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窓のある部屋
5:日々という期間

 

 昨日は災難だった。

 俺は、何とか生きたままあの晩をこすことができた。

 俺は生きている実感を満喫しながら町を歩いていた。

 というのも、昨日栞ちゃんに付き合って、部屋に帰るのが21時すぎになってしまい、舞と 佐祐理さんをかなり怒らせてしまったのだ。

 そりゃあ、栞ちゃんの誘いを最後まで断れなかった俺が悪いのだが、まじで昨日は殺されるかと 思ってしまった。

 で、何とか舞と佐祐理さんをおだてたりすかしたりあやまったりして、今日に命をつないだのだ。

 今日は大学は休みなので、こうやって一人で町をぶらついているのも、ほとぼりがさめるまで 部屋から逃げているのだ。

 まあ、夜になったら、というか昨日のこともあるので夕方には部屋には帰らなくてはならないが、 身から出た錆ということで俺は観念していた。

 さてと、これから何をするかな。

 このごろは食事を必ず3人で食べているので、俺が一人でいる時間はほとんどないのだが、 こうやって一人になってみると、これと言ってすることがないのに気がつく。

 うーん、何をしようか……

 ナンパをするってのは、俺の趣味ではないし、女の子は舞と佐祐理さんで十分間に合っている。 しかし、買い物というのも、買うものなど別にない。

 仕方ない、こういうときは真琴の喫茶店に行って真琴でもからかうか。

 俺はそう思って、喫茶店アバ○ティーに向かおうとして立ち止まった。

「あれ、祐一クン?」

 突然、俺は名前を呼ばれて、そちらを振り返る。

「あ、やっぱり祐一クンだ」

 そこには、にこやかに笑って俺に手をふる女の子がいた。

「……あゆじゃないか!」

「お久しぶり、祐一クン」

 あゆは、昔からは考えられない落ちついた様子で、俺との再会を喜んだ。

 俺は少し調子は狂ったものの、ひさしぶりに会うあゆにかけよった。

 

 あゆ、月宮あゆは、俺が小さなころにこの町に来たときに知り合った女の子だった。

 そのころのことは、今でもかなり鮮明に覚えている。

 会ってからほとんど時間はたっていなかったが、あのころの俺とあゆは急激に仲良くなっていった。

 そう、それは、俺の初恋だったのかもしれない。

 でも、その恋は、すぐに終りをつげた。

 あゆは、登った木から落ちて、意識不明になってしまったのだ。

 その後、あゆがどうなったのか知らされないまま、俺はこの町から、自分の住む町へと帰って しまった。

 そして、その悲しい記憶は、俺の中で封印され、俺はそれを長い間思い出すこともなかった。

 俺はある理由があって、名雪の家に下宿して高校にかようことになった。そのためにこの町に戻って きて、俺はあゆと再会した。

 それはとても不思議な体験だった。

 俺は、再会したあゆと何度も会って、話をした。名雪も、秋子さんもあゆと話をしていた。

 でも、そのとき、あゆは意識不明のまま、病院のベットで寝ていたのだ。

 あることがきっかけで、俺はあゆが意識不明だったのを思いだし、そして、それをあゆに問いただした。 あゆは、それには答えれず、途惑うばかりだった。

 そこでまた一騒動起こって、あゆは奇跡的に意識不明の重体から意識を取り戻し、今にいたる。

 

「でも、ほんとにひさしぶりだね」

 俺は予定を変えることなく、喫茶店アバ○ティーにいた。ただし、あゆを誘ってだ。

「ああ、確かもう一年ぐらいは会ってなかったっけな」

「そうだね、それぐらいにはなるかな?」

 あゆは長い間意識不明で寝ていたので、もちろん筋力は衰えていたし、精神は意識をなくした ころのままだった。

 あゆの家がかなりのお金持ちだったのと、親や医師の必死の看護や、意識を取り戻したあゆ本人の 多大な努力でも、普通に生活を送れるようになるには長い年月が必要だった。

 意識が戻ってからはじめのころは、よくあゆはヒステリックを起こしていたものだ。

 体が思うように動かない。親も、自分が知らない間にふけていたし、知っている人など誰もいない。 それに、長い間意識がなかったことによる障害。

 何よりあゆを苦しめたのは、「早く社会に復帰して、普通に生活したい」というあゆ自身の思いだった。

 どんなに努力しても、少しもうまくいかない。体を動かせば、いつでも悩まされる関節や筋肉の 痛み、そして自分の記憶にはない自分の体。

 そういうものが、いつもあゆを苦しめていた。

 それを支えたのが、あゆ本人の意思、そしてあゆの両親であり、俺や、水瀬家の家族であった。

 あゆには、俺がこの町に戻ってきてから、あゆの体が意識を取り戻すまでの間のことも記憶に あった。だから、俺や、秋子さん、名雪の存在は、あゆに大きな安心感を与えれたのだ。

