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最強格闘王女伝説綾香

 

三章・試合(100)

 

「いててて」

 浩之はかまれた腕を押さえながら、綾香の膝枕から立ち上がった。

「もういいの?」

「もういいのってか、十分だ」

 これ以上その場所にいたら、きっと腕を噛み千切られるだろう。首筋に歯型ならまだしも、腕に噛み千切ろうとした跡をつける趣味は浩之にはない。

「後一分も我慢すれば、噛み千切れたのに」

 綾香は、少し残念そうに浩之を解放する。わがままなお嬢様のことだ、浩之の身体でも、それは自分のものだと思っているのかもしれない。

 いや、多分他人のものだと思っているから、噛み千切ろうとしているのだろうが。

「それで、身体の方はどう?」

「うーん、そうだな」

 ヒュッと鋭く、浩之としては大して力も入れていないのだが、左のジャブが空を切った。

 腕に痛みが残ってはいるが、ジャブを打てないほどではない。我慢すれば、または今の状態ならば、試合はできるだろう。

 それよりも、浩之は少し驚いていた。

「痛いな」

「まあ、我慢ね。とりあえず、見たところ、動かせないほどじゃないんでしょ?」

「ああ、というか……」

 むしろ、目の錯覚かどうかはわからなかったが、浩之自身が思っている以上に、鋭いジャブだったようにさえ思えた。

「全然完璧とは言い難いんだが……打撃の調子はよさそうだぜ」

「そうね。朝よりも、鋭くなってる」

 綾香が言うのだから、冗談以外で綾香が人をおだてることはないのだから、浩之の目の錯覚ではなさそうだった。

「綾香が言うんだから間違いなさそうだが……何でだ? ドーピングもした覚えはないけどな」

 ちなみに、エクストリームにはドーピングの規約はない。もしかしたら、中にはそれをやっている人間もいるかもしれないが、浩之はそうやって得た強さに、何の興味もなかった。

 極端な話、それなら武装した方がよっぽど強くなれる。わざわざ身体を壊して、意義のないことをする必要もなかろう。浩之にとって、意義があるかないかは大きい。

「動いて、身体がほぐれてきたのもあると思うけど、多分、今の浩之は朝の浩之よりも強いわよ」

「半日やそこらで強さは変わったりせんだろ」

 格闘技のことに関してはほとんど最強なまでに天才の綾香でも、強くなるのには、他の人間と比べれば遥かに短い時間であろうとも、それなりの時間がかかったはずだ。

 綾香とてスーパーマンではない。修練に次ぐ修練によってのみ、その天才の身体は維持、そして成長するのだ。

「もちろん、基本的には時間をかけないと人は成長できないけど、未経験のことを経験するってのは、短時間でも、かなり効果があるのよ」

 未経験……

 綾香に、というか人間にかまれたのは未経験ではある。というか、こんな経験をしている人間が沢山いたら嫌だ。

 もちろん、ここの経験は、そんなものではないだろうが。

「今日、浩之初めて本気の格闘技で勝ったもんね。強くなって当然よ」

「……ああ、そういやそうだな」

 浩之は、才能にも恵まれていたが、環境にはもっと恵まれていた。

 葵や綾香や坂下、修治や雄三、その誰もが、おそらく日本でもトップレベルの実力を誇っている。少なくとも、綾香は間違いなく日本一なのだし。

 しかし、反面、どうしても恵まれない部分があった。

 勝てないのだ。この面子が相手では、才能に恵まれようが、血のにじむような努力をしようが、おいそれと勝たせてもらえる訳がない。綾香や修治など、あからさまに手加減をしても、それでも今まで数えるほどしか打撃を当てていないのだ。クリーンヒットという回数で言えば、今だ零だ。

 しかし、いつもの面子以外で相手をしたのが、プロレスラーの由香のみ。当然勝てるような相手でもないので、やはり勝つという経験をできなかった。

 負けて強くなることはある。だが、浩之には勝つという経験は、まだ未経験であり、それの意味は大きい。

「しかも、二回戦は実力は浩之よりも上だったろう中谷を接戦でやぶったじゃない。強くならない方がどうかしてるわよ」

 確かに、あれはいい経験になった。今まで競り負けるという状況もなかったのだが、競り勝つなどという状況はそれこそまったくなかった。

 中谷を倒した瞬間、あの一瞬だけ、自分の限界を超えたような気持ちになったのだ。身体を動かしている以上、浩之の精神は、身体に直接影響する。

「朝の状態なら、寺町には絶対勝てなかっただろうけど、今ならいけると思わない?」

「それは思わないけどな」

 冗談じゃなく、浩之はそう返していた。寺町は強い。見ただけでそれは十分に理解できる。おそらく、今の状態で、さらに身体にダメージや疲労がなくとも、勝てるとは到底思えない。

「でも、勝たなくちゃな。綾香との賭け、勝たしてもらうぜ」

 余裕はない。ギリギリでも勝てないかもしれない。いや、そのままなら勝てないと浩之も思っている。

 しかし、口にしているのは、強がりではない。

 決心、浩之の心がつむぎだす、強さだ。

 その浩之の顔に、綾香は嬉しそうに笑った。綾香だって、浩之のそういう顔を見ていたいのだ。だから、こんな場所で、胸が高鳴っている。

「私自身がやるんじゃないから、ちょっと私の方が不利ね」

「そうだな、綾香を相手にするよりは、よっぽど楽な相手さ」

 そう強がって、でも強いから心から言う浩之に、綾香はときめいた。

 賭けは、当然浩之が負けることで勝つのだが、綾香は、浩之が勝つ方に賭けているのだ。そして浩之は、誰のためでもない、綾香のために戦うのだ。

 賭け、と聞いた瞬間に、生気のみなぎった浩之の表情が語っている。浩之は、綾香のために、綾香との賭けに負けるわけにはいかないのだ。

 ボーイ・ミーツ・ガールなどに綾香は全然興味はないけれど、浩之が自分のために戦ってくれる、と思うと、どうしてこんなにも嬉しくなるのか、うまくは説明できない。

 衝動的に、綾香は浩之に抱きついた。

 理由なんて、きっと、浩之のことが好きだからに決まってるけどね。

「んっ……」

 綾香は、軽く浩之のほほにキスをした。

 それから、かなり後の祭りのような気もしないでもなかったが、まわりに葵や坂下がいなかったか辺りを見渡して、いないことを確認してから、浩之から放れた。

 全て事が終わってから、綾香は言い訳のように言った。

「じゃあ、これは前金ね。成功報酬は、勝ってからよ」

 それだけ言うと、びっくりして固まっている浩之に背を向けて、歩きだした。

 浩之が戦う、試合場に向かって。

 

三章 終わり

 

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