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痛かった一日・二日目

 

 カランカラン

 来るつもりはなかった。でも、私はその喫茶店に入っていった。

 昨日来たのとかわらず、その喫茶店にはお客がいなかった。

 確か、彰さんはここのマスターのことを「おじさん」と呼んでいた。 なれているようでもあったので、ここで待っていれば会えると思ったのだ。

 カウンターに座ると、マスターがお水を出してくれた。

「えっと……じゃあ、コーヒーを」

 本当はコーヒーは嫌いなのだが、なんとなく他の物が頼みづらくて私はそう言った。

 考えてみれば、制服を着た高校生がこんな落ち着いた雰囲気の喫茶店にいるのは不自然のような気がする。

 しばらくするとコーヒーが出てくる。匂いだけならコーヒーもいいのだが、いかんせん私には苦い。 私は砂糖とミルクを沢山入れてコーヒーを飲んだ。

 でも、私は何でここにいるのだろうか?

 今は、確かにダメージが抜け切っていないのでクラブに出ることはできない。 どうせやることなどないのだが、わざわざ彰さんに会いに来る必要があるのだろうか?

 それに、私は彰さんに会ってどうするつもりなんだろうか?

 そんな疑問が私の頭の中を通りすぎるが、私は努めてそれを無視した。

 コーヒーはミルクと砂糖を沢山入れればそれなりにおいしかった。

 お店の中にはゆったりとしたクラシックの音楽が流れている。その曲に聞き覚えはあったが 曲名は知らない。まあ、曲名は知らなくても曲は聴けるだろう。

 相変わらず、お客はこなかった。マスターはまるでそこにいないかのように静かに座ったままだ。

 このゆったりとした空間は、別に不快じゃなかった。

 私は、そこで静かにコーヒーを飲んだ。カップを置くときのカチッという音も心地よい。

 なのに、私は胸が痛くなってきた。

 空手をやめた綾香。自分は彼女のライバルにはなれなかった。それを追った葵。あの子には私と 同じ道を進んでほしかった。そしてその葵に倒されてしまった私。葵には才能はあった。体格はないかも しれないが、それを補ってあまりあるものが葵にはあった。だから、嫉妬していたのも確かだ。 でも、私の知っている所で強くなって欲しかった。私のいない所で強くなって、私を追いぬくなんて、 そんなこと、あってはいけなかった。

 苦しかった。悲しかった。何より、私は今まで何をやってきたのか分からなくなった。

 私は、泣いたのだろうか。

 私が我にかえると、私の手は濡れていた。相変わらずお客はいないし、マスターも眠っているように動かない。

 何を情緒不安定になっているのだろうか、私は。

 きっと、体を動かせないことが、私を情緒不安定にしているのだろう。私には空手しかない。 いや、空手をやっていれば、少なくともその間は何も不安がなくなる。

 空手が、私の世界の全てなのだ。

 やはり無理をしても練習をやるべきだった。こんな喫茶店で彰さんを待つより……。

 そう思っても、私はそこから動かなかった。もう私がお店に来てから1時間はたっただろうか。 相変わらず彰さんは来ない。

 マスターに聞いてみるべきなのだろうか。しかし、マスターは寝ているようにも見える。

 と思いながらマスターの方を見ると、いつの間にかマスターは起きてコーヒーを沸かしていた。

 そして、私の方を見て「なんだい?」という顔をした。

「あ、あの……彰さん、いつここに来るかわかりますか?」

 マスターはそのうち来るだろうから、待っていればいいと言ってくれた。 コーヒー一杯で1時間以上もねばられたのだから、嫌な客だとは思われなかったのだろうか?

 カランカラン

 そのとき扉の鐘がなって、人が入ってきた。

「こんにちは、おじさん。……あれ、君は、好恵ちゃんだったっけ?」

「やあ、彰さん」

 彰さんは笑顔で、単なる普通の笑顔で私に話しかけてきた。昨日の、あの笑えてない笑顔は消えていた。

「どうしたの、コーヒーでも飲みにきたの? あれ、でもコーヒーは嫌いなんじゃなかったっけ?」

「ちょっと暇だったんで来たの」

「ふーん、あ、おじさん、お店番かわりますよ」

 そう言って彰さんはカウンターの中にはいっていった。マスターは店の奥の方に消えていく。

「そう言えば、今クラブにも出れないって言ってたっけ」

「ええ、おかげで暇で暇で」

「ま、ここのお店もまだ暇だろうし、話し相手ぐらいにはなってあげるよ」

「実はそれを期待してきてたりして」

 私はがらにもなく綾香の口調をまねしてみたが、なんとなくやはり変だった。

「て、本当に彰さんと話がしたくて来たんだけどね」

「じゃあ、お店が忙しくなるまでは相手できるからそれまでね」

「ありがとう、十分よ」

 それから一時間ほどだっただろうか、私は彰さんと話をした。

 それで知ったのは、彰さんが大学生だということ、ミステリー小説が好きなこと、ここのマスターは 叔父にあたる人で、よくここでバイトをしているということ。そして、私が世間に疎いこと。

 彰さんの話を私は相づちをうつことしかできなかった。私は空手以外の話は以上に疎かったのだ。

 それでも、その時間は楽しかった。それが証拠に1時間などすぐにたってしまった。

 考えてみれば、男の人とこうやって空手以外の話をするのは父親を除けばいつぶりだろうか?

 そういうちゃらちゃらした考えは好きではなかったが、恐らく私は男の人と親しく話せるのが楽しかったのだろう。

「さっきから僕ばっかりしゃべってるけど、退屈じゃない」

 私は首を横にふった。

「いいのよ、十分楽しいから。どうせ私は空手以外のことは全然知らないから」

 まあ、葵ほどは世間離れしてはいないけれど。

「ふーん、じゃあ、空手の話をしてよ」

 彰さんは急にそんなことを言ってきた。

「いいいけど、彰さん、空手のことなんか分かるの?」

「全然。でも、僕だって好恵ちゃんの分からない話をしてただろう。これでおあいこだよ」

「……そうね、じゃあ……」

 私は空手の話をした。私が空手をはじめたきっかけから、どんなことをするか、どうすれば強くなれるか、 そして負けて悔しかった試合や、勝ってうれしかった試合。そして、綾香や葵のこと。

 いつの間にかお店には数人のお客がいたが、それでも彰さんは出来る限り私の話を聞いてくれた。

 私が我にかえると、もう7時をすぎていた。

「ごめん、彰さん。一人で勝手に話してしまって」

「いいっていいって、僕も楽しかったし」

 私はさすがにこれ以上遅くなるわけのもいかなかったので席を立った。

「じゃあ、帰るわ。今日はありがとう」

「うん、また来てよ、好恵ちゃん。待ってるから」

「分かったわ。じゃあ、彰さん」

 私はコーヒーのお金を払うと喫茶店から出た。

 外は、もうかなり温かくなってきていた。

 私は、ゆっくりと、そのあたたかさをかみしめるように歩き出した。

 心にはわだかまりがまだあったが、彰さんと話しているとそれが少しずつとけていく。

 明日も来よう。私は何故かそう決心した。決心なんて必要ないようなことなのに。

 

続く

 

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