何やねん、あいつは。
塾に行っている間中、保科はあの不気味な少年のことを考えていた。
どういうトリックを使ったのかは分からなかったが、確かにあの少年は自分の考えを読んでいた。
しかも、どうもストーカーのようやし、警察に連絡した方がいいやろうか。
そう思う反面、どこかあの少年の言った言葉が心に残っていた。
「僕達は、無意味な現実を突き破ったんだ」
無意味な現実……か。
今の私の生活も、確かに無意味なんやろうけど。
保科はバカじゃない。むしろ、人と比べれば聡いと言っていいだろう。
だから、分かっていた。いくら神戸の大学はレベルが高いとは言え、今の生活を犠牲にして 大学に入る意味があるのかと。
もちろん、神戸には帰りたい。神戸の友達と、また一緒に学校に行きたい。
でも、それでほんまに私はいいん？
いつも、保科は自問自答していた。
こちらの人間はどうしても肌が合わないのは本当だし、神戸に帰るために努力するのも 間違っているとは思っていない。
でも、今の私の生活は、無駄や。
私は、意味ある生活をしとらへん。
その考えを、しかし保科は認めるわけにはいかなかった。
勉強して、神戸に帰る。それ以外は、今保科の願いはなかった。自分は、自分が一番大切に していることのために生活しているのだ。それを否定するわけにはいかない。
あかん、何を私はよう分からん男の言葉に気ぃ取られとんやろ。
保科は眉間をおさえると、講義に集中しようとした。
結局は、集中などできなかったが。
ひさしぶりに祐介にとって楽しい一日が始まった。
ひびの入った現実。
それを意識するだけで、何てこの世界は心地よいのだろう。
今日も、祐介は学校が終れば保科に会った場所に行くつもりだった。
多分、保科さんは昨日ずっと悩んだだろう。
認めてしまえばいのに、保科さんは強情だ。
だから、今日も僕がそれを分からせに行かなくては。
きっと、保科さんは通る道を変えるなんかしていない。何故なら彼女は気になっているのだ、 僕の言葉が。
祐介は、ひさしぶりに楽しくてしょうがなかった。
毎日繰り返される無駄ともとれる変化のない日々。
それが、今まで幾度となく繰り返され、それが僕を苦しめていた。
だけど、それももう終った。
僕は、意味のない現実を壊した。
日常を吐いて捨てた。
祐介は、自分の体温が上がっていくのを感じていた。
さあ、今日も無駄な日常が始まる。
でも、それは現実にひびを入れるための準備時間にすぎない。
当然というか、必然というか、そこにまた祐介はいた。
「やあ、保科さん、こんにちは」
祐介は、保科の姿を見つけると、笑顔で近づいてきた。
「一日考えて頭の整理はついたかい？」
このまるで何でも知ってるようなものいいが私は好かん。
「そうか、でも、僕は君のことなら何でもわかるんだ」
「……あんたが、何かトリックを使ったわけじゃないのは納得しておくわ。でも、私はあんたの 言いようは気に食わん」
「そうかい？」
祐介は、ため息をついた。
「じゃあ、こうしよう。今から時間あるかい？」
これから塾やけど、特別に時間は空けてやるわ。
「ありがとう」
祐介には、自分の考えることが分かっている。つまり、この心の奥底で芽生えている非現実的な 現象へのあこがれも知られているだろう。
でも、だからと言ってはっきりさせないのは、保科の趣味ではなかった。
祐介は、しめたものだと考えている。
「僕の話を聞けば、嫌でも保科さんは僕に同調してくれるよ」
話を聞いてみんと分からんやろ、そんなこと。
「そうでもないさ」
その物言いが、保科には鼻についた。
松本は、ヤックで待ち合わせをしていた。しばらくすれば、吉井と岡田が来るはずだ。
松本は、暇そうにコーラをすすっていた。
その席から少し離れたところに、二人の男女が座った。
カップルかな？ ああ、何で自分は女同士で待ち合わせしてんだろ。
と心の中で思いながら、おちらに目をむけた。
あれ？
そのカップルの女の方には見覚えがあった。
あれって、岡田が目の敵にしてる保科とかいう関西人じゃん。
男の方はこちらからは顔が見えないが、何ともパッとしない男に見える。
何だ、保科さんって彼氏いたんだ。
学校ではあまり人と話しをしない人だったので、松本は少し意外だった。
「じゃあ、何から話そうか？」
