銀色の処女(シルバーメイデン)
おかしいわよねえ、どう見たって。
綾香の眼力が、それを見ぬいていた。いや、見ぬくというほどのものでもないが。
今日は朝からセリオの様子が変だったわよねえ、確かに。
朝、セリオの姿を見つけて声をかけたのだが、普通ならすぐにあの抑揚のない、ただし聞き取り やすい声で挨拶を返してくるはずなのだ。
しかし、今朝は違った。声をかけても綾香の方を向きもしなかったのだ。
綾香が首をかしげながらももう一回セリオを呼ぶと、セリオはやっと綾香の方を向いて、いつもの 抑揚のない声で挨拶を返してきた。
ただそれだけのこと、綾香も最初はそう思っていた。
しかし、友達とセリオをからかっても、そして話し相手になっても、どうもセリオの反応が悪い。
もしかして、故障でもしたのかな?
それならわからないでもない。きっと浩之の扱いが乱暴だから……
そんなわけないか。あの浩之だ、女の子を乱暴に扱うとは考えられない。だいたい、多少乱暴に 扱ったからって壊れるような最新のメイドロボなどうちの会社は作らないはずだ。
……うーん、私だって乱暴に扱ったこともないし……
浩之が乱暴に扱うのと、綾香が乱暴に扱うのではもちろん被害に雲泥の差がある。セリオがもし 乱暴に扱って壊れるのなら、その責任はどちらかというと前までの主人、つまり綾香にあるような 気がしたのだ。
……ということは、乱暴に扱ったから壊れたってのはなしね。
自分のことは棚にあげる綾香は、そう結論づけた。
しかし、確かに乱暴に扱った記憶はないのだ。だったら、調整ミスでもしたのだろうか?
しかし、メンテナンスなしでも数ヶ月は平気なはずだ。普及型セリオの保証書にもそう書いて ある。まあ、オリジナルのセリオはまた特殊なので、普及型セリオの保証書が通用するかは別だが。
だいたい、セリオは不調なら、自分でそれを確認できるはずだ。
そこで、綾香は自分が意味のないことをしているのに気がついた。
あ、何だ、セリオ本人に聞けばいいんじゃない。
もし、それでセリオが不調をうったえていないのなら、いつもと比べておかしいのは確かだから、 大事を取って研究室に一度帰ればいいだけだ。
……別にセリオが浩之と一緒にいるのが嫌ってわけじゃないけどね。
綾香は意味もない部分でさえ聡明であったので、その「セリオが不調で、研究所に帰るのなら、 浩之がまた家に一人になる」という自分の利益に思い当たってしまっていた。もちろん、綾香には このときセリオを心配する気持ちしかなかったのだが、頭の回転は別の次元の話だ。
もちろん、何もないにこしたことはないんだけどね。
綾香がチラリとセリオを見ると、セリオの視線は黒板にまっすぐむけられていた。
まったく、高校の勉強なんてセリオには必要ないでしょうに。
真面目にノートまで取っているセリオを見て、綾香はどこか苦笑していた。
授業中にそんなセリオの姿を見て苦笑したのはこれが初めてではない。一度それをセリオに 聞いてみたのだが、「私は高校生という設定なので、普通の高校生は授業を真面目にうけるものです」 と答えられて、ますます変に思ったものだ。
だいたい、授業を真面目にうけるのが高校生の普通なら、私は普通ではないということになる じゃない。
そんな綾香のわがままな考えも、おおよそは当たっているような気がしないでもなかったが。
しかし、今日はその授業風景もいつもとは少し違った。確かに目線は黒板と先生の方を向いて いるし、ノートも取ってはいるが、心ここにあらずという感じだった。
心ここにあらず?
綾香は、その自分の考えた言葉に、ピンと来た。
そう、今のセリオって、心ここにあらずって感じなのよね。
メイドロボが?
その前に、なんでセリオが?
あのセリオが、そんな状態になるの?
