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痛かった一日・七日目やその後

 

 彰さんを私は助けにきたのに。

 もう、そんなことなんてどうでもよくなっていた。

 

 彰さんに、大切なものと言われたら。

 彰さんに、必要とされたら。

 

 私は、もう何も考えれなかった。

 

「彰さん、私……」

 今、私は彰さんの胸の中にいる。

 それが、許されざることであっても、それが、この世の終りでも。

 私は、そこから動きたくなかった。

 勢いでしかないのはわかっていた。でも、今しかない、そうも思っていた。

「彰さん、私、彰さんのことが……」

 もしかしたら、という幻想を私はそのとき抱いていた。

 そしてその妄想の暴走を止めるすべが、私にはなかった。

 

 私には、だ。

 

 彰さんは、ゆっくりと私の肩を持って、私を胸から離した。

「ごめん、好恵ちゃん。僕は、君に応えられない」

 

 彰さんは私の暴走を単純かつ簡単に止めた。

 

 胸が、苦しい。息が、できない。

 私は、彰さんにあずけていた体を自分に引き戻した。

 そのとき、私はすごい表情をしていたと思う。自分では見れないので本当かどうかはわからないけど。

「そうよね、彰さん。私、何一人で勝手に暴走してるんだろ」

 ここから、逃げなくては。

 もう、彰さんの顔を直視できない。

 もう、彰さんと平気な顔をして話ができない。

 私は立ち上がろうとして、腕を彰さんにつかまれた。

「……放して、彰さん。私、もう……」

「違うんだ」

 彰さんは私を持つ腕に力をこめた。

「まだ、僕は好恵ちゃんの気持ちに応えることができない」

 ……まだ?

 かすかな希望だった。もしかしたら、単なる彰さんの言葉のあやかとも思った。

「僕は、まだ決着をつけてないから。まだ、はっきりと美咲さんに言ってないから。僕には好恵ちゃん に応える資格がないんだ」

「それって……」

「好恵ちゃん」

 あの、彰さん独特の、私の呼び方だった。話を聞いてほしいと言ったときや、初めて名前を呼んだ ときや、この数日ずっと、彰さんの私を呼ぶ呼び方は、好恵ちゃん。

 こんな呼び方をする人、他にいない。

 だって、私をちゃんづけで呼ぶなんて、似合わないじゃない。

「だから、待っててほしいんだ。僕が、決着をつけるまで」

 これからうまくいくかどうかなんてわからないけど。

 私は、顔を押さえた。涙が、止まらないから。

「好恵ちゃん、待っててくれるかい?」

「……うん、待ってる、彰さん」

 待つのは好きじゃないけど。

 きっと今、私にできる最大の行動だから。

 

 私は、息を整えた。

 空手の練習は、結局今回この息を整えるときしか役にたたなかった。

 

「彰さん、私、彰さんのことが好きだから、待ってるわ」

「……ごめんね、好恵ちゃん」

「いいのよ、彰さん。そのかわりというのも何だけど……」

 私は意地悪っぽく笑った。こと今回だけは、綾香よりもこの表情はさまになっていたと思う。

「せっかくだから、朝までお話はしよう、彰さん。どうせもう家に帰ってもだめだから」

 その言葉は、彰さんに深夜に女の子を部屋につれこんでいることを自覚させたようで、彰さんも 苦笑した。

 

「ねむぅ……」

 私は大きなあくびをしながら早朝の道路を歩いていた。

 結局、昨日は一睡もせずに彰さんと話をしていた。

 当然というか、色気のある方には走らなかった。まあ、それ以前に私を見て男の人が性欲を感じるのか どうかは怪しいところではる。

 しかし……

 私は、一抹の不安を感じていた。

 綾香は、ちゃんと首尾よくやってくれただろうか?

 それにはさすがに一抹の不安が残る。

 綾香は、まあ確かに才能はあるし、機転もきくが、信用におけるかというと少し不安だ。

 後からヤックをおごれというぐらいなら問題はないのだが……

 私はそう思いながらも家についた。さすがに帰らないわけにもいかない。

 まあ、どうにでもなれと思って私は家の扉を開けた。

 そのまま、ただいまも言わずキッチンに入る。

 別にやましいわけではない、今の時間、両親ともに起きているわけがないからだ。

「あら、好恵、お帰り」

「あ、お、おはよう、母さん」

 そこには何故か母さんがいた。いつもならまだ起きるまでには30分以上時間があるはずなのに。

 もしかして、ばれた?

 私は極力顔には出さないようにしたが、あせっていた。

「来栖川さんから連絡がきたけど、また負けたんだって?」

「そ……そうよ、ちょっと綾香の挑発にのっちゃってね」

「まったく、それが嫁入り前の女のすることかねえ」

 と母さんは何か時代錯誤のことを言いながらお弁当を作るのを再会した。

 私はほっとしてキッチンから出ようとした。

「あら、着替えてでも来るのかい?」

「うん、それもあるけどお風呂にも入りたいしね」

「おや、彼氏の部屋で入ってこなかったのかい?」

「……は?」

「で、結局彼氏とはうまくいったのかい……て、あんたの顔を見ればうまくいかなかったとは 思えないけどねえ」

 あ、綾香め……。

「あ、綾香、しゃべりやがったな……」

 私はうなるように言った。

 と、母さんはカラカラと笑った。

「あらあら、本当だったのかい?」

「え?」

「来栖川さんはちゃんといいわけしてくれたよ。あんたが、私の言葉にひっかかったのさ」

「……母さん、たばかったのね」

 私は顔をひくつかせながらおかしそうに笑う母さんを睨んだ。

「男の所に泊まって朝帰りするような子供にとやかく言われる筋合いは母さんにはないよ」

「くっ……」

「で、どうなの、うまくいった?」

 こ、この親は、子供のことでもゴシップになるのか?

