大学の講義なんて、真面目にうけるやつの気がしれなかった。
いや、これはただ俺がさぼっているだけという話ではなく、実際、大学に真面目に勉強にしに行くやつより、とりあえず行ってるやつの方がかなりの数多いのだ。
それが実際に、この講義は出席を取らないので、あまり広くもない部屋の席は、けっこう空いていた。最初のころは教室からはみ出しそうなほどにいたのだが。
「う〜ん、もう食べられないよ」
お決まりの寝言を言いながら、横で名雪が寝ている。講義中に寝言はどうかと思うが、他の者も小声でしゃべるか、携帯をいじっているか、または名雪のように寝ているようだ。北川にいたっては、すでに来てさえいない。
俺も大きなあくびをしながら、ゆっくりと時間が過ぎるにまかせていた。
しかし、何をしているのか、横では香里がカリカリと何かを書いている。
「……なあ、香里。何やってんだ?」
香里は、しばらく俺の声が聞こえなかったように手を動かしていたのだが、一段落ついたのか、手を止めて俺の方を向く。
「ノート取ってるに決まってるじゃない」
「いや、そういうことじゃなくてだな」
香里は香里でいつも通りふてぶてしい面がまえだ。極道の妻とかやらせたらぴったりだと俺は前々から思っていた。ま、その話は置いておいて……
「ノートって、何も黒板書いてないだろ」
今は珍しく汚い図を黒板に書いているが、それ以外は、ずっと教授は前でしゃべっているだけだ。
「相沢君、黒板に書かれたものだけを写すのが勉強ってわけじゃないわよ。私は、先生のしゃべってる内容で重要だと思うところをメモしてるだけよ」
「なるほどな。でも、香里ってそんなに真面目だったか?」
確かに、よく寝てる名雪と比べれば真面目だと思うが、それにしたって、そこまで細かいところまでメモするほど真面目ではなかったような気がするのだが。
だが、その問いに、香里は相変わらずふてぶてしい顔のまま、とんでもないことを言う。
「私は名雪達とは違って、4年で卒業するつもりだから」
「……もしかして、その達って中には、俺も含まれてるのか?」
「当然よ」
香里は、何をバカなことを聞くのかという表情で言った。
「この講義が必修なのは知ってるわよね?」
「ああ、だからわざわざ出席も取らないのに来てるんだけどな」
出席は取らないと教授は言っていたが、別にそんな言葉を守る義理などどこにもないのだから、フェイントをかまされて出席を取られるとこまるから俺は出てきているのだ。
もちろん、今日は舞も佐祐理さんも講義のある日なので、大学でお昼を食べる約束があるのだから、さぼる意味もない。
「来てるだけでじゃあ、確実に単位落とすわよ」
「って言われてもなあ、黒板なんてほとんど書かないし、言ってる言葉は早口だし、教科書とまったく違ったことやってるし」
「まあ、実際そうなんだけど、この先生、テストに今しゃべってることしか出さない上に、点数足りなかったら容赦無く落とすわよ」
「……ちょっと待て、香里はんな情報どこから手にいれたんだ?」
「知り合いの先輩がいるのよ。面倒でもちゃんとメモしておいた方がいいってね」
しかし、香里がちゃんとやっているなら、俺らは安泰ってことだな。
俺がそんなことを心の中で考えていると、香里はため息をついて言い放った。
「言っとくけど、私は相沢君にも名雪にも見せる気はないわよ」
「北川は?」
「言うまでもないでしょ」
香里は見せる気はまったくないようだった。
「今から真面目にやる分はいいが……香里、交換条件といかないか?」
「交換条件に出すものによるわね」
「人の足元見るの好きだもんな、香里は」
「人を人間のクズみたいに言わないでよ。交換条件でのんであげるだけましでしょ」
確かに、ここでにべもなく断られたら、それはそれで困ったりするのだから、俺としてはばんばんざいなのかも知れない。
