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痛かった一日

 

 まだ、みぞおちが痛む。

 私は自分のみぞおちの部分を服の上からなぞった。

 強い一撃だった。

 あのとき、私は勝ちを確信していた。葵にはもう反撃の力は残っていなかったはずだった。 私が最後の一撃を放てば終るはずだった。

 目がさめたとき、私は負けていた。

 カウンターでの一撃。確かに理にはかなっていたが、まさかこの私が一撃で倒される威力があるとは。

「形意拳の崩拳です」と葵に説明されたとき、私はショックだった。自分がバカにした 中国拳法の一撃で自分が倒されたことに。

 いや、中国拳法とか、そういうのではなく、葵が私の知らない所で力をつけていたことがショックだった。

 葵は、私にとってかわいい後輩だった。まじめで、礼儀正しくて、空手を実に楽しそうに練習する。 少し堅い部分もあったが、それでも葵は私の一番お気に入りの後輩だった。

 でも、葵は綾香を慕っていた。それだけならまだしも、空手を捨て、綾香と同じ土俵に上がろうとしていた。

 私は、すごくくやしかった。確かに綾香は強い。美人だし、あのさっぱりとした性格も好感がもてる。 葵が綾香を慕うのは当然のことだった。

 でも、手放したくなかった。葵は、自分の下にいて欲しかった。

 その私の気持ちを葵は裏切り、私の知らない所で力をつけた。

 それが、悲しかった。悔しいのではなく、悲しかった。

 私は時間をもてあました放課後、ただ公園のベンチに座ってぼうっとしていた。

「ダメージが抜けるまで、空手の練習しちゃだめよ」

 綾香のその言葉に私は癪だがしたがっていた。一応病院にも行ったが、同じことを言われた。

 もとより、これでは拳にも力が入らない。練習にはならないだろう。

 私はただ青い空を見ていた。

 考えてみれば、私は空手以外にすることがなかった。

 友人はいるが、遊びにいくことなどほとんどない。勉強も授業中にまじめにやっていれば ついていくことぐらいはできる。本も読まないし、ゲームもしない、音楽も聴かない、 スポーツと言ったら空手だけ。

 そういえば、葵はあの藤田と仲よさそうにしていたな。葵の藤田を見る目はあきらかに特別だったし、 藤田もそれなりにその気のようだった。

 恋人……か。

 私は一番似つかわしくないことを考えた。

「恋人でも作るか」

 私はそうつぶやいてから、慌ててまわりを見渡した。幸い、聞いていた人はいないようだ。

 私は何をつぶやいているのだろうか。だいたい、私は空手にしか興味がない。そんなちゃらちゃら したこと、私がするわけがないではないか。

 きっと私は葵に負けて、逃げようとしているのだ。葵からも、空手からも。

 この傷が癒えたら、もう一度体も心も鍛えなおそう。

 私の前を、高校生のくせに高校生にあるまじき格好をしたカップルが腕を組んで過ぎ去っていく。

 あんなものを見ても、私はうらやましくはなれない。

 空手をすることによって得られる、心身の充実感。それ以上のものがあんなかっこうをして 腕を組んで歩くことによって得られるとは思えない。

 やはり、無理をしてでも空手の練習をしよう。私にはそれしかないのだ。こうやって私が ここで悩んでいる間にも葵はより強く……。

「てめー、何とか言えよ!」

 ふいに聞こえてきた怒鳴り声に、私はその声の方向を向いた。

 さっき歩いていたカップルの男が、見知らぬ男の人の襟首をつかんでいた。

 気の弱そうな、まるで女の子のような顔をした男の人は、襟首をつかまれたまま顔を背けていた。

「人にぶつかっといてだんまりかよ!」

「……放してくれるかな」

「あぁ?」

 バカなかっこうをいた男の顔を睨みつけるわけではなかったが、その人ははっきりとした口調で言った。

「放してくれるかな」

「あぁ、てめー、殺されてーのか!」

 私はベンチから腰をあげるとまだ何か怒鳴り散らす男に近づいた。

「ねえ、あんた、みっともないわよ」

「何よ、こいつー!」

 つれのやはりバカそうな女が私をにらむが、私はそれを無視した。

「あ、何だてめーは。こいつの女か?」

「ただあんたのやってることが恥ずかしいから止めにきただけよ。いいかげんやめたら?」

「てめー、何様のつもりだぁ!」

 男はその人から手を放すと、私に詰め寄った。

「負け犬ほどよく吠えるってね」

「こ、この女!」

 男はバッと腕を振り上げた。何のことはない、単なる威嚇だ。普通の女の子ならそれで恐がるのだろうが、 あいにく私にとっては何でもなかった。

「それで?」

 私は思いきりばかにした口調で男を挑発した。

 こんな男が怒りを押さえられるはずもなく、案の定男は大ぶりの右パンチを打ってきた。

 ズドスッ!

