下を打たれたと思った瞬間、浩之は下に引きずり落とされるような感覚と共に、マットの上に倒れていた。
「浩之っ!」
「センパイッ!」
綾香と葵の叫びにも似た声は聞こえたが、浩之はそれに反応できなかった。
というか、何が起こったのかさえわからなかった。
なおも綾香と葵の叫び声が聞こえる。
「浩之、立てっ!」
「センパイ、立ってくださいっ!」
二人は何を言っているのだろうか。
真っ白になった意識が、二人の声だけを認識して、意味を認識などできていなかった。二人が何をそんなにあせっているのか、浩之には理解できない。
「ワンッ、ツー」
カウントの声も、浩之にはどこふく風だ。人の話を聞かない特技を、充分に発揮している。
やっと、真っ暗だった視界がぼやけて見えてくる。
目の前には、構えをとかない一人の男。浩之の記憶にはない男だ。自分を、何故かどこか恐れた表情で睨みつけている。
ていうか、俺今何やってるんだ?
「浩之ちゃんっ!」
「ヒロッ!」
珍しく、どこからともなく聞きなれた声も聞こえる。浩之でもあまり聞いたことのないようなあせった声だ。あかりなど、ほとんど自分が死にそうな声だ。
しかし、あの二人の声も、この歓声の中よく聞こえる。耳が痛くなるほどの歓声だというのに、耳はいつもよりも声には敏感になっている。
歓声?
浩之は、自分が何でこんな歓声の中にいるのかわからなかった。自分は、目立つ場所には出たくないタイプだ。そういうことが嫌いと言えば嫌いなのだ。
しかし、どう見ても、自分はその歓声の中心にいた。
「スリー、フォー」
少し遅く感じるカウントに、浩之は顔をしかめた。このままテンカウントまで行けば、自分は楽になるというのに。
楽に、なるのだ。負けてしまえば、試合を続ける必要はないのだから。
……違う、俺は戦いに来ているのだ。負けに来たわけではない。
浩之は、はっと今自分がいる状況を思い出した。と同時に、あわてて立ち上がろうとする。
しかし、立ち上がろうとしたが、バランスを崩して、ひざをつく。
「浩之、立て、また終わってないわよっ!」
綾香の通る声は痛いほど耳に届いてくる。反対に、あかりと志保の声は聞こえなくなった。この歓声だ、もしかしたら幻聴だったのかもしれない。
まあ、いるのは確かだから、あんまり変わらない応援してたろうがな。
二人にしてみれば、自分が倒れたのだ。叫んでもおかしくない。まったく、一回戦から来ればいいものを、ぶざまな姿を見せてしまった。
ダメージは、大きい。頭はまだふらふらするし、足元もおぼつかないどころか、立ち上がるのもままならない。
でも、俺は、寝にここに来たわけじゃねえんだよ!
浩之は、ふらつく身体を無理やり動かして、立ち上がった。
「まだやれるかい?」
カウントをエイトで止めた審判が聞いてくる。
意識もだいぶはっきりとしてきていた。まだ足はふらつくが、止まっている分には大丈夫だ。何とかダメージは抜けてきている。
「大丈夫です、やれます」
浩之はそのアピールとしてファイティングポーズを取る。まだ浩之には、余力はなくともやる気もあるし、身体も動く。ここで止められたらたまったものではない。立ち上がれなくなるまで、いや、立ち上がれなくなっても、浩之は負ける気はないのだ。
「……よし」
審判は腕を交差させた。
「ファイトッ!」
再開された試合に、また歓声がいっそう大きくなる。ちらっと見ると、綾香も葵も心配そうに見ている。葵はともかく、綾香に心配させるとは思わなかった。
試合中に目をそらすのも何だが、中谷もダメージは抜けていない。今さっきまで睨んでいると思っていた中谷の顔は、ダメージと疲労で顔をしかめていたのだ。
反対に、浩之は時間が立つ事にダメージは抜けてきていた。
これはおそらく、パンチの質の違いだ。中谷のパンチは良く切れる。クリーンヒットすれば、相手の意識を切るのにはもってこいだろうが、ダメージが後に響かない。脳を揺らされるので、我慢は効かないが、ダメージが抜けるのも早い。
浩之のパンチは、それに比べれば重いということだ。ダメージが持続する。もっとも、それも後いくら続くかはわからなかったが。
「中谷、手を出せっ!」
寺町の同じような怒鳴り声がしたが、中谷は動かない。いや、動けないのだ。
ダメージも抜け切らないうちに、さっきの縦の連携だ。かなり身体には負担がかかったはずだ。
そう、中谷は左右のフックを捨てた。かわりに、上下のフックを打ってきたのだ。まず、腰を斜めに曲げ、左のアッパーから、打ち下ろしの右(チョッピングライト)だ。横ばかりに気をとられていた浩之には避けれなかった。
綾香も、爪をかんでいるだろう。中谷が横の打撃しか使っていなかったので、縦の打撃を警戒していなかったのだ。
だが、綾香のアドバイスで助かったのは確かだ。左のガードを押し付けるようにしていた分、脳が揺れるのを防いでくれた。でなければ、立ち上がることのできなかった打撃だ。
身体を引きずるようにして、中谷が距離を縮める。前のその驚異的なスピードが、今は見る影もない。
だが、ダメージを受けているのは浩之も同じだ。今攻撃されれば、反撃するのは難しい。
どちらが不利かと言えば、直撃を受けた分、間違いなく浩之だった。
しかし、ここを防げば、自分にも勝機が見えてくる。一回戦の動きでは、勝てるとも思えなかった相手に、勝てるかもしれないのだ。
浩之は、中谷が自分に近づくのを待った。少しでもダメージを回復する時間は欲しいのだ。
というより、浩之には距離をつめるだけの力が今ない。この瞬間に攻撃されれば、何もできずに倒れてしまうだけのダメージは受けているのだ。審判は何とかごまかせたが、自分の身体までごまかせはしない。
そういう意味で、警戒している上に、スピードを無くした中谷の動きは助かる。もっとも、それも大した時間ではないが、浩之にはその少しの時間が貴重なのだ。
それを解かっていて、寺町は手を出せと言ったのかもしれない。
二人の距離は、かなり縮み、どちらともの制空権内に入った。
そして、二人は同時に動いた。
続く