「分かった……じゃあ、佐祐理さんの手作り卵焼き一つで手を打たないか?」
香里は佐祐理さんの卵焼きを俺から強奪した経験がある。あのうまさを体験したなら、これはなかなか断り辛いだろう。完璧な作戦だ。
「3つ」
「っていきなり値上げするか、普通?」
「相沢君こそ、一つなんてケチなこと言わないでよ。私としては、3つでもかなり譲歩してあげてると思うけど?」
そりゃあ俺だって、一つなんてケチなことは言いたくない。しかし、交換条件に出しているものが、佐祐理さん特製の卵焼きだ。一つでも十分な価値があると俺は思うのだが。
「さあ、3つ以上はまからないわよ。あきらめなさいよ」
いつものこの状況なら、俺が折れるしか手がないだろう。しかぁし、俺を甘く見てもりゃっちゃあ困る。こういうときのために、ちゃんと手段は用意してある。
「そうか、じゃあ、心苦しいが、俺も奥の手を使わせてもらうことにするか」
「えらく安い奥の手ね」
「言いたきゃ何とでも言ってくれ。俺には栞ちゃんという奥の手があるんだからな」
「……分かったわ、卵焼き一個でいいわよ」
「って、さすがに引き下がるのが早くないか?」
俺は拍子抜けしてしまった。香里のことだから、もう少しねばってくると思っていたのだが。それに、俺は俺で同棲のことを握られているのだから、最悪引き分けの状態になることさえあると思っていたのだが。
それが、どちらかと言うと、もう栞ちゃんの名前を聞いた瞬間にあきらめたようにも見える。
「それが、最近栞が関わってるとろくなことないのよ」
つかれたように言う香里は、栞ちゃんの病気のことで悩んでいたときよりも、かなりまいっているように見える。
「なあ、確かに栞ちゃん、最近わがままにはなったが、そんなに問題なほどなのか?」
「……まあ、栞のことだから、相沢君の前では猫かぶってるんでしょうね」
栞ちゃんが猫をねえ?
いつもわがままではあるし、そんなに猫かぶってるかなあ?
あれで猫をかぶってると言われると、脱いでもすごいんですじゃなかった、猫の皮を脱いだらすごいことになるような気がするが……
「そんなにきついのか?」
「心労で顔にしわができそうなほどにね」
「ああ、なるほど、だからおばさん顔なの……」
俺は、喉元にシャーペンをつきつけられたので、それ以上言うのはやめにしておいた。いくらなんでもお肌のまがり角だということを指摘しただけで殺されてはかなわない。
「なあ、そんなお前を悩ませるほど栞ちゃんはすごいのか?」
むしろ、面の皮とかが鉄かチタンでできてそうな香里を心労で折るとは、想像だにできないのだが。
「すごいわよ。姉の口からはこれ以上言えないぐらいね」
にやりと香里が笑う。あきらかに、その先で待っているものは、危険なものだ。俺は直感でそう判断した。
「見てみたいような気もするし、恐いような気もするし……とりあえず、卵焼き2個ってことで、聞かなかったことにしていいか?」
「賢明ね」
香里はその一言で契約を済ませると、前を向いてまたノートを取り始めた。俺も、香里に習ってというか、自分の身可愛さのためにノートを取ることにした。
無意味にただっ広いキャンパスの端の方に、やはり何故かまわりに講堂もないのに、テーブルやイスが置いてあるところがあった。ご丁寧に、屋根までついてる。
話によると、ここらにも講堂が建つはずだったのだが、この少子化のご時世、定員割れも起きるような状態では講堂を増やす意味もなく、工事が途中で止まったらしい。
そして、ここは少し離れ小島として、昼寝をしたい生徒や、お金のない恋人達がいちゃいちゃする場所に使われているというわけだ。
そういう俺も、ここはよく使わせてもらっている。というより、ほぼ毎日、3人全員が大学がない日、まはた午前しか講義がない日を除いて、いつも使っている。
一緒に昼食を食べると決めている俺達にとってみると、ここの場所は非常に都合のいい場所だった。