 私は冷静に男の拳を右手で払いのけ、左の中段蹴りを男のわき腹に入れた。

 男の体が斜めにくの字に曲がる。

 パアンッ!

 私は男のみぞおちに、正拳突きをたたきこんだ。

「〜〜〜〜〜〜っ!」

 私はしばらくみぞおちに走る痛みに声が出なかったが、このバカな男は声が出ないぐらいではすまないだろう。

 本当は空手をケンカに使うのはだめなのだが、人助けのためだ、目をつむってもらおう。

 バカそうな男は、その場にへたり込んで苦しがっていた。当然だ、私が無傷ではなく、 さらに手加減したとは言え、私の打撃を直撃でくらったのだ。しばらくはご飯をおいしく食べることができないであろう。

 ギロッと私が女の方を睨むと、女はびくっと震えて男を捨てて逃げていった。

「あら、どうもあんた人望ないみたいね。で、まだやる?」

 まだ苦しそうな男に私が訊ねると、男は首を横にふってはうようにして逃げていった。

「大丈夫?」

 私は逃げていく男を放っておいて、胸をつかまれていた人に話しかけた。

「……ええ、ありがとう」

 どこかつかれたような声でその人は答えた。

 おそらくは大学生ぐらいの年齢だろう。その整った顔は、まるで女の子のようだ。でも、確かの声は男だった。

「ああいうやからが私は許せなくて……」

 と言いかけて私は気づいた。その人の拳が、血で赤黒く汚れていることに。

「どうしたの、その拳!」

 私はとっさにその人の手を取った。その傷は、何か固いものを力まかせに殴ったときにできるような傷だった。

「気にしないで、なんでもないから」

「何でもないことないじゃない。ちょっと待ってて!」

 私はベンチに置いてあった自分のかばんから、傷の手当てのできるものを取り出した。 テーピングや包帯、バンドエイドぐらいならいつも持ち歩いていた。

 私はその人を水道のある所まで引っ張っていって、傷を洗ってからタオルでふくと、包帯をまいた。

 そのときに気付いたのだが、血の止まり具合からその拳の傷はできてから半日以上たっているようだった。 つまり、この人は半日以上この傷を何の処置もしないままでいたことになる。

 私が手早く傷の手当てを終えるまで、その人は一言もしゃべらなかった。

「はい、終ったわよ」

「……ありがとう、助かったよ」

 かけてくれた言葉には、心が一つもこもっていなかった。いや、心ここにあらずという感じだ。

「どうしたの、その傷。力まかせに殴った……」

 私が傷ができた理由を聞こうとして、少し迷った。力まかせに物を殴りつけるという行為は、 つまりどうしようもない怒りや悲しみを感じたときに人が取る行動。何かのはらいせや、人を殴った ぐらいではここまで拳に傷はつかない。

「……もしかしたら骨にまで傷がいってるかもしれないから、病院には行った方がいいわよ」

 この人もこの人なりの理由があるのだろう。私は多くは聞かないことにした。それは私が首を 突っ込むべきことではないはずだ。

「……聞きたいかい?」

「え?」

「僕がここまで拳を痛めた理由、聞きたいかい?」

「えっと……」

 その人は何か大きなため息をつくと、顔を上げた。その人は、何とかという感じではあったが笑っていた。

「それは別として、助けてもらった上に傷の手当てもしてもらったんだから、コーヒーぐらいはおごるよ」

 その人はこう見れば普通の人だった。今さっきまで、心ここにあらずという感じだったのに、 その変化に私は少し驚いていた。

「コーヒーは嫌いなの」

「じゃあ、ケーキは嫌い?」

「甘いものは好きよ」

「よし、きまりだ。近くにおいしい喫茶店があるから、お礼におごるよ」

「い、いいわよ、そんなことしなくても」

 私はお礼をされるなんて思ってもみなかったので、少し驚いて断った。

「いや、おごらせて欲しいんだ。恩のある人にはちゃんと恩で返しなさいってのがうちのおばあちゃんの 口癖だったから」

 理由になっているのかどうかもよく分からないその人の言葉に、私は結局断りきれなかった。

 考えてみれば、お礼をしてくれるというのだから、素直にお礼を受けてもばちはあたらないだろう。

 そしてその人に連れられて公園を出た所で、私は気付いた。

 これって、ナンパされたのかな?

