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現実同期(後編)

 

 その日の始まりは、いつものように陰鬱だった。

 祐介は、昨日一睡もしていなかった。

 

「私はあんたと一緒やけど、あんたとは違う」

 

 確かに、保科はそう言っていた。言葉でも、心でも。

 祐介には、保科の心の中が読める。

 彼女は、悩んでいた。

 神戸の親友ともう一度一緒にすごすために、神戸の大学に行きたかった。

 でも、それにはかなりの偏差値がいる。だから、彼女は一生懸命勉強した。

 いや、勉強するしかなかった。

 こちらの人間とは肌が合わない。保科はそう感じてはいたが、実のところ、本当は友人に なろうと思えばどうにでもなることを知っていた。

 でも、臆病な彼女はそれをしない。

 どうせ大学は神戸に帰るのだから、別にこちらで友人を作る必要はない。

 そうやって理由をつけて、保科は友人を作るのを拒んだ。いや、恐がったと言っていい。

 いつか、新しい友人とわかれなくてはならないのだから、その悲しみを増やすのを恐がったのだ。

 そうやって保科は友人を作らなかった。

 そして、勉強にだけ時間をついやした。

 その生活の無意味さを、本人も薄々気がつきながらも。

 勉強に時間をついやす、という行為自体は、何も無意味なことではない。目標があるのなら、 むしろ有意義かもしれない。

 問題は、勉強に逃げていることだった。

 友人を作るのを恐れて、勉強という理由を偽って逃げる。

 そんな、逃げるだけの、意味のない生活が、保科の心にわだかまりをためていった。

 急に起こる情緒不安定、破壊願望、感情の押さえがきかない。

 そうやって、保科は少しずつ少しずつ現実に嫌気がさしてくる。

 そんな、保科の心が、祐介には手に取るようにわかった。

 彼女は、僕と一緒だ。

 積み重ねられる無駄な日常。意味のない現実。

 この意味のない現実を、壊してしまいたい。

 その思いを、彼女は確かに抱いている。

 それなのに、保科さんはそれを認めないんだ。僕と、同じだということを。

 祐介は、それがゆるせない。せっかく、この現実から逃れられるすべを見つけたのに、何故その 肝心の保科がそれを認めようとしないことが。

 絶対に、認めさせてやる。

 祐介は、ドロドロとしたものを心の中に抱く。

 保科さんに、絶対に認めさせてやる。僕と、君は同じだって。

 

 保科は、祐介が来るのをあの街角で待っていた。

 あいつは、くるやろか。

 それ自体さえ、保科には確信がない。

 逃げても、少しも不思議ではなかった。

 絶対に応えてもらえると思っていた。裏切られないと思っていた。

 甘いんや、あいつは。

 だから、保科は一日の有余を祐介に与えた。

 恐らくは、祐介の中では正しい結論などではしないことに気付きながらも。

 よう悩めばええ。

 それで、逃げるようやったらそれでもええ。

 私はあいつのことを忘れるだけや。

 でも、あいつがもし私と同じなら、多分……

「待たせたね、保科さん」

 祐介の声が保科の耳に入った。

「逃げはせんかったみたいやな。まあ、当然か」

「逃げる?」

 祐介は笑った。

「逃げなんかしないよ。僕はどうしても、僕と君が同じだということを認めさせるんだから」

 何度も言うとるやろ、あんたと、私は一緒やけど違う。

「……まずは場所を変えようか。こっちに公園があるけど、そこでいいかい?」

「そこでかまへん」

 二人は、肩を並べてその公園に向かって歩きだした。

 