「おまたせ、舞、佐祐理さん」
「遅い、祐一」
すでにテーブルの上にお弁当を広げて、二人は待っていた。
「まあまあ、祐一さんも色々あるでしょうし。それよりも、後ろの方も今日はご一緒ですか?」
祐一の後ろにいる名雪と香里を見て、佐祐理さんが訪ねてきた。いつもなら「アツアツのところを邪魔するのは悪いわね」と言って香里が名雪を引っ張っていくので、二人が昼食のときここに来るのはまれなのだ。
「佐祐理さん、実は……」
「はい?」
「悪魔の誘惑に負けて、この身かわいさに……佐祐理さんの大事な卵焼き二個で手をうってしまったんです。こんな罪深い俺をゆるしてください」
俺は、懺悔よろしく、ひざをついて佐祐理さんに謝る。
「ちょっと、私は悪魔役?」
後ろで香里が突っ込むが、俺と佐祐理さんの息の合った掛け合いに入り込む隙はない。
「あははーっ、本当は許されないことですけど、今回だけは特別に許してあげます」
「ありがとうございます、佐祐理様っ!」
俺はひしっと佐祐理さんの足元にしがみつく。うーん、やわらかくていい感じだ。
「いいから、早く食べよう」
あくまで舞はマイペースだが、まあ3人きりにならないときの舞はいつこんな感じだ。
「ちょっと、あくまで私を悪魔として通すつもり?」
「香里って悪魔だったんだ。納得」
「納得しないでよね。私は公平な交渉のもと、卵焼き2つを手に入れたんだから」
そういうと、ずかずかと香里はお弁当を広げたテーブルに近づいてきた。
「さ、というわけで、卵焼き2個、すぐにもらいましょうか」
「はい、何があったか知りませんけど、どうぞ」
佐祐理さんはにこにこしながら、愛しの卵焼きを二つ、予備の取り皿に取り分ける。
その取り皿を受け取った香里は、何故かその卵焼きを厳重にチェックしてから、こっちは持参のお弁当を取り出す。
「これで交渉成立ね。ノートは、次の講義のときに渡すわ」
「くう、さよなら、俺の愛しの卵焼き」
俺は、その俺の胃袋に入るはずだった卵焼きに最後の別れをする。
「つまり、香里は借金のかたに祐一の大事にしてる卵焼きを奪う極悪人だったの?」
「名雪はだまっといて」
「うん、わかった」
相変わらず起きても寝ぼけているような名雪のいいかげんな言葉を一蹴して、香里は隣のテーブルにお弁当を置いた。
「じゃあ、ラブラブなところ悪いけど、こっちで私達も昼食にさせてもらうわ」
「あ、今日はここで食べるんだ。じゃあ、祐一、おかずの取りかえっこしようよ」
「嫌だ、何が悲しくてお前のまずい弁当と、佐祐理さんの至玉のお弁当を代えなきゃならないんだ」
こともあろうに、名雪も香里も、どちらも弁当は手作りなのだ。あの朝に起きられないことは政治家がワイロをもらっていることより明らかな名雪がどうやってお弁当を作っているのかは、世界の7不思議の一つだ。
もちろんというか当然というか、その味はあまりかんばしくない。香里の弁当はうばったことがないので、どんなレベルなのかは謎だが、少なくとも本人が卵焼きは佐祐理さんの方がおいしいと言っている。
「けちー。じゃあ、香里、その卵焼き……」
「だめ」
「……その卵焼き、においかがせて」
「だめ」
香里はぴしゃりと言いきると、お弁当を開けた。
「それじゃあ、私達二人はここでひっそりと昼食にするので、お気になさらずに」
「ね〜、ちょうだいよ〜。祐一も香里も、何で分けてくれないのよ〜」
全然静かではないが、とりあえず、いつものことなので俺は無視することに決めた。
「じゃ、お待たせ。俺達も昼食にするか」
「だから遅い、早く食べよう」
舞は、見た目からはなかなかわからないが、おいしそうな肉を目の前に置かれたときの犬よりもランランとした目でお弁当をにらんでいる。
「あはは〜っ、もう舞には我慢の限界みたいです」