 まさに血の滲むような日々を送り、あゆは普通に生活できるまでになった。

 そして、それを同じくするように俺はあゆに会うことが減っていった。

 もう、俺の手助けが必要だとは思わなかったし、俺自身も、舞や佐祐理さんと同じ大学に入る ために遅まきながら受験勉強をはじめたからだ。

 何より、これ以上は、あゆにとって俺の存在は弊害になるのでは、という考えがあったから、 俺はあゆと段々と会わなくなっていった。

 でも、今のあゆの様子を見ると、それはけっこう成功しているようだった。

「で、今あゆは何をやってるんだ?」

「ん、ボクは通信教育で、この間中学を卒業したところだよ」

「へー、最近は通信教育で中学も受けれるのか」

「うん、本当はできないみたいなんだけど、ボクは特別なんだって」

「そういや、お前が意識を取り戻したときはけっこう騒がれたしなあ」

 あゆが意識不明から治ったときには、けっこうな話題となった。そのときに大きな事件がなかった からなのだが、「7年間の意識不明を越えて!」「奇跡の回復!」「7年の眠り姫!」など、いいかげん なフレーズでけっこうテレビや新聞で騒がれたのだ。

 今後のその少女の社会復帰を考え、実名と顔写真は出すのを禁じる、ということで、あゆは 日本中で有名にはなったが、顔はテレビにも新聞にも出なかった。

 もっとも、顔がテレビに出れば、おそらくお茶の間の同情数はかなりのものになったろう。

 意識不明の間、ずっとベットに寝ていたし、栄養もチューブから体の中に送られていたので、 少しやせてはいたが、それでもあゆはかなりの美少女なのだ。

「あの「7年の眠り姫」はなかったな。お前が眠り姫って感じはしないもんなあ」

「うぐぅ、ひどいよ。こう見えてもけっこう容姿には自信あるのに」

「ほ〜う、言うねえ」

 俺はいつもの調子であゆをからかってみた。

「うぐぅ……って、ボクがいっつも言い負けると思った?」

「へ?」

 あゆはクスクスと笑った。

「じゃあ、どうすれば祐一クンはボクがお姫様みたいだと言ってくれるのかな?」

 そう言うと、あゆはテーブルに身を乗り出して俺の方に顔を近づけた。

 あゆに会って初めて、俺は途惑った。

 やわらかそうな髪がサラサラと流れる音も聞こえてきそうなぐらいあゆの顔は俺の近くにあった。

 シャンプーか何かのいい香りが、俺の鼻腔をくすぐる。

「ねえ、祐一クン……」

 カシャーンッ!