 歩いている間も、祐介と保科は心で言葉を交わしていた。

 僕は、絶対に君と僕が同じことを認めさせる。

「無理やゆうとろ、あんたと私は一緒やけど違うんや」

 長い間二人の間でどうどうめぐりの言葉が交わされる。

 嘘だ、君の心は僕には読める。君は、この現実が意味のないかとを知ってる。

 その祐介の言葉は、公園の中のベンチに座ってからやっと出た。それまで、二人はただ不毛と 思える言葉を交わしていたのだ。

 保科は、ベンチに座ってフウッと一息ついてから答えた。

「ああ、私は自分の現実が意味ないこと知っとる」

「だろう? そして、この現実が、壊れてしまわないかと望んでいる」

「ああ、そうやな」

 ほら、やっぱりそうじゃないか。保科さんは、やっぱり僕と一緒だ。

 保科は、生気を取り戻そうとする祐介にため息をついてから言った。

「私とあんたは違う」

「嘘だ!」

「私は嘘は言えへん。あんたが私に嘘を言えへんのと一緒でな」

 祐介にはそれが嘘でないことを知っていたけれど、心では認められなかった。

 それに、保科の抱く現実への考えは、自分と同じなのだから。

「そこまで認めていて、どうして僕を受け入れないんだ!」

「言うとるやろ、違うからや」

「だから、僕と君との考えは一緒なのに!」

 がんとしてそれを認めようとしない保科に、祐介は怒りさえ覚えた。

 でも、その怒りよりも、保科の目は鋭かった。

「何であんた理由訊かへんの?」

「訊いてるじゃないか、今さっきから何度も!」

「違う、そういうことやない!」

 保科は、いきまく祐介に怒鳴った。

「何で、私とあんたが違う理由を訊かへんの!?」

「……え?」

 祐介には、それは意外な言葉だった。

「あんたは、さっきから二人が一緒じゃないのを認めないだけで、いつまでたっても、どうして二人が 違うのか理由を訊かへん」

「そんなこと、訊くまでもないじゃないか、二人は、一緒なんだよ……」

「一緒? はんっ、バカなこと言わんといて」

 何で、保科さんは僕と保科さんが一緒のことを認め……

「しつこい言うとんのや!」

 保科は祐介の胸ぐらをつかんで怒鳴った。

「確かに、私とあんたは似た現実を持っとる!」

「そ、そうさ、僕達の現実は同期している」

 祐介は胸ぐらをつかまれたまま気押されながらもそう言った。

「同期した現実が、僕達をつないでるんだ」

 だから、僕と保科さんは同じなんだ。

「私とあんたはつながってなんかあらへん!」

「君には聞こえるんだろ、僕の心が。僕にも、君の心が聞こえてるんだ!」

 祐介にとって、保科の存在は、今必要であった。

 彼女が、自分をこの意味のない現実から解き放ってくれる鍵だと信じていたから。

「じゃあ、あんたには何で私の心が見えへんの!?」

「君の心は僕には見えてるよ!」

「じゃあ、私が何であんたと私が違うと思っとるか言うてみい!」

「それはっ……!」

 祐介は、それ以上何も言えなかった。

 二人が違う、と保科の心は言っているが、その理由が祐介には聞こえない。

 どんなに耳をすませても、どんなに目をこらしても。

 聞こえてくるのは、ただ「違う」という言葉だけ。

「あんたには、私の心は見えとらん。そうやろ?」

「……」

 祐介は押し黙るしかなかった。

 間違いなく、現実を壊すことのできる鍵のはずだったのに。保科の存在は、絶対に祐介にとって 必要だったはずなのに。

 声は、ただ壊れたレコードのように「違う」を繰り返していた。

「現実は、私にとって決して楽しいものじゃあらへん」

「そう、現実は、いつも自分に厳しくて、そして自分には意味がない」

「意味がない? 違う、自分自身で、意味をなくしとるんや。現実は、いつだって私らに問いかけ とる」

「……その声は、僕には聞こえないよ」

「……私にも、聞こえとらん」

 保科は、祐介の胸ぐらから手を離すと、祐介の横に座った。。

「……現実が、意味ないのは、誰のせいや?」

「誰のせいかって? そんなのきまってるじゃないか、現実は、もとから意味がない」

「……あんたも、そうやって逃げるんか?」

「逃げる?」

 祐介は、その言葉に自分の胸が痛いまでに反応するのに気付いた。

「現実は、自分の思い通りにすすまへん。そうでなくても、現実は自分の行動に価値を見出して くれるわけでもあらへん」

 保科は、下をむいて、どこかさびしげな目をしていた。

「だったら、壊してしまえばいいんだ、そんな現実」

 もう、保科にはその言葉を聞いても怒る気にはなれなかったようだ。彼女はどこか淡々と、祐介の 言葉につっこむ。

「何、悲劇の主人公ぶっとんねん。世の中に、意味のある現実を送っとるやつなんかそうはおらへん」

 その言葉は、今まで聞いた保科の言葉の中で一番穏やかな口調で、でも、一番祐介を責めた 言葉だった。祐介は、次につなげる言葉につまる。

「僕はそんな……」

「手に入らないから、壊す。気に入らないから、壊す。そんな、子供みたいなこと言うても、 現実は変われへんのや」

「……でも、それを分かっていて、保科さんは現実をいやがったんだろう?」

 祐介は、保科から聞こえてきた心の声でしか、自分を支えることができなかった。今、自分の 考えを口にしてしまえば、自分が壊れるのに気付いていたのかもしれない。

「私は、自分の現実に意味のないことを知っとる。でもな……」

 保科は、きゅっと自分の唇をかみ締めてから言った。

「それは、良くも悪くも、自分の現実や。それから逃げとったら、私ら……」

 そのとき、最後に保科が祐介と目を合わせたときの保科の表情を、祐介は結局いつまでたっても 思い出せることはなかった。

「……私ら、単なる負け犬やんか」

 保科は、その言葉を最後にベンチから立ちあがり、祐介に背を向けた。

「保科さん……」

「私は、負け犬なんかにはなりとうない。だから、あんたとは違うんや」

「僕は! ……僕は、負け犬なんかじゃ……」

「あんたがどう思おうと関係あらへん。あんたは、私とは違うんや」

 現実は同期しても、その思いまで、同期はしなかった。

 保科は、もう言うことがないとでもいう風に、祐介に背を向けたまま歩きだした。

「……待ってよ、保科さん」

 保科からの答えは、心から聞こえてきた。

「私は、あんたと同じや」

 それが、祐介に聞こえた保科の最後の言葉だった。

 祐介は、そのベンチに座ったまま、長い間動かなかった。

 

