」
あくまで、約束にこだわる彼女に、優は、背筋が凍った。
「…もしかして」
「うん、もう、あんまりもたないみたい。ぶっちゃけて言うと、後数分って感じ?」
彼女は、こんなときでも、笑って、優を抱きしめていた。
「…だから、ね。約束、させてよ。私、もうちょっとで消えちゃうけど、やっぱり、約束って守るためにあるもんだと思うんだ。してたらしてたで、どっかで強制力とか、働くと思うんだ」
「…」
したい。しなければならない。約束、しないと。
しかし、した時点で、彼女は消えるだろう。今でも、多分かなり無理をしている。どんな結果になるかわからないけれど、無理は、やはりよくないだろう。
でも、しなければ、それこそ取り返しがつかなくなる。
したら、彼女は消える。
優の葛藤は、彼女にも伝わっているだろう。しかし、彼女は、ただ繰り返す。
「約束、しよ?」
わずかな希望に、すがるしかないだろうか?
この状況を、芸術的に覆す手はないのか。あったなら、悪魔に魂を売ったっていいのに。
しかし、なかった。優は、それを見つけられなかった。消えゆく彼女を、そこにとどめる手だては、見つからなかった。
それに、優が卒業しても、彼女は、ここから動くことができないのだ。この樹と、その周辺のみが、彼女の世界。
優は、声を絞り出した。
「…や、約束…する」
「うん」
彼女は、ひまわりのような笑顔で、優の手を取った。そして、今度こそ、優の真っ正面に立って、優に約束する。
「約束。私は、生まれ変わって、全部忘れちゃうだろうけど、それでも絶対に、優に会いに行くから」
「約束、守ってよ」
「そっちこそ、浮気しないでよ」
「無理だよ、僕も、今までのこと、忘れないと駄目なんでしょ?」
理不尽とも思える、忘却の約束。
「それでも。女心、勉強した方がいいよ」
お互い、泣きはしなかった。それはもうずっと前から決めてたことだから。
彼女がいなくなれば、全てを忘れる優には、涙も出ない。だから、二人の、しばしの別れには、涙は一滴さえない。その方がかっこいいと、彼女は優に言ったから。
「でも、そのころには僕はおじさん、ううん、下手をすれば、おじいさんだね」
「ロリコンなら三十歳までには何とかできるんじゃない?」
「ロリコンか。女装趣味で、ロリコン。救いようがない人間になっていくような気がするんだけど」
「いいじゃない、私は、好きなんだし」
優は、すでに彼女の手の感触を、感じなくなっている。肌も、もうほとんど透けてしまって、見えなくなっている。
それでも、最後まで、たわいない話を続けようと、やはり、決めていたから。
「二十を超えたら、ブクブクと太ってるかもよ」
「それだったら、私は男に生まれ変わろうかな?」
「デブの三十路と、十歳の少年のカップルか…駄目だ、物凄く嫌なんだけど」
「だったら、努力して、かわいいままでいてね。私も、綺麗な姿で、会いに行くから」
「うん、少なくとも、摂生はしとくよ。最低、長生きしないとね」
「もちろん。今度会えたら、嫌ってほど」
唐突に、彼女の声は切れた。
そして、優は、一瞬も目をそらすことなく、彼女の消える姿を目に焼き付けて。心の奥底に、詰めるだけ詰めて。
最後に、彼女はにっこりと笑って、その身体は淡い光に包まれ。同じように、優の身体も、忘却の約束が、火を灯して。
そして、消えて。
「…あれ?」
彼女を、忘れた。
優は、きょろきょろと、辺りを見回した。大きな木の下、自分がいつの間にこんな人気のないところに来たのか、思い出せない。
「…このごろ、疲れてるもんな」
首席卒業ができそうなのはいいとしても、そのせいで就職できないというのは、本末転倒もいいところだ。
優は、大きくため息をついて、木にもたれかかった。
春の足音も近づいてきている午後の日差しを肌で感じて、優は、久しぶりに穏やかな気持ちになれた。
思えば何故か、こんなに穏やかな気持ちになることはなかったように、優には感じられた。しかし、そんな時間も、すぐに遠くからの声で遮られる。
「あ、いたいた!」
聞き覚えのある声を聞いて、優は思わず、身構えていた。もちろん、自分の身を守るための動きだ。
「まったく、こんな人気のない場所にいないでよ。捜すのに手間取ったじゃない」
「…光?」
