銀色の処女(シルバーメイデン)
浩之ちゃんの様子がおかしい。
あかりにはそのことはよくわかっていた。もう昼休みも終り、午後の授業が始まったというのに、 浩之は相変わらずおかしかった。
人の話もうわの空だし、休憩時間はただイスに座ったままぼうっとしているし、何より、人には 説明しきれない何かが、いつもの浩之とは違っていた。
独特の波長、とでも言うのだろうか。浩之はいつもそんな強い何かをただよわせている。しかし、 今はそれは荒れ、霧散していた。残っているのはやる気のなさそうな普通の男子生徒だ。
何かがあったのだろうが、浩之はそれをあかりには教えていない。あかりも、浩之から言わない ことを聞くわけにもいかず、ただ黙って浩之の様子を見ていた。
5時間目が終り、休憩時間に志保が教室の中に入ってくる。
「ねえ、今日のヒロって変じゃない?」
開口一言、志保はあかりに聞いてきた。
志保も浩之とは長い付き合いだ。あかりや雅史とは別の「浩之との場所」を持つ彼女は、もしかしたら あかりの最大のライバルのような気もしないでもないが、あかりは今の所この親友を敵視したことは ない。つまり、志保はあかりの目から見ると浩之とはそういう関係なのだ。
あかりは、志保の言葉に曖昧に笑って返すだけであった。
志保は、あかりのどうもにえきらない態度を見て腹を立てたのか声を殺して、しかし厳しい口調で 言った。
「ちょっと、あかり。あかりだって気付いてないわけじゃないでしょ?」
「うん、まあ……」
あかりはやはり曖昧に答えるしかなかった。今さらそんなことを言われても、あかりは苦笑するしか なかった。自分は朝から気付いているのだから。
「今日は朝から変だったけど、ヒロのやつ、何か変なものでも食べたのかな?」
「……志保も朝から気付いてたんだ」
「当たり前じゃない。あんたらにどれだけ付き合ってると思ってるのよ」
志保が鈍感、とはあかりは言わないが、少なくとも繊細だとは言えない性格なので、あかりは 少しは驚いていた。それだけ、志保が浩之のことを重視していると言えばそれまでだが。
「で、あかりは何か知ってるの?」
「私も何も知らないよ。今日朝迎えに行ったときから様子が変だったから……」
「聞かなかったの……って、私もなんか聞きにくいし、あかりにそんなことできないか」
あかりと志保は横目で浩之を見た。
浩之は、教室の自分の席に座ったままぼうっとしている。
はたから見れば、ただぼうっとしているようにしか見えないのかもしれないが、あかりと志保には それだけではなく、浩之が何か思い悩んでるのではないのか、という疑問があった。
「うん、一応朝には聞いたんだけど、何でもないって……」
「そう……ヒロがそう言うんなら絶対に口は割らないわねえ」
浩之の意地っぱりな部分も、二人にとってみれば当然のことだ。一度聞いて教えてくれなかった ことをいくらねばったところで教えてくれるわけがない。
「ほんと、どうしちゃったのかしら」
「うん……」
はたから見れば、この二人の組み合わせが深刻そうな表情で語りあっているというのもおかしな 話なのだが、今のところ二人に注目している生徒はいない。
「じゃあ、こうしましょう、あかり」
「なに、志保?」
「今日の放課後、浩之の後をつけて、なんで浩之が変なのか真相をさぐるのよ」
「え……でも……」
あかりはちょっと途惑った。
浩之は必要なら自分に話してくれるだろうという確信めいた予測はあるし、何より浩之の後を つけるなど、あかりの発想の中にはなかったのだ。
「つけるなんて、浩之ちゃんに悪いよ」
はあっ、と志保はため息をつく。
「いい、あかり? これは、ヒロのことを思ってやるのよ。ヒロだって男の子だから、私らに 言えないような悩みだって持ってると思うのよ。だったら、それを私らが親切心で解決するのに 何か問題がある?」
「志保……ちょっとそのいいわけ苦しいよ」
あかりもさすがに付き合いが長いので志保の本心など知っていたが、志保はコホンとせきばらいを しただけだった。