「……確かに男の人の家に泊まったわよ。でも、何もなかったわよ」

「何も?」

「そう、何も」

 母さんは残念そうにため息をついた。

「あんたのその態度を見ると本当に何もなかったみたいねえ。せっかく、あんたにも彼氏ができたかと 思ったんだけどねえ」

「それが朝帰りした子供に親が言うセリフか」

「いいじゃない、物分りのいい親で」

 そう母さんはカラカラ笑うと、お弁当を作るのに戻った。

「今度はうまくやりなさいよ、あんたみたいな子にはあんまりチャンスなんてないんだから」

「大きなお世話よ!」

 私はこの親の非常識さにあきれながらキッチンを出た。

 

 

 そらから、しばらくの年月がたった。

 

「おーい、好恵」

「何、御木本?」

 私は汗をタオルでふきながら聞いた。

 もう胸の傷も治り、私は毎日空手の練習にあけくれていた。

「彼女来てるぜ」

「・・彼女?」

 私はしばらく考えてから、おもむろに拳を握り締めた。

「御木本……あんた、彰さんをバカにしてただで済むと思ってるの?」

 御木本は自分の命の危険を感じたのだろう、距離を取ってから言った。

「お前よりお前の彼氏の方が何倍もかわいいだろうが」

「人が気にしていることを……後から殺す」

 私は御木本に睨みをきかせてから、いそいで道場から出た。

「やあ、好恵ちゃん」

 彰さんは、御木本のいうように、私よりも何倍もかわいい笑顔で私を迎えてくれた。

「ごめんね、彰さん。御木本が変なこと言って。後からちゃんと教育しとくから」

「ははは、別にいいよ。昔から女の子みたいとは言われてたしね」

 でも、私よりもかわいいというのも別に気にならないのだろうか?

 あれから、色々あった。

 でも、今の時間を手に入れたことを考えると別に苦労したとは思わない。

「じゃあ、ちょっと待ってね。今から着替えてくるから」

「あれ、今日は練習はもういいの?」

「今日はもうあがりにするわ、せっかく彰さんが迎えに来てくれたんだし。大丈夫、別に一日少し 時間が短くなったくらいで弱くなったりしないから」

「それならいいんだけどね」

 彰さんは、私が空手を好きなのを理解してくれている。だから、自分が空手の邪魔をするのを 避けたいのだ。

 私は、そんな彰さんの気持ちを知っていたので、今日もいつもより時間を短くして練習内容を ハードにしていたのだ。

 私は急いで更衣室に入ると手早く体を濡れタオルでふいて着替える。本当はシャワーを浴びたい 所だが、彰さんを待たせるわけにもいかない。

 何より、この汗にまみれた私が、やっぱり私らしいと開きなおった。

 私は更衣室から出ると残りの部員に言った。

「じゃあ、私がいなくてもちゃんとやるのよ」

「へいへい、今から彼氏と遊びに出る人にいわれたくはないけどね」

「御木本、後からあんたとはちゃんと話しあわないといけないようね」

 私は御木本にもう一度睨みをきかせてから道場を出た。

「おまたせ、彰さん。さあ、いきましょ」

「うん、今日は、ケーキ食べに行きたいんだけど。おいしいケーキ屋さんができたんだって」

「彰さん……ほんとに女の子みたいね」

「だめかな?」

 私は、クスッと笑った。

「だめなわけないじゃない、じゃあ、ケーキ食べに行きましょ、彰さん」

 私は、彰さんと手を組んで歩きだした。

 

 彰さんは、決着をつけてきた。

 私は、それぐらいの時間は待っていられた。

 痛かった日々も終りをつげて、私は、二つの楽しい時間を手に入れた。

 

 空手をする時間と、彰さんと一緒にいる時間。

 

「そうそう、彰さん。もう少しで空手の大会が始まるから、見に来てくれる?」

「もちろん見に行くよ。好恵ちゃんの勇姿を見ないわけにはいかないよ」

「勇姿……て、野蛮だと思ったりしない?」

 これは、いつも私が聞いていること。

「思わないよ、それも含めて好恵ちゃんだろ?」

 彰さんの答える言葉も同じ。

 でも、こんな時間をずっと過ごしていたい。彰さんとこんな痛くない日を。

 私と彰さんは、まだまだこれから。

 まだ、沢山の長い時間を一緒にすごすことになると思う。

 多分、ケンカや仲たがいもすると思う。でも……

「好恵ちゃん」

 この呼び方を許すのは、彰さんにだけ。

 これからも、ずっと。

 痛かった一日をぬけた二人だから。

 これからも。

「何、彰さん?」

 

 終り

 

 

 おまけ

「おら、たるんでるぞ、森近!」

「無茶言わないでくださいよ、御木本先輩。坂下先輩だってここまでしごかないですよ」

「ええい、つべこべ言わずに続けろ。精神鍛錬だ精神鍛錬!」

「いくら坂下先輩に彼氏できてむしゃくしゃしてるからって……」

「……何か言ったが、森近?」

「い、いえ、別に、何も、はい、言ってませんよ」

「……じゃあさっさと続けな、ほらラスト100回〜!」

「そんな〜」

 ここにも痛い日々を送っている少年が一人。

 救われるかどうかは別だが。

 

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