でも、実際におかしい。私が思い違いをするとは考えれないし。
セリオがそんな状態になる理由もある。
浩之。
浩之と一緒にいたなら、セリオの心がそれに気を取られたって不思議じゃない。
綾香のひいきめだけでなく、どこか「こじつけ」とも言える心理状態が、セリオがおかしいのは 浩之のせいだときめつけていた。
もちろん、この場合は状況を考えればそれほど遠くない理由であろうと予測がつくが。
まっ、セリオに聞いてみるまではなんとも言えない気もするけどね。まさか、セリオが恥ずかし がって理由を教えてくれないということもないだろうし。
どこか希望的観念の入った思いで、綾香はそう割り切った。
「ねえ、セリオ。今日、あんたおかしくない?」
学校が終ると、綾香はセリオを誘って帰りながらすぐに訊ねてみた。本当は教室で聞きたかったの だが、そこでは他の友達のいらない邪魔が入るかもと思ったからだ。
「……そうでしょうか?」
綾香の予測に反して、セリオには自覚がなかったようだ。
「絶対おかしいわよ。人の話は上の空で聞いてるし、心ここにあらずって感じ」
「私はそういうつもりはなかったんですが……」
セリオの言葉はきれが悪かった。こんなセリオは珍しいというか、研修期間が終って一度学校に これなくなったときの反応以来だ。
「何か心配事でもあるの?」
「……心配事ですか?」
その言葉を聞いたとたん、ぴたりとセリオは止まった。そして、何かを考えるように下を向く。
「セリオ?」
あわてて立ち止まった綾香にも、そのセリオの反応が異常だったのに気付いた。
まるでそれは一人の人間のような。
思い悩む、一人の少女のような。
「ちょ、ちょっと、どうしたのよ、セリオ」
綾香は、本能的に危険だと感じていた。
セリオが人間のようになったら?
彼女が、本当に人間の心を持っていたなら、危険だわ。セリオは、浩之と暮らしているのよ。
自分には絶対の自信がある綾香でさえ、ぞっとしない想像だった。
かわいくて、男の理想のようなつくしてくれる性格を持った、年を取らない少女。
相手にするには、さすがに強敵だ。それどころか、勝てる見こみはそう多くない。
私はそんな相手を目覚めさせてしまったの?
綾香が内心で冷や汗を流して見守る中、セリオの次の言葉は明確に発音された。
「朝、浩之さんの様子がおかしかったのです」
「え?」
いつもの、抑揚のない声であった。顔にはもちろんのこと表情もない。
「朝から浩之さんの様子がおかしかったので、気になっていたのです。今朝は念をおして訊ねて みましたが、浩之さん本人は「別になんともない」としかおっしゃらないのです。ですが、どう見ても 顔色がすぐれないようでした。もしかしたら風邪でもひいていたのかもしれません」
「浩之が風邪?」
それを聞いて、綾香は本当に浩之が風邪であったなら不謹慎だが胸をなでおろした。
「はい、もちろんそうとは限らないのですが、昨日の夜は汗をかいたと言って一度おきだしてシャワー をあびていましたので、もしかしたらそのせいかもしれません」
「汗ねえ、昨日はそんなに暑くなかったような気がするけど」
「悪夢を見たとおっしゃっていました」
悪夢……か。浩之でも悪夢なんかみることもあるのね。
綾香は、自分の考えた悪夢が現実にならなかったのに安堵して、そんな軽口を考えていた。
軽口だけでなく、綾香は浩之は悪夢など見ないものとばかり思っていた。夢で言えば自分も悪夢 など見ないたちだし、浩之が自信とかそういうもので綾香に劣ることもなかろうという、やはりひいきめ の見方からなのだが。
「本当は浩之さんと登校で別れる前に気がつけばよかったのですが、熱があるようには見えません でしたので、すぐにはそこまで考えがまわりませんでした。」
「考えがまわらないって、セリオにもそんなことがあるの?」
「はい、私も万能というわけにはまいりませんので」
セリオが万能じゃない、綾香は初めて聞くセリフのような気がした。
万能、その言葉は普及型セリオの売り文句のはずよね。それをオリジナルであるセリオが満たして ないなんて驚きね。
もっとも、万能などという言葉を信じるような綾香ではないが、セリオを見ているかぎり、もしか したら本当に万能なのかなとか思ったりしないでもなかったのだが。
「ですので、浩之さんが風邪ならば気付かなかった私の責任です。なるべく早く浩之さんに会いたいの ですが、浩之さんが学校の帰りにどこによっているのかはかなりランダムなので、場所を特定できません」
「サテライトサービスは?」
「サテライトサービスはあくまで知識のダウンロードを行うだけで、人物の監視をしているわけでは ないので」
「まあ、そうでしょうけど。それなら私はもっと簡単にセバスチャンから逃げれてるわよね」
綾香はうーんと少し考えてから答えた。
「ねえ、浩之が調子悪いんなら、そのまま家に帰るんじゃない?」
「はい、私もそう思います」
「じゃあ、今から浩之の家にレッツゴーね」
そういうと、綾香はセリオの横に並んだ。
「綾香お嬢様?」
「ほら、浩之が風邪なら人手は多い方がいいじゃない。どうせ、今日も習い事なんかさぼるつもり だし」
「あまり習い事をさぼっていては……」
「セリオ、友達と習い事、どっちが大切だと思う?」
セリオはほんの一瞬考えて、抑揚のない声だが、答えた。
「……もちろん友人の方です、綾香お嬢様」
「よし、セリオも納得したみたいだし、行くわよ」
「はい、綾香お嬢様」
二人は、浩之の家に向かって歩き出した。
続く