「と、とにかく、これはヒロのためなの。どうするの、一緒につけるの、それともつけないの?」
「……」
志保だって、それが単なる好奇心だけではないことぐらい、あかりはわかっている。志保は見た目 以上に優しいのだ。そんなことを本人に言えば、きっと照れるだろうが。
そういうところは、志保は浩之ちゃんに似てる。だから、親友になれたのかも。
バカげた考えだよね、自分ながら。
志保は、浩之ちゃんと似ているから志保なのではなく、志保だから志保なのだ。その違いを 知らなかったら、私は志保と親友なんかになっていない。
「……うん、わかった。やってみよう、志保」
「オッケー、きまりね。じゃあ、Xデーは今日の放課後、この教室で。時間厳守よ」
志保はどこかの映画にでも影響されたのかそんなことを言うと、教室を出ていった。それを狙って いたように、チャイムがなる。
緊張感のない6時間目が、始まった。
「本当に大丈夫ですか、浩之さん」
あの言葉が、いくらたっても浩之の耳から離れなかった。
志保のバカらしい話も、雅史の何気ない会話も、授業の内容も、セリオの作ったお弁当の味も、 少しも浩之の頭の中には入らなかった。
もう、6時間目が始まる。
セリオ……お前は、変わってしまうのか?
幻覚だったのかもしれない。単なる浩之の見間違いだったのかもしれない。でも、それを否定する 完全なる理由も、証拠もなかった。
あるのは浩之の漠然とした不安と、不完全なそれの理由だけ。
『シルバー』は、本当に単なる感情プログラムの一つなのか?
浩之にはどうしてもそれを信じきれなかった。
セリオは、最新のメイドロボだ。人の顔色や、表情でその人の異常を感知することなど実はたやすい ことなのかもしれない。
かもしれない、だけなのだ。
人を気遣う、それは、前のセリオにできたことなのか?
判断を狂わせている一番の根源は、それにあった。
浩之は、セリオのことを知っている。これは、全ての性格を把握しているという意味ではないが、 より広い範囲でセリオのことを理解しているのだ。
もう、セリオはれっきとした『友人』の一人であった。
しかし、浩之だって、友人一人一人の行動を完全に覚えているわけではない。
セリオは、人をここまで心配する性格だったのか? それを、浩之は知らない。ただ、違和感だけが 浩之をさいなめるのだ。
それは、セリオではない。自分の知っているセリオではない。
そう、頭はわかっているのだ。だが、浩之にはその記憶がない。本当にセリオが変わったのか、 前からそういう性格だったのか、浩之は感じることはできても、考えることができないのだ。
だから、完全にその変化を認識できないでいるのだ。
もっとも、本当に変化してなどいないということも十分に考えられるのだが。
そんな、中途半端な感覚が、浩之をどっちともつかずに、悩んでいるのか、それとも悩まなくても いいのか、その二つの間を行ったり来りさせていた。
……しかし、確かなことは……
6時間目はもう半分ぐらいまで終っていた。
もうじき、学校が終って、浩之は家に帰らなくてはならない。そして、セリオとまたしばらくの時間を すごし、眠りにつく。
そのしばらくの間の時間、それが、嫌だということだ。
あの『シルバー』といる時間を、俺は嫌がってる。
俺は、恐れてる。
それが、まるで平穏な日々の破壊者であるように浩之には思えてしかたなかった。
長い年月と、偶然と、少しの幸運と不運をかけ合わせてできたような今の生活。それを壊す きっかけになるのでは。
単なるメイドロボの感情プログラム。そう言うには、それはあまりにも浩之の心をかき乱した。
単なる?
何が単なるものか。あれは、『シルバー』は俺を現に、苦しめているではないか。
現に、『シルバー』はセリオを、俺の知っているセリオを変えているではないか。
……もう、6時間目が終る。
浩之は憂鬱だった。
また、セリオが消えるのに耐えていなければならないのが、浩之にはとても苦痛なのだから。
続く