 けたたましい音をたてて、テーブルの上にコーヒーカップが置かれた。というか、この音はどう 聞いても叩きつけたようにしか思えなかったが。

「はい、ご注文のブルーマウンテンとアイスコーヒーね」

 真琴が、ぶっきらぼうにアイスコーヒーもテーブルに置く。

 ふりかえると、もうあゆは席に座ったままこっちをのほほんとして見ていた。

 真琴は、キッとあゆの方を睨む。

「おひさしぶり、あゆさん」

「ひさしぶりだね、真琴ちゃん」

 あゆは平然と笑っていたが、真琴の方は今にもかみつきそうな勢いだった。声にもかなり棘が 感じられる。

 真琴も水瀬家の一員なので、あゆとは会ったことがあるのだが、何度かどうもこの二人は馬が 合わないようだ。

「お、おい、真琴。もっとゆっくり置けよ」

 俺は一瞬二人のにらみ合いに呆けそうになったが、我に返って真琴に文句を言った。

 だが、真琴は謝るわけでもなくキッと俺を睨んだ。

「祐一!」

「な、何だ?」

「どうぞごゆっくり!」

 それだけ言うと、真琴はぷいっとそっぽを向いて行ってしまった。

「……何だったんだ、あいつは?」

 あっけに取られる俺の前で、あゆがクスクスと笑っていた。

「あれでコーヒーこぼしてないのはすごいよね」

 テーブルを見てみると、確かにあれだけ派手な音をたてたわりには少しもコーヒーはこぼれて いなかった。

 が、何かあゆに話をそらされたような気もした。

 あゆは自分の前に置かれたコーヒー、ブルーマウンテンとか言っていたろうか、にミルクを入れると 口をつけた。

「ん、あゆ、お前コーヒーに砂糖入れずに飲むのか?」

「うん、けっこう慣れるとこっちの方がおいしいよ」

「そんなもんかねえ」

 俺はそう言いながらアイスコーヒーにミルクとガムシロップを沢山入れて飲んだ。

 それを見てあゆが笑う。

「祐一クンって子供なんだね、そんなに甘くしてコーヒー飲むなんて」

「へん、コーヒーに砂糖を入れないのが大人なんて子供の考えることさ」

 俺は負けずと言い返した。

「あゆだって、どうせ砂糖を入れなければ大人だとか思ってるんだろ」

「うぐぅ、確かにはじめはそう思ってたけど、今は普通にブラックも飲めるんだよ」

 あゆはそう言うとおいしそうにコーヒーを飲んでいる。そして、ふと思い出したように口を 開いた。

「それでね、今度の春から、高校2年生に転校って形で入れるんだ」

「へーって、そんなこと可能なのか?」

「うん、ボクは特別らしいから」

 しかし、どうしてわざわざ高校2年から入る必要があるのだろうか。あゆの外見ならば、高校 1年どころか、中学だって問題なさそうなのだが。

「祐一クン、失礼なこと考えてるでしょ?」

「ん、ああ、あゆが何で2年生から入学するのかなと思ってな」

「もちろん、勉強ができるからにきまってるよ」

「あゆが勉強?」

 俺の頭の中ではあゆはバカの代名詞であり、絶対に勉強ができるわけはないのだが……

「また失礼なことかんがえてるね!」

「いや、あのバカだったあゆが……」

「祐一クン、コーヒーかけられたい?」

「いや、もうコーヒーをかけられるには暖かい時期だからやめとく」

「じゃあ、冬まで持ち越しだね」

 本当に冬まであゆがこのことを覚えていたら俺の中ではあゆ=バカの公式は完璧になるな。

 俺がまたそんなことを考えていると、あゆが急に表情を変えた。

「これでもボク、祐一クンには感謝してるんだよ」

「感謝?」

「うん、ボクがもとに戻ってから、祐一クンに助けられたことは何度もあるからね」

「うーん、まあ、記憶にないことはないが……」

 あゆが目覚めたばかりのころは、俺は毎日あゆのいる病院にかよっていた。「付き合いが悪い」と 舞に言われたぐらいだ。

 どういう態度をとっていいのかきめかねている俺を見て、あゆは楽しそうに笑っていた。

「あのころのボクにとって、祐一クンがどれだけ心の支えになったのか分からないんだよ」

「いや、そうほめられてもなあ……」

 俺はちょっとてれた。こう面と向かって言われると、恥ずかしいものがある。

「だから、祐一クンがあまりこなくなったのはすごくさびしかったんだ」

 あゆは声のトーンを落としてそう言った。

「どうして来なくなったの?」

「それは……」

 俺は説明するのをためらった。あゆのことを考えてでもあったが、結局は自分の都合であゆに 会いにいかなくなったのだ。

「……知ってるよ、今、同棲してるんだよね?」

「そ、その話、どこから聞いたんだ、あゆ?」

「んと、家に遊びに行ったら秋子さんが教えてくれたよ」

 あ、秋子さん、あなたもやっぱり名雪の母親なんですね。

「でも、話を聞くかぎりだと女の子二人と生活してるみたいだし、色々面倒なことになってるん だろうな」