男の方が保科に親しそうに話しかけている。
彼氏とデートか、うらやましいなあ。
松本は、何の気なしに二人の会話に耳を傾けた。ヤックの店の中は少しざわついてはいたが、 二人の会話が聞き取れないほどではなかった。
「知らないって、あんた！」
突然、保科が声を荒立てる。
何を知らないって？
松本には会話の脈絡が分からなかった。急に、保科が叫んだのだ。
痴話ゲンカかな？
きっと人には聞かれたくないからと声を下げていたのだろう。
松本は、それが痴話ゲンカだと思ったら、急に野次馬根性が芽生えて二人の会話によく耳をかた むけた。
「そんなことは、別に重要じゃないんだ」
「そんな訳あるか。この、よう分からんもののせいで私は貴重な時間さいてあんたにつきあっと るんや」
やっぱり話の脈絡が見えてこない。二人だけの世界に入っているのだろうか？
そうとも思ったが、保科の口調はどうも彼氏に話しかけるような口調には聞こえなかった。
「そうでもないんじゃないかな、保科さん」
声を荒げる保科と違い、男の声には余裕さえ感じる。
なんかこいつ嫌い。
松本は、無責任にそんなことを考えていた。
「あんたみたいな変態と一緒にせんといて！」
また保科は話の脈絡もなく叫んだ。これにはまわりも保科の方を見るが、すぐにまたみんな 目をそらした。
にしても、関西弁ってこういうとき迫力あるよね。
松本はもう話の展開が見えないので違うところに意識を持っていっていた。
「変態？ ひどいな」
松本から見て、その余裕ある声はどうやっても十分変態に聞こえた。
「この現実が、意味のないことを君は知ってる」
……はぁ？
いきなり、男の方がわけのわからないことを言ってくる。
なんなのよ、この男。
「達？」
「そう、僕達」
保科はその男に負けず劣らない訳のわからないことを言い出す。
この人達、頭おかしいんじゃないの？
能天気な松本も、さすがに二人の会話にはどこか異様な雰囲気がしていると感じた。
「君と僕なら、それができるかもしれない。いや、できる」
男は、前よりも自信ありげにそう言った。
「僕は君に、君は僕に惹かれているんだ」
何、実はまだナンパ中だったの？
ていうか、新手の宗教か何かかな？
松本の想像の中はかなりいいかげんになってはいたが、現実も負けず劣らずいいかげんだった。
「そうだろ、僕には君の心が見える、君が僕に嘘をつくことはできないんだ」
……まじで危ない宗教みたい。
松本はここから逃げようかなとも思ったが、二人とはここで待ち合わせしているし、もし保科に 見つかってまきこまれたら嫌なので、仕方なく止まっていた。
「あほ言わんといて」
保科の非常に現実的な返答に、松本は少なからず安心した。
とりあえず、保科さんはまともみたい。
これで保科も男のようにイッていたら、学校で顔を合わせるのも嫌だ。
「なっ！」
男は何かあせったようだった。
しごく当然のことを言われて、この男は何あせってんだか。
ちょっとおかしくなって、松本は声を殺して少し笑った。正直言って、男の物言いから態度まで、 何故か気にくわなかったのだ。
「何を言ってるんだ、保科さん。君の心は僕にはわかるんだよ？」
「だから言うとるやろ、あほ言わんといて。何のつもりか知らんけど、私はあんたなんかとは ちゃう」
きっぱりと言い切るあたり、松本は心地よささえ感じた。
変な宗教家を、言いへこましている。松本にはそう見えたのだ。
「ほら、保科さんは僕と一緒じゃないか」
男はあせりながらも、何か確信めいた口調で言うが、すぐに何か非常に怖々と聞く。
「一緒なのに、違う？」
すでにその男は自分の世界につかっているだけのように松本には見えた。
「心の共有？ んなわけあるか。私とあんたじゃ考えることがちゃうんや」
保科は、何を思っているのかそんなことを口にしている。でも、ただその男を否定しているの だけはわかった。
男と保科の間に少しだけ沈黙が流れる。
「明日、また昨日会った場所でな」
「待って、保科さん！」
あれ、やっぱり痴話ゲンカなのかな？
その男の口調が、ドラマで女に捨てられるのを嫌がる男の口調にそっくりだったので、松本は そう思ったりした。
「よう考えることやな、私が考えたみたいに」
保科はまるでドラマのような捨てゼリフを吐いて店を出ていった。