神上光。優の同級生であり、現在は次席ながら、同期の中では飛び抜けた能力を持つ、危険な才女だ。飛び抜けた能力、というだけなら、危険などという言葉はつかないのだろうが、そこがついてしまう辺りが、光の怖ろしい所だ。
その光に呼ばれる理由を、優はさっぱり思いつかなかった。何か伝言を頼まれたとしても、光なら、その程度のこと取り巻きにやらせるだろう。
「何で、こんなところに?」
「別に、理由はないけど…」
「まあ、その方がこっちとしては都合がいいんだけど…」
「え?」
「ううん、こっちの話よ」
何か不穏な言葉を光が言っていたような気がして、優は気が気ではなかった。光は飛び抜けた能力を持つ才女だけに、自尊心も強い。実技で一番を取られたときなど、恐くて誰も光に近づかなかったぐらいだ。
もしかして、そのことで、
どこか他人事のように、優はそんなことを考えていた。暴力的だが、バカではないので、そんなことはしない、と思う反面、何をしてきてもおかしくない怖さが、光にはある。
見たところ、そんなに不機嫌でもないので、とりあえず身の危険はなさそうなのだが。
光は、わざとらしく目をそらすと、早口でしゃべりだした。
「ね、ねえ、もうちょっとで、私達も卒業だね」
「え!? あ、いや、うん、そうだね」
「何か私、変なこと言った?」
いきなりどもった優を、光はいぶかしげな顔で見る。
「う、ううん、そういうわけじゃないんだけど」
光が、そんな物凄いどうでもいい世間話をふってくるとは、夢にも思っていなかったので、驚いた、などとは口が裂けても言えないところだ。
「色々あったわよねえ。三年間なんて、長いようで、けっこう短かったわよね」
見紛うことない、卒業を控えた学生の、普通の会話だった。
「うーん、まあね」
「何よ、その気のない返事は…って、駄目駄目、もっと落ち着いて、私」
後の方は小声だったので、優には何かごにょごにょ言っているようにしか聞こえなかった。
優が気のない返事をしたのは、光の真意を読めなかったからなのだが、光は、話の振り方がまずいと思ったのか、話を変える。
「優は、卒業したら、どうするの?」
「どうするって言うか…このままだと、フリーターだね」
「へ? 何で?」
本当に何故だかわからない、という顔で光は首をひねった。
「今のところ、就職できてないから」
「え? どうしてよ? だって、このまま行けば、私を追い抜いて、首席卒業でしょ? しかも、ぶっちぎりで新記録達成っていうおまけつきで。スカウトが来ないわけないんじゃない」
「そうは言うけど…」
女装趣味の(趣味ではないというのをちゃんと説明して)、危ない人間を雇いやいという雇い主はいないだろう、という意見を、優は光に語った。
愚痴を聞いてもらえるのは、沈んだ気持ちが少しでも晴れるし、何より、自分の惨めな姿を知ったら、首席を取られた腹いせを止めて、笑われて済むかもしれない、と思ったからだ。
しかし、予想に反して、光は、それを聞いて、何故か酷く怒った。しかも、優にではなく、スカウトをよこさない退魔協会に対してだ。
「何よ、それ。そんなもんで、人格決まるわけじゃないじゃない!」
「…ありがとう、少しは気が晴れるよ」
光が自分の味方をしてくれるという奇妙な状態に、疑問を感じないでもなかったが、とりあえず、礼は言っておいた。
「いいのよ。それより腹が立つのは、頭の固い協会の連中よね」
まるで自分がそうされたように、光は怒っている。光の、見たことのない一面を見て、優は少し新鮮に思ったりもした。
と、急に、光は神妙な顔になる。
「ね…ねえ、もしよかったら、私がお爺様と話をつけてもいいんだけど。私が言えば、お爺様も、新入社員の一枠ぐらい、どうにかしてくれると思うのよね」
光は、退魔協会の中でも、二番目の勢力を誇る、「カミウエ」の会長の孫だ。確かに、コネクションとしては、申し分ない位置にいるわけだが。
「い、いいよ。コネで入るつもりはないし」
光が、何を要求してくるか、わかったものではなかったので、優はとっさに断っていた。
「コネじゃないわよ。正当な評価ってやつに決まってるじゃない。使い物にならないなら、いくら優のためだからって、お爺様に頼んだりしないわよ」
「僕の、ため?」
光が他人のために何かするなど、在り得ない話だった。それは、優を警戒させるには、十分な内容だ。