佐祐理さんの言うことももっともなので、俺達は手を合わせる。食事のときの挨拶というのは大切なもんだからな。
「それじゃ、いただいきま〜す」
「いただきます」
「いただきま〜す」
相変わらず3人分とは思えない量のお弁当を、取り皿に取って食べる。もちろん、一人分ずつに分けた方が安全ではあるのだが、舞と佐祐理さんでは食べる量に差があるので、重箱が使えなくなってしまうのが難点だ。というか……
「いつ思ってたんだけど、佐祐理さん」
「はい、何か?」
俺はずずっ〜、とお茶をすすって、口の中のものを飲み込んでから訊ねた。
「佐祐理さん、いつもこんなお弁当持ってきて、重くないんですか?」
いつも疑問に思っていたのだが、まるで家族で運動会の応援に行くような重箱を持っていつも大学に来ているのだ。重くないわけがないと思うのだが……
「もう慣れてしまいましたし。それに、舞も手伝ってくれますし」
「そうなのか、舞?」
舞はどっちかと言うとというか、完全に食べる方専門で、あまり佐祐理さんの手伝いをするというのは思いつかないのだが。
舞は、しばらくもぐもぐと口を動かして、食べ物を全部飲み込んでから、こくんと頷いた。
……何でもいいが、食べてるときには、舞って他の動きができないんだよな。
今からは想像もつかないが、舞の身体能力はケタ外れている。佐祐理さんも平均からすればかなりの能力の持ち主だが、こと身体能力においては、舞には遠く及ばないだろう。
しかし、舞の、とくにご飯を食べているときの舞の姿からは、その能力を、すこっしも生かしていないように俺には見えた。
「何なら、俺が持ってきましょうか?」
少なくとも軽いというには重いお弁当のはずだ。俺にも、いつもというのは辛いだろうが、3人分にわければその分軽くなるはずだ。
そう、あのとき、3人で誓ったのだから。
辛いことは3人でわけて、楽しいことは3人分。
だから、俺達はいつも重箱をつつくのだ。3つにわけるよりも、一つのものを3つにわけた方が、重りは軽くなるし、楽しみは3人分になる。
「大丈夫ですよ、祐一さんの手を煩わせる間でもありませんし」
「そうですか? 重かったらいつでも言ってくださいよ」
「祐一」
丁度口の中の物を飲み込んだ舞が、こっちを何故かにらんでいる。
「どうした、舞」
「佐祐理にだけ優しい。不公平」
「あははーっ、佐祐理に優しくしてるから、舞がやきもちやいてるんですよーっ」
これも見慣れた光景とは言え、このままほっておけば怒るか泣き出すかするんだから、ちゃんとフォローは必要になってくるわけだ。
まあ、こういう舞の姿も、嫌いではないのだが……
「……てこら香里と名雪。何だその目は」
実にいやらしい目と、実にバカっぽい目でこちらを見ている二人に、俺は文句を言った。
「べっつに〜、ただ、仲良さそうだなと思っただけよ」
「だから、卵焼き……」
あくまでも卵焼きにこだわる名雪は捨て置いて、俺は舞と佐祐理さんをかばうように立ちあがる。
「舞、佐祐理さん、俺の身に代えても香里の魔の手からは守る。だから、とりあえずおかしなこと香里と名雪には教えないでくれ」
「あははーっ、私はかまいませんけど」
「守ってくれるなら、かまわない」
「ちょっとちょっと、何でいつも私が悪役なのよ。そっちがいちゃいちゃしてる方が悪いんじゃない」
一人おかしなのがまじっている以外は、やはり3人でいるときの方が、悲しさ3分の1、楽しさ3倍だ。
もちろん、いつも通りに一筋縄ではいかない組み合わせだが、それだって、俺には魅力的に見えた。だから、俺は3人でいつも一緒にいるのだ。
いつまでも、この関係が続くだろうことを、俺は疑っていない。少なくとも、3人かかれば、香里の悪魔ぐらいなら、撃退できるのだ。
または、正体のわからない、魔物ぐらいは。
「だから卵焼き……」
名雪の最後の言葉だけは、ちゃんと全員無視した。
続く