後には、うなだれる男だけが残されていた。
あれって、やっぱり痴話ゲンカだったのかな？
もう男の方には興味をなくした松本は、色々勝手に自分の中でストーリを考えて時間を潰して 二人が来るのを待った。
おかげで、その男がいついなくなったかなどまったく気付かなかった。
二人は、ヤックに入った。
簡単にセットを頼んで、席の一つに向かいあって座る。
「じゃあ、何から話そうか？」
「何で私の考えたことがあんたに聞こえるん？」
さあ、知らない。
「知らないって、あんた！」
「そんなことは、別に重要じゃないんだ」
祐介は、睨みつける保科の視線から、気にせず目をはずした。
重要じゃないんだ、僕達が意識を交わせる理由は。
「そんな訳あるか。この、よう分からんもののせいで私は貴重な時間さいてあんたにつきあっと るんや」
「そうでもないんじゃないかな、保科さん」
「何が？」
保科さんは、僕の考えを知ったら、多分同じように僕の話を聞いていた。
だって、僕と保科さんは、同じ考えをもっているだろ？
「あんたみたいな変態と一緒にせんといて！」
「変態？ ひどいな」
祐介は別に全然気にはならなかった。
君にも分かってるんだろ、僕と君は近いんだ。
「そんなわけあらへん！」
「この現実が、意味のないことを君は知ってる」
ピクンッと、保科は反応した。
「……現実は、いつも無意味」
その意味のない現実から、僕達は抜け出せるかもしれない。
「僕……達？」
保科はそこで祐介の言葉を鼻で笑った。
「達？」
「そう、僕達」
君と、僕なら、抜け出せるかもしれない。
「君と僕なら、それができるかもしれない。いや、できる」
だから、僕は君を誘いにきた。この現実から抜け出すための、婚約者（フィアンセ）として。
「僕は君に、君は僕に惹かれているんだ」
「確かに、そうかもな」
「そうだろ、僕には君の心が見える、君が僕に嘘をつくことはできないんだ」
祐介は、確信していた。保科の答えは、僕の予測通りだろうと。
君は、僕についてくるしか道はない。
祐介の心の言葉に、保科の心の言葉と口の言葉は反応した。
「あほ言わんといて」
「あほ言わんといて」
祐介にはその二つの言葉が同時に聞こえた。
「なっ！」
祐介は、保科と会話をはじめてから、初めてあせった。
「何を言ってるんだ、保科さん。君の心は僕にはわかるんだよ？」
「だから言うとるやろ、あほ言わんといて。何のつもりか知らんけど、私はあんたなんかとはちゃう」
あせって祐介は、保科の心の声に耳をかたむける。はっきりと、彼女の心の声が祐介に聞こえる。
「あんたとは私は一緒や」
「ほら、保科さんは僕と一緒じゃないか」
しかし、その言葉には続きがあった。
「確かに、あんたと私は似とる。けど、あんたと私はちゃう」
どうして！
はっきりと聞こえているのだ。この現実を壊してしまいたいという願望は。耳鳴りがするほど 聞こえてくるのだ、この非現実に惹かれる保科の声は。
でも、彼女は言った。
「あんたと、私は一緒や。だから言っとく、あんたと私はちゃう。あんたは、それに気がつかへんの？」
「一緒なのに、違う？」
保科の言葉は、確かに祐介に聞こえていた。それなのに、祐介にはその意味がわからない。
彼女と僕は心を共有しているはずなのに。
「心の共有？ んなわけあるか。私とあんたじゃ考えることがちゃうんや」
わからない、一体保科さんは何を言ってるんだ？
保科は、それを理解できずに顔を蒼白にさせる祐介に半分睨みながら笑った。
「一日時間やるから、私が一日よお考えた分、あんたもよお考え」
それだけ言うと、保科は立ちあがった。
「明日、また昨日会った場所でな」
「待って、保科さん！」
祐介は何故かすごく不安になって保科を呼びとめた。
祐介は一生懸命保科の声を聞こうとした。でも、聞き取れるのは、現実に対する不満だけ。
なのに、何度聞いてもその答えは一緒だった。
「私はあんたと一緒やけど、あんたとは違う」
どうしてなんだ、どうして、保科さんは僕を受け入れてくれないんだ！
「よう考えることやな、私が考えたみたいに」
保科は最後にそう捨てゼリフをはいてヤックから出ていった。
保科が帰った後には、不安、というより、どこか恐怖におびえるような祐介が残されるだけだった。
続く