「あ…う、えと、そういうわけじゃなくて…」
珍しく、光がどもった。視線が、あちこちさまよっている。自信の塊のような光には、通常見られない態度だ。
「…光?」
さすがに、ここまで来て、光の妙な態度に、優はもしかして、という思いを抱いていた。
「う…うん、優のためなら、お爺様に話しても、いいな」
ためらうように、光はつぶやく。
「…」
優は、とっさに黙るしかなかった。
つややかでコシのありすぎる長い黒髪を、無理矢理しばったような反発的なポニーテール。
年齢よりも幼く見える唯一の理由であろう、つぶらな黒い瞳は、しかし、ちょっと気を抜くとつり上がっていかにも攻撃的に相手を睨み出す。
白い肌には似つかわしくないほど健康的な赤い唇のつく口元は、どこか皮肉げに、端がつり上がっている。
顔の造形は、髪をほどいて目と口元のつり上がりを消せば、日本人形を思わせる精巧な作りをしているだろうが、前述の理由で、その雰囲気を全部ぶちこわしにしている。
頭から足の先まで、スラリと細く、肌もシミ一つないほど真っ白だが、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいるし、何より、背負っている雰囲気は病弱とかはかなげとかという言葉と対極にあるようなもので、ついでに、健康そうとか元気とかという言葉で思い浮かぶさわやかさとは、やはり対極にあるような体つき。
言わば、「躍動的」と「危険」を足して混ぜたような光だが、今は、目つきもおとなしいし、口元も、不安げに浮ついている。何より、もとから、美少女ぞろいと言われる東法の中でも、一、二を争う美少女なのだ。
つまり、日本人形のような可憐な少女が、顔を赤らめて、自分の方を盗み見たり、視線を外したりと、そわそわしているのだ。
これで希望を持たない男子はいまい。
光は、がじがじと、いつもは感じることのない、自分のふがいなさを叱咤するように、指を噛む。指を噛むのは彼女の癖だが、今はどこか色気を感じる姿だった。
「だから…あの、その…優に、言いたいことがあるんだ。そ、卒業も近いから、今言っておかないと、一生、言えない気がするから…」
「う、うん…」
苦節十八年。女の子に遊ばれることはあっても、性格にはやや、というかかなり問題があるような気もするが、こんな美少女相手に、こんなシチュエーションになることはなかった。
ドキドキと高鳴る鼓動を聞きながら、優は、光の言葉を待った。
いつもからは考えられないぐらい、はかなげに努力し、光は、ぎゅっと目をつむって、やっと、言いたいことを、口に出した。
「わ、私、優のこと、を…」
**********
「あら、いらっしゃい」
音も立てずに、いつの間にか、学長室に入ってきて、自分の前に立っている長身の女性を見ても、学長はさほど驚かなかった。
代わりと言っては何だが、さっきまで窓際でひなたぼっこをしていた黒猫が、学長の前、大きな机の上に、トンッ、と降りて来た。まるで、突然の来訪者を警戒しているように。
「けっ、何の用だぁ? 決着でもつけに来たかぁ、こら?」
というか、猫がしゃべっている。今日びの猫は、おしゃべりもできるらしい。口が悪そうなのは、相手が怪しいからなのか、それともそれが地なのか。
「あら、駄目よ、アーク。ごめんね
「ケーッ、こいつと仲良くする方が虫酸が走るってもんだぜ」
ほんとに吐いたわけではないが、ぺっ、とつばを吐く真似をしながらも、言われた通りに、猫はちょこちょこと机の端の方に移動する。しかし、警戒は解いていないようだった。
その長身の女性が、トレンチコートの懐に手を入れると、猫は、毛を逆立てて威嚇する。
「フシャーッ!!」
「だから、大丈夫よ。真一さんが、私に何かするわけがないでしょう?」
「信用できるかっての!」
猫と学長の言い合いを横で見ながら、彼女、真一と呼ばれた女性は、懐から、煙草と百円ライターを取り出す。
それを見た猫が、目を大きく開けて、瞳孔を小さくしながら叫ぶ。
「ほれ見たことか! 下がってろ、リィ。俺が殺る!」
そんな猫を一瞥、真一と呼ばれた女性は、思い出したように、学長を見た。
「…ここ、禁煙?」
「ごめんなさいね。東法内はどこも禁煙なの。喫煙所もないのよ」