 さすがに私がナンパされるとは思えなかったので、その考えに私自身苦笑してしまった。

 

 カランカラン

「どうも、おじさん」

 その人は喫茶店に入るとカウンターの中にいる一人の中年の男性に話しかけた。

「この子にケーキセットをオレンジジュースで。僕はコーヒーね」

 その人はそう言うと私をつれて一番奥の席についた。私も、それに向かいあうように席につく。

「僕の名前は七瀬彰。君の名前は?」

「……お礼をしてもらっている最中に何だけど、ナンパしてるみたいね」

「……確かにそう見えるね」

 その人は苦笑したような何とも言えない表情でそう言った。

「私は坂下好恵。高校二年生よ」

「えっと、制服を見るところ、あの丘の上の学校?」

「ええ、そう。えっと、彰さんでいい?」

「いいよ、じゃあ僕は好恵ちゃんて呼ぼうかな?」

「ちゃんって、私がそんなタイプに見える?」

「一応僕の方が年上だから、別に不思議じゃないと思うけど、好恵ちゃん」

「……まあ、いいわ。何か納得できないところもあるけど」

 そこでマスターが注文のケーキセットを持ってきてくれた。

「どうぞ、それは僕のおごりだから遠慮せずに」

 私は一瞬ためらったが、ここでためらう必要がまったくないことに気がついてケーキに口をつけた。

 しばらく私と彰さんは何でもない会話を続けていた。

「それで、その拳の傷は大丈夫なの、彰さん?」

 私は話のネタがつきたので仕方なくその話に話題をふった。

 コーヒーを飲んでいた彰さんの手が止まる。

「……正直言うと、まだ痛いかな」

「まあ、あそこまで傷がついてれば、痛いわよねえ」

「……痛みでもないとどうにかなってしまいそうだったから」

「え?」

 私は彰さんの言った言葉の意味は分からなかったが、彰さんが何かに苦しんでいるのだけは分かった。

「いや、何でもないよ。どう、ケーキおいしい?」

 彰さんは作り笑いをして私に笑いかけた。

「……彰さん。こういうのはどう?」

 私の頭の中に、一つのアイデアが浮かんだ。何でもないアイデアだったが、 少しは彰さんの気がはれるのではないかと思って。

「私も、実は今悩みがあるの。彰さんもそうなんでしょ?」

「まあ……ね」

「だから、お互いに悩みを言わない? どうせ私と彰さんは赤の他人だし、悩み事を聞かれても 別にこまらないと思うし」

 私の突拍子もない提案に、彰さんは驚いているようだ。私は止まることなく言葉を続ける。

「私も悩みを言うし、彰さんも言う。これで貸し借りなしで、ちょうどいいじゃない」

「でも……」

 彰さんは乗る気ではないようだったが、私は話しだした。

「私ね、空手をやってるんだけど……」

 私は心の中のもやもやを全部言葉にした。ライバルに後輩を取られた悔しさ、その後輩にさえ追い抜かれて しまう恐怖、そしてその後輩をずっと自分の下においておきたかったのに、それがかなわなかったこと。

 私の中でうずまくあせり、憤り、悲しみ、怒り、そんなものを、全部口にした。

「私には、空手しかないのよ」

 私はそうやって話をしめくくった。

 正直、私は驚いていた。初対面の人に、こんなことを話す自分ではないと思っていたのに。

 でも、私は今何故か素直になれた。人に苦しみを話すことが、今ならできた。

「……」

 彰さんは、最後まで私の話をだまって聞いてくれた。

「じゃあ、彰さんの番よ」

「……僕は……」

 話して欲しい。私はそう思っていた。人に悩みをうちあけることによって、私の心のもやもやは かなり晴れた。そして、悩みを打ち明けられるということが、私に自信を持たしてくれるような気がしたから。

「……僕の好きな人は、僕の親友が好きだった。それだけの事だよ」

 その一言で、彰さんの言葉は終った。

「……」

 私は、少なからずショックを受けていた。何にショックを受けたのかは私にもわからなかったけれど。

「……ありがとう、この一言だけでも、心がいくらかは軽くなったよ」

 彰さんは私に頭を下げた。それは表情を見せまいといてのことだったのではないのだろうか?

 顔をあげた彰さんの表情は確かに、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。

「わ、私、彰さんにひどいことしたね」

「……そんなことないさ。好恵ちゃんのおかげで、こうして笑ったんだから」

「?」

「おや、もうこんな時間だけど、大丈夫?」

 私が時計を見ると、いつのまにか7時になろうかというところだった。

 ということは、私は2,3時間は一人で愚痴を聞いてもらっていたのだろうか。

「えっと、もう帰らなきゃならないけど、今日はごちそうさま、彰さん」

「ああ、気にしなくていいよ。じゃあ、気をつけて」

「じゃあ、さよなら、彰さん」

 私は喫茶店を出た。

 私は、家に帰る途中も、家に帰ってからも、ずっと彰さんのことを考えていた。

 あの悲しそうな笑顔も、あの作り物の笑顔も、あの最後の笑顔も……全部、笑っていなかった。

 あの人はすごく傷ついていた。私は、その傷を広げてしまったのだろうか?

 そして、何故私は彰さんのことがこんなに気になるのだろうか?

 

 次の日の放課後、私の足はあの喫茶店に向かっていた。

 

 続く

 

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