遠くの方から、歓声が響いてくる。しかし、それもこことは遠い世界のことだ。
うららかな、初夏の日。
少し暑くなってきた今日でも、こうして木陰の下で寝そべっていれば、吹いてくる風が心地よい涼しさとなって感じれる。
ついでに、枕がいい。
さっきまでの風流な考えはどこへやら、浩之は一気に現実に戻ってきた。ついでに、鼻の下辺りが伸びている気もする。
「何鼻の下のばしてるのよ」
ギュッ
「いででで、もっとやさしくしてくれよ、綾香」
「エロ大魔神に何か言われたくないわね」
綾香はそう言いながらも、浩之を膝枕したまま、腕をむにむにともんでいる。
「……なあ、それって効果あるのか?」
マッサージらしいが、たまに修治に受けるマッサージと違い、大して効いている感じはしない。かわいい女の子、当然綾香のことだが、に腕をもんでもらうのは、気持ちはいいのだが、それはマッサージとかとは別の感覚だ。
「さあ?」
「さあってなあ……」
「仕方ないじゃない。浩之が膝の上からどかないんだから。そこに寝転がったら、本格的なやつやってあげるわよ」
綾香はそう言って含み笑いをこぼした。
「いや、痛そうだからいい」
綾香の含み笑いの意味を考え、浩之は辞退した。しかし、本当のことを言うと、この膝枕から動くのが嫌なだけなのだが。
それを言わずとも、態度で十分理解しているのか、綾香は大きくため息をついた。
「ほんと、浩之って顔とは違って中年エロ親父よね」
「顔には自分でも自信あるんだ」
浩之は、そう良い様に解釈することにした。中年エロ親父を否定するよりは、よほどかわいい行為だと自分でも自覚している辺りが怖い。
「言ってなさいよ。しっかし、この後の相手は強いってのに、えらい余裕よねえ」
「仕方ないだろ、それまでにゆっくり休みたいんだよ」
ダメージは、完璧に抜けているとは言い難い。葵が気を利かせて自分は準備運動に行ったのも、浩之にとってはありがたかった。
実のところ、綾香としゃべっている暇があるなら、休んでおく方が身体のためにはいいのかも知れない。
しかし。
しかし、だ。浩之は男。しかも中年エロ親父を否定しない、むしろ「そんなに謙遜した言い方でいいのか」と自分で言ってしまうかもしれないほどエロい。いや、青春真っ只中の男など、みなそんなものだろうが。
その浩之が、綾香の膝枕の感触に、眠って過ごすなどできよう訳がない。
この感触を感じると……
「……」
「どうしたの、浩之、顔しかめて。どっか痛いの?」
「痛いっていうか何と言うか……」
綾香の膝枕で思い出される場面が、どれもこれも痛い場面であったので、さすがに浩之も思い出し「痛い」してしまった。
今の状況も、痛い。身体の節々が痛いし、頭はがんがんしていた。だいぶ落ち着いては来たが、この後に続く試合に耐えれるとは到底思えない。
いっそ、このまま綾香の膝枕で一日中寝ていたいとさえ思う。
身体はボロボロで、次の試合には出るだけでも辛いかもしれない。それで勝つなど、夢物語のようなものだ。そんな浩之を見て、綾香は目を伏せて、やさしく、息がかかるほど耳元で語りかけた。
「浩之ぃ」
「ん?」
綾香の声は、鈴の鳴るよな、天使の声だった。
「棄権はリンチよ」
そういや、天使って異教徒や悪魔には残酷なんだよな……
耳元、というより首元に近い綾香の、きっと牙の一つや二つぐらい常備してそうな紅い唇を見ながら、浩之はそんなことを思っていた。
「ここで嫌だって言ったら、きっと首を噛み千切られるんだろうなあ」
「そんなこと思ってても本人の前で口にしないでよ」
せめて、浩之は思った。
せめて、否定してくれよ。
首元にあった綾香の顔が、いつの間にか浩之を上から見下ろしていた。目は、すごく優しそうで、唇は、紅くて。
牙の一つ二つぐらいなら、見逃してもいいかと思う。
優しく微笑んでいても、きっと顔を伏せて悲しんでいても、そんな偽りの顔には、浩之は騙されなかったろう。
造形の美しさもある。それは否定しないし、大いに肯定してもいい。
しかし、優しく微笑んでいても、悲しく泣いていても、絶対に消せない綾香の表情がある。
それは生命の輝き。
いや、言いすぎというか、かっこつけすぎだ。もっと庶民的なものだ。綾香は高貴かもしれないが、そういうものは関係ない。
「そういうことを言うと、腕の一本ぐらい噛み千切るわよ」
綾香は、楽しそうに笑った。
うん、これだ、間違いない。
綾香の元気さ、明るい笑顔の魅力は、消せない。
やはり、綾香は楽しそうに笑っているのが、一番かわいい。
「綾香」
「ん?」
「賭け、しないか?」
ピクンッと綾香に動物の耳があったら反応していただろう。
「いいわよ。浩之が寺町に勝てたら、何でも一つ、言うこと聞いてあげる。でも、もし勝てなかったら……」
「ああ、綾香の言うことを、何でも一つ聞いてやるよ」
「のったわ、これで、負けれなくなったわね」
「だな、負けたら何されるかわからんからな」
急に、身体にみなぎる力。
命の危険を感じて、身体が活性化したわけではない。もっと、負けれなくなったのだ。
いや、正確に言えば、今その瞬間、浩之は勝ちたくなったのだ。
ニコニコ現金払いを信奉する浩之の身体は、綾香にだけは負けたくない。そう思っているのだ。
綾香にだけは負けてはいけないのだ。それは浩之が綾香と知り合って、話すようになってから、一度として変わらない浩之の信念。
もちろん、綾香は強い。並ではなく強い。どんな相手にでも相手の土俵でさえ勝ち越して来た浩之が、初めて味わった本物の壁だ。
綾香にとっても、自分が初めての壁であって欲しい、と浩之は思った。
壁を無視するわけにはいかない。目の前に立ちはだかるものを無視するには、二人とも色々なものに、恵まれすぎた。
浩之は、本気なのだ。壁、などと言っては失礼だ。
その花に、浩之は見惚れずにはおれない。そして、その全てに、負けるわけにはいかない。
ただの花ならそれもよかろう。だが、浩之は、その美しき花に、綾香に本気なのだから。
うぬぼれるなら、綾香もまた、自分に本気なのだ。
そう、本気も本気だろう、自分の身が危険なほどに。
「……ちなみに、引き分けは?」
綾香が、これほど優しく笑ったことを、浩之は見たことがなかったような気がした。それは、つまりこれほど外見だけで人は優しく笑えるのかという、限界に挑戦したような笑顔だった。
「エクストリームにはないというか、腕一本」
ガブッ
「ギャーッ!」
とりあえず、綾香は牙の一本ぐらいは常備しているのを、浩之は身を持って知らされることとなった。
続く