「そう」
非常に愛煙家には世知辛い世の中ではあるが、東法という機関を考えると、別段おかしなことでもない。教師を除けば、ここにいる人間は、二十歳を超える者はいないのだ。
真一と呼ばれた女性は、別に気を悪くした風もなく、煙草をしまった。
「へっ、そんな税金の塊を喜ぶなんて、気がしれねえな」
あくまで、猫は彼女につっかかって行きたいようだが、彼女は、猫を見ている様子はなかった。ではどこを見ているのかと言われると、やはりわからない。
ふと、真一は、猫の方に顔を向けて、一応、猫に向かって言う。
「…アーク、機嫌悪そうだ」
「てめえが俺の名を呼ぶんじゃねえ!!」
その小さな身体のどこから出るのかわからないような、大きな声で、猫、アークは怒鳴った。
「…」
「いいかぁ? リィはてめえのこと信用してるようだが、俺は違うぜ」
「…あいかわらず」
「ん?」
無表情に、真一はちろり、と赤い舌で唇をなめた。
「おいしそう」
「…ほう、やっとその気になったみてえだな。いいぜ、ここをてめえの墓場にしてやらあ」
「アーク」
学長が、少し声を大きくして、アークをたしなめる。
「…はいはい、どうせ俺がいつも悪役ですよ一人空回りしてますよふんこいつとレズってやがれ読者サービスは大事だってんだ」
アークは、吐き捨てるように毒づき、身軽に絨毯の上に飛び降り窓に近寄ると、また身軽に窓際に飛び乗り、背を向けて丸くなった。
が、その格好からは想像できないが、まったく油断せずに、にらみつけるような気配が、真一に向けられている。
「改めて、いらっしゃい、真一さん」
「ああ」
真一は、挨拶もそこそこ、猫が邪魔しなくなった途端、話を切り出した。
「いきのいいのが、一人欲しい」
「喰うのかい?」
笑えない冗談を、アークが窓際から言い放つが、真一はそれを無視した、というよりも、耳に入っているようには見えない。
はあっ、とアークになのか、真一になのか、学長はため息をつくと、一応、訳を尋ねた。
「急に、どうしたの?」
「人手が、足りない。七美にそう言われた」
「まったく、あなたのところは、卒業試験にも見学に来なかったでしょう?」
「忙しいから」
「だからって、社長がそれを放っておいていいものだとは思わないんですけど。まあ、いいです。そちらにはそちらの都合があるでしょうしね。それで、どれぐらいのレベルの生徒が欲しいのです?」
真一は、少し考えて、答えた。
「強ければ強いほどいい」
「もう、そんな強い子は…これが、何の因果か、残っているわ」
「なら、それで」
いいのかしら、本当に、と学長は、そのいいかげんさにため息をつきながらも、しかし、笑顔を作った。
「でも、丁度いいわ。私も、あなたにしか頼めないと思っていたのよ。あなたの方から来るなんて、運命さえ感じるわ」
「って、おいおい!」
猫さえ入らなければ、必要最低限で話が進む中、我慢できなくなったのか、アークが背を伸ばして、口を挟む。
「まさか、あの変態エロガキをまかせるつもりかよ?! そりゃ、さすがにまずいだろ!」
「あら、優は、変態でもエロ…ここはまあ、若くて元気な男の子なんだから、仕方ないとして…ガキでもないわ。かわいい子じゃない」
「あのなあ、あれは例外だろ、やばいだろ。運命なんて都合のいい言葉で、あれを野に放ってもいいのかよ!」
「あら、アーク。あなたも、秩序を守るって言葉に、やっと目覚めたのね」
「う…」
その一言に、アークは黙った。学長の一言は、アークに対しては物凄い皮肉だ。
「でも、本当に、丁度いいと思わない。それ以外に選択肢はないと思っていたのよ」
「…何のことかわからないけど、危険そう」
他人事のように、真一は学長とアークのやりとりを見て、感想を述べた。
「大丈夫よ。良い子なのは、私が保証するわ。ちゃんと卒業するまでは、そちらに送るわけにはいかないけれど、後二日だから、待ってもらえるかしら?」
「ああ、助かる」
それだけ言うと、頭も下げずに、真一は背を向けた。
扉に手をかけ、扉を音もなく開け、そして、音もなく、彼女は学長室から、姿を消した。
「二度と来るんじゃねえぞ!」
最後のアークの言葉は、聞こえたのか、聞こえていなかったのか。とにかく、真一が何の反応も示さなかったのだけは、確かだった。
続く