「センパイ、こっち空いてますよ」
葵に引かれて、浩之は観客の中に割って入った。
さすがは決勝戦というか、観客がほとんど減っていないことに、浩之は少なからず驚いていた。プロの試合ではないのだ。付き添いで来ている人間などは、選手の試合が終われば、さっさと帰ってしまうものなのだが。
それもこれも、浩之達が素晴らしい試合を繰り広げたからこそなのだが、浩之にその自覚はない。あるのは、次の試合を見逃すまいと思う気持ちだけだ。
「参考になるとは思わないけどね」
浩之の後に付いてきた綾香は、終始不機嫌だった。それも仕方ない話だが、それがなかったとしても、次の試合に見所があるとは思っていないのだ。
「そんなことないだろ。北条桃矢の試合は見ておくに越したことはないし、寺町の試合だって……」
ただ単純に、二人の試合が見たいという気持ちだけではないものが、浩之の中にはあった。
「桃矢の試合なんて、面白くも何ともないわよ」
それは綾香が最初から言っている言葉であり、事実、桃矢は、結果こそ勝って来たが、何度も醜態をさらしている。
実力は疑うべくもないが、おもしろみのない選手。浩之の、桃矢に対する評価は、綾香とそう違っていない。違っているとすれば、桃矢の方が浩之よりも強いということだろうか。
しかし、おもしろみ、というのは、格闘技に意味がないようでいて、けっこうな意味を持つ。その見本とも言うべき男が、桃矢の前に立つ、あのバカだった。
観客も、そのバカを見るために残っていると言ってもいい。それほどまでに、このバカは、試合を楽しみ、そして見ている者の血をたぎらせる。
浩之だって、その男が目当てだ。自分の負けた相手の試合、見逃す訳にはいかない。
何故なら、寺町の試合を見ることは、自分が戦うときの参考になる可能性が高いからだ。いかに予想もつかない攻撃と、打ち下ろしの正拳という必殺技を持つ寺町相手でも、見る、という行為は、意味のあることだ。
次に戦ったときに、勝つために。
浩之が、ここで帰りもせず、もちろん最後の表彰までは残っておかないといけないのだが、残っているのは、寺町を倒すため、ただそれだけだ。
いい勝負ではあったが、結局あそこまでボコボコにされたというのに、三位決定戦に勝った瞬間に、浩之の中に、欲が生まれた。綾香を倒すとか、そういう夢ではない、もっと現実味を帯びた、かなえるべき欲だ。
本戦で、寺町ともう一度相対して、今度こそ勝つ。
自分のことを、クール、は言い過ぎとしても、熱くならない性格だと浩之自身は思っていたのだが、それは間違いだったようだ。
負けたことが、悔しくて悔しくて仕方ないのだ。そして、もう一度戦えるチャンスがあると知って、考えるよりも早く喜んで、そして目標を見据えた。
あのバカともう一度戦って、今度こそ勝つ。そのために必要なのは、自分の力を上げること、そして、相手を知ることだ。
身体が回復するまでは、練習もできない。この鎖骨のひびが完治するまでは、無茶はできない。無茶をして、そのチャンスをみすみす捨てることはない。
かわりに、倒すべき相手の、おそらく本気を出した試合が見れるのだ。これを見ずして、どうして寺町が倒せようか。
だから、桃矢の試合におもしろみを感じない綾香がごねても、浩之は押し切って試合を見に来たのだ。もっとも、葵に関して言えば、見ない選択肢などなかったのだろうが。
綾香だって、ごねたのも、機嫌が悪いからであって、浩之が寺町の試合を見る必要性がないと思っているわけではない。むしろ、寺町の試合を見せるために、病院にも行かせずに、浩之を残したのだ。
「あ、好恵さん、セコンドについてますね」
試合場の脇で、寺町の後輩の中谷と一緒に、坂下の姿を見つけて、葵が指さす。
坂下も、別に寺町のセコンドにつきたかったわけでもないのだが、顔を出した結果、なし崩し的にセコンドにつく形となった。
寺町にそれが必要かどうかわからないが、確かに経験豊富な坂下の助言というものは、心強いだろう。もっとも、坂下が役に立つのは、打撃戦のみだろうが。
そこまで寺町が計算しているのかどうかは、わからない。いや、多分この男は計算などしていないのだろうが、と浩之は自分の予測を含めて考えていた。
寺町と桃矢の、北条鬼一の「鬼の拳」の因縁から言って、打撃戦になる可能性は、高い。
準決勝で、相手に合わせた結果、墓穴を掘ったのだから、桃矢が相手に合わせることはないようにも思えるが、英輔相手に組み技をするのと、寺町相手に打撃で戦うのでは、大きく意味合いが違う。
それだけ、寺町は打ち下ろしの正拳にこだわっており、桃矢は、「鬼の拳」にこだわっているように浩之には思えた。
早くも、寺町も桃矢も、試合場でにらみ合っている。いや、桃矢の目は睨んでいるという表現が一番合うが、寺町のそれは、にやついているという表現が、これまた一番似合う。
さすが、天然で挑発してるよなあ。
あれは、寺町が試合を楽しもうとしている、一分寺町と話せば理解できる表情なのだが、それをわからない相手に向けると、とたん、挑発以外の何物でもなくなる。
そもそも、寺町の行動全部が、天然で挑発を行っているのだ。それでいてどこか憎めないところがあるのは、悪意がない所為だろうが、相手が腹を立てることにかわりはない。
まあ、今更桃矢を怒らせたところで、何が変わる訳じゃないだろうけどな。
一試合目、準決勝の失態で、桃矢の評価は、かなり下げられているはずだ。それだけでも激怒するには十分な理由なのに、自分の父親が、まったくの他人の、「鬼の拳」の模倣をほとんど手放しでほめるというのは、どれほどの怒りを生むのだろうか。
見たところ、桃矢はその「鬼の拳」にこだわっている。だからこそ、寺町に対して感じる怒りは、一筋縄なものではなくなっているはずだ。
一方の寺町は、自分の模倣したものを、同じように、形は違えど模倣してくる相手に、さて、面白いと感じるのか、つまらないと感じるのか。
最低、怒りは感じないんだろうがな。
そこらがバカたる所以なのだが、まあ、最初から寺町に常識とか細かい精神の変化とか、そういうものを求める方がそもそもの間違いなのだ。
ただ、目の前にある戦いを、寺町は楽しむのみだ。
気にしているのは、相手と戦って、楽しいかどうか、まさにその一点のみ。
「両者、位置について」
審判の声で、しん、と体育館の中が静まる。
「それでは、エクストリーム、ナックルプリンス予選、決勝戦を開始します!」
審判は、声を張り上げる。
「レディー……」
まず、桃矢が、両腕を大きく上に構える。普通はありえない、しかし、確かに伝説を作った、「鬼の拳」北条鬼一の構えそっくりに。
それに呼応して、寺町が、その右腕のみを、大きく上に構える。下はがら空きだ。ミドルやローが、簡単に決まりそうにも見える。しかし、決して、その構えは、寺町を不利にするものではないことは、今までの結果が物語っていた。
「ファイト!!」
審判が合図と共に、腕を振り上げた瞬間、われんばかりの歓声が、体育館を包んだ。
その歓声を合図にするように、寺町と、桃矢が、動いた。
続く