「?」

 あゆはよく分からないことを言ってから立ちあがった。

「ついでに今日は真琴ちゃんの顔もたてて、引き下がることにするね」

「何言ってるんだ、あゆ?」

 あゆは俺の話を聞いていないのか、メモ帳を取り出すと何かサラサラと書いて、それをちぎって テーブルの上に置いた。

「これボクの携帯の番号ね。祐一クンの電話番号は聞かないであげるね」

「おーい、あゆ、人の話聞いてるか?」

 俺はそのメモを手に取りながら聞いてみた。

「聞いてるよ、祐一クンが鈍感なだけだよ」

 そういうと、あゆはさっさと背を向けて扉に向かった。

「じゃあ、またね、祐一クン。コーヒーはおごりでね」

「ちょっと待て、あゆ」

「何、もしかしてコーヒーもおごってくれないの?」

「んなけちなこと言うか。お前に一つ聞きたいことがあるんだ」

「何、祐一クン?」

「あゆ、タイヤキ好きか?」

 あゆは、一番の笑顔で答えた。

「もちろん、タイヤキ好きだよ。一日三食タイヤキでもいいよ」

「……本物だな」

 偽物くさいあゆだったが、どうも本物のようだ。

「何、それ?」

 あゆは首をかしげながらも、俺に手をふって喫茶店を出ていった。

 カランカラン

「ありがとうございました〜!」

 真琴のどう聞いても平和そうに聞こえない声が喫茶店内に響く。他の客が、何事かとそちらの 方を見ていたが、マスターは何も真琴に注意した様子はなかった。

 俺はあゆもいなくなったことだし、席をカウンターに代えた。

「ふう、マスター。今日はどうしたんですか、真琴は」

 俺は真琴がいつになく荒れていたのでマスターに聞いてみた。いくらあゆと馬が合わないとは 言え、あそこまで露骨なことは今まで見たことがなかった。

 マスターはのんびりとグラスをみがきながら、俺の方をちらっと見た。

「祐一さんも、恐いもの知らずですねえ」

「俺が恐いもの知らず?」

「私なら、この喫茶店には女の子を連れてきたりしませんがね」

「?」

 俺がその後何度聞いても、マスターはこれ以上は答えてくれなかった。

 そして、真琴はずっと俺の方を睨んでいた。

 俺が何をやったってんだ!

 

「ただいま〜」

 おれは夕方5時になる前に部屋に帰って来た。

 これ以上遅くなるのも昨日の今日でまずいし、何より時間がつぶせるはずの喫茶店では真琴に 睨まれ続けて居心地が悪かったのだ。

「おかえり、祐一」

「おかえりなさい、祐一さん。今日は早かったですね」

「さ、佐祐理さん、昨日のことは悪かったからいじめないでくれよ」

 俺が下手に出ると、佐祐理さんはふふっと笑った。

「そうですね、もう祐一さんをいじめるのはやめます。これ以上いじめると、舞におこられちゃい ますしね」

「そんなことない、昨日は祐一が悪かったんだから」

「そんなこと言って、舞は最後の方は祐一さんをせめる私を困った顔で見てたじゃないですか」

 それは本当なのだろうが、俺には昨日舞の顔を確認する余裕などなかった。

「それじゃあ、今からお夕食の準備しますね。この部屋には二人もお腹を空かせた子供がいます からね」

 俺も舞も、それについては否定しなかった。

 と、俺がくつを脱いで自分の部屋に向かおうとすると、パシッと舞が俺の手をつかんだ。

「……」

「どうかしたのか、舞?」

「……祐一、女の人の匂いがする」

 ギクゥ!

 俺は一瞬だが、動揺を隠せなかった。

「私の知らない人の匂い」

「いや、あれだ、けっこう今日は外も人が多かったから、香水の匂いとかうつったんじゃないのか?」

 俺は必死にいいわけを言ったが、どうもその慌てた様子が逆効果だったようだ。

 ふんふんと、佐祐理さんも俺に鼻を近づけて匂いをかぐ。

「確かに、女の人の香りがしますね」

「ま、待ってくれ。たかが一緒に喫茶店に行ったぐらいで何で匂いが……」

 と、俺はそこで口を滑らせたことに気がついた。

「語るに落ちた、祐一」

 はい、おっしゃる通りでございます。

 俺は、今度こそ殺されるかもしれない。

 この世に心残りはいっぱいあった。そう、男の夢だ。舞と佐祐理さんと3人でお風呂に入るとか 3人で一緒に寝るとか3人で一緒に……でへへ。

 は、何現実逃避してるんだ、俺は!

 二人から立ち上る殺気で、俺は我に返った。

「……祐一さん」

「……祐一」

 俺は胸の前で十字を切った。

 いっそのこと玉砕するかとも思ったが、そんな度胸など俺にはなかった。

 神よ、私は明日の太陽を拝むことができるのでしょうか?

 神様がいたなら、きっとこう答えてくれただろう。

 その二人はわしだって恐いんじゃよ。

 

続く

 

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