 繰り返される意味のない現実。

 ほんの少し、その現実を打破できるかもしれないこともあったかもしれない。

 でも、結局は僕はここで意味のない現実を過ごしていた。

 あのとき、僕には保科さんの言った言葉の意味がわからなかった。

 いや、今でさえ、わかっていない。

 ただ、相変わらず僕はその現実の中で生きている。

 今日は、何故かおじさんに呼ばれた。おじさんと言っても、一応学校の先生ではあるけど。

 めんどうだな。

 僕はそう思ったけど、断るわけにもいかず、僕はおじさんの所へ向かった。

 

 そこで、僕は狂気の扉を、閉じた。

 

「ねえ、祐くん、明日祐くんの家にいってもいい?」

「え、い、家にかい?」

 祐介は、さすがに少し動揺してしまった。

「でも、明日家に親いるし……」

 その言葉を聞くと、沙織はプッとふき出した。

「やあねえ、別にそんなことしに行くわけじゃないよ」

「そ、そうだよね」

 祐介は沙織に笑われて少し顔を赤くした。

「もう、祐くんエッチ」

 その言い方が、すごく祐介にはかわいく聞こえた。

「……ねえ、沙織ちゃん」

「ん、何?」

 沙織は、すごいいい笑顔で祐介を見てくれていた。

 それが、そごく祐介にはうれしかった。

「……何でもないよ、沙織ちゃん」

「何よそれー」

 沙織は、少し意地悪な笑みをこぼしながら訊ねた。

「あ、もしかして、改めてあたしのかわいさを再確認したとか?」

 彼女は、きまって、いつも冗談のように愛の言葉を求めてくる。でも、それに答えなかったら、 すごく不機嫌になるのだ。

 祐介は苦笑しながら応えようとした。

 一組の、男女のカップルが祐介の横を通りすぎていく。別段、祐介にはそれは気にすることでは なかった。

 でも、祐介は振り返っていた。

 彼女も、同じように振り返っていた。

 おさげの、眼鏡をかけた女の子だった。

 その女の子と、祐介の視線が合う。そして、ほんの数瞬でその視線は離れた。

「ちょっと、祐くん、何他の女の子見てるのよ」

 それを見咎めた沙織が、祐介の手をつねる。

「いたた、痛いよ、沙織ちゃん!」

「こんなにかわいい彼女が横にいるのに、他の女の子を見るのが悪いの」

「別にそんなつもりはないって」

「じゃあなんで振り返ったの?」

「ん、それは……」

 祐介は、もう一度そちらを向いた。もう、そこには彼女はいなかった。

 保科の声は、聞こえなかった。

 保科さんも、僕と違う現実を歩き出したのだろう。

 今なら、保科さんの言った言葉の意味が僕には分かった。

 だって、僕はかけがえのない意味のない現実を手にしていたから。

 そして、同じように保科さんもその現実を手にしていることが分かったから。

 保科さんは、あのとき、「私ら」と言ったのだ。僕ではなく、二人のことを

 彼女も、あのときは、僕と同じように、現実に負け、単なる負け犬だったのだ。

 二人は、現実同期だったのだ。

 でも今は。

 現実はもう同期なんかしていなかった。

 だから、もう彼女の声は僕には聞こえない。そして、彼女と会うことも二度と。

 二人がもう違っていることを確認できただけでも、祐介には十分だった。

「……胸が大きかったから」

「祐くん……」

 沙織が、怒りの目で祐介を睨んでいた。

「あ、あの、沙織ちゃん。えっと、冗談なんだけど……」

「そうよね、今さっきの女の子、胸大きかったわよね」

 祐介の弁解を、沙織は聞いてなどいなかった。

 身の危険を感じ、祐介は逃げようとしたが、時すでに遅かった。

 がしっと沙織にすごい力で腕をつかまれる。

「祐くん、覚悟はできてる?」

「えーと、なるべくなら痛くない方がいいかな?」

「却下」

 祐介は、全身から血の気が引いていくのを感じた。

 現実は、暖かかったけれど、ちょっとだけ祐介には痛かった。

 

終り

 

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