銀色の処女(シルバーメイデン)
いつもなら、楽しくて仕方のない道のり、それが今日は違う。
こんなに足が重かったことは今まで一度もなかった。毎朝、自分の家から浩之の家まで いく短い時間が、とても楽しくて仕方なかったのに。
浩之ちゃんの家に行っても、今朝は私と浩之ちゃんだけじゃない。
浩之が信じられないとか、そういう次元の問題ではなかった。単純に、浩之の他には自分しか いないという状況が邪魔されるのが嫌だった。
だからと言って、セリオにいなくなって欲しいとか、そういうことを考えないあかりは 基本的に善人なのだろう。
沈んだ表情をしていたあかりだが、浩之の家の前までくると、表情を改めた。
このまま浩之ちゃんに会ったら、きっと浩之ちゃんを心配させてしまう。それは嫌。
浩之と一緒にいるとき自分がどれだけいい表情をしているのかあかりは鏡を見たことはなかったが、 少なくともこんな沈んだ表情をしてるはずがないのはあかりも分かっていた。
よし、今から浩之ちゃんに会える、浩之ちゃんに会える、浩之ちゃんに会える……
あかりは、心の中でそう念じた。
不思議と、そう思うだけで、引きつっていた顔の筋肉がほぐれてくるような気がした。
そう、今から浩之ちゃんと会える。こんな沈んだ気分になる必要なんてない。
あかりは、深呼吸を一回、大きくすると、ベルを押した。
ピンポ〜ン
……
「あれ?」
セリオがいるのだから、すぐに出てくると思っていたのだが、全然家の中からは反応がなかった。
ピンポ〜ン
……
しばらく待ってみても反応がない。
ピンポンピンポンピンポ〜ン
……
やはり、反応がない。
……もしかして、先に行ったのかな?
そうは考えはしたが、浩之の性格上、来るとわかっているあかりを放っておいて学校に行くとは 考えにくい。
だったら、まだ寝てるのかな?
しかし、今はセリオがいるはずなのだから、起こしてもらえると思うのだが……
ガチャ
そのとき扉が開いて、セリオだけが出てきた。
「おはようございます、あかりさん」
「おはよう、セリオさん。浩之ちゃんは?」
「それが、私がいくら起こしても浩之さんは起きてくれないんです」
「え、そうなの?」
セリオは困ったような顔をしているわけではなかったのだが、あかりにはセリオが困っているような 声を出したように感じた。
あかりはセリオにつれられて、浩之の家に入ると、2階に上がる。
浩之の部屋では、ベットの上で浩之がいつも通り寝ていた。
「浩之さん、起きてください」
セリオが声をかけると、浩之はベットの上で布団にくるまったままつぶやいた。
「う〜ん、後10分……」
「10分前にも同じことを言われました」
セリオが真面目くさった口調でそう言ったので、あかりは苦笑ぎみに笑った。
まさかセリオは浩之が起きてこないなどという選択肢を考えてなかったのだろう。まだいつも起きる 時間には余裕があるが、それでも恐らくかなりあせっていたものと思われる。
「ほら、起きて、浩之ちゃん」
「……後1時間……」
無茶苦茶なことを言う浩之を見ていると、あかりは何故かものすごく幸福感で胸が満たされるような 気がした。
そして、ゆっくりと息を吸う。
「浩之ちゃ〜ん、起きて!」
「わっ!!」
ドサッ
あかりが耳元で叫んだので、浩之は驚いた拍子にベットから落ちた。
「って〜」
浩之はしぶしぶと言わんばかりに起きあがった。
「起きた、浩之ちゃん?」
「ああ、耳元で怒鳴られれば起きたくなくても起こされるぜって、何であかりがいるんだ?」
まだねぼけ顔の浩之に、あかりは苦笑して、セリオは表情を変えなかった。
「そんなに起きなかったのか、俺?」
何とか目をさまし、手早く仕度をした浩之は、あかりとセリオと一緒にいつもよりは少し早い時間に 家を出た。
「はい、いくら起こそうとしても起きませんでした」
セリオは、別に浩之を責めている風でもなかったが、あいかわらずの無表情のままそう答えた。
「うーん、今朝一度起きたのがまずかったか?」
「何だ、浩之ちゃん二度寝したの? 二度寝したらだめだって私がいつも言ってるよ」
「いや、4時ぐらいに起きたから、そのまま起きとくわけにもいかなかったしな」
「何でそんな時間に起きたの?」
「それは……まあ、勝手に目がさめたんだよ」
浩之は、今朝早く見たあのどうしようもなく不快な夢を思い出した。
悪夢、という言葉が確かにそれにはあっていたが、それより何より、不快だったのだ。
浩之は、何の気なしにセリオに目をやる。
いつも通りの無表情、これは性格ではなくプログラムだ。表情を動かすという行動が、セリオには 含まれていない。ただ、それをつけただけにすぎない。
それなのに、俺は『シルバー』の悪夢を見た。それは俺の頭の中にぬぐい切れない何かを 植えつけた。
無機質に、セリオの顔が浩之の方を向く。
「どうかいたしましたか、浩之さん」
「……何でもない」
「そうですか」
やはりそっけない言葉が、浩之とセリオの間で行われたが、昔は、取りつくしまもない会話だと 思っていたが、今はその味気ない会話が、浩之にはうれしかった。
もし、ひどく人間らしい会話をセリオがし始めたら、俺はそれに耐えれるのだろうか?
夢の中でさえあんなに取り乱してしまった俺が、その現実を受け入れることができるのか?
……バカバカしい。
結論は、それなりに簡単に出てしまった。
自分は昨日の夜、いやいやではあったがセリオが変わるのに耐えたではないか。あんな思いは したくはないが、取り乱しもしなかったし、現実を受け止めもした。
夢だからこそ、俺は取り乱したのだ。現実では、そんなに慌てたりしない。
結論は、そして他の疑問にすりかわる、これも必然。
だったら、俺は、現実に俺のよく知った人が変わることに耐えることができるのか、全然あせらずに 淡々と、それを受け入れてしまうのか?
セリオが変わってしまう、その議題は、ここに来てもっと大きな疑問にすりかわった。
例えばだ、例えば、明日、急にあかりが俺に話しかけなくなったら。
俺は、どうする?
「浩之ちゃん、どうしたの?」
さっきからだまりこくっている浩之を不思議に思ったのか、あかりが訊ねたきた。
「今日の浩之ちゃん、少し変だよ」
「はい、私もそう思います」
セリオまでそう言ってきたので、浩之は慌てて、ふざけた口調を作って答えた。
「いや、どうも眠くてな、ボケッとしちまうんだ」
「……そうなんだ、だから早く寝ないといけないって言ってるのに」
「そうなのですか、なら、今日からは睡眠時間のことも考えて夕食を作ります」
セリオはもちろんいつもと変わらない表情のままだったが、あかりはどこか納得しきれない表情 だった。
まあ、あかりに作った表情が通じるとは思ってないがな。
そこは確信、いや、信頼していてもいい。そう浩之は思った。
新しい感情をセリオが持ったとしても、そこだけはあかりには勝てないよな、当然。
この2日で、浩之の中でのセリオはかなり大きなものになってきていたが、浩之はだからと 言ってあかりの価値を見失っているわけではなかった。
昔からずっと一緒にいて、そしておそらく、まだ長い時間一緒にいるだろうあかりに、浩之は 他の人間には説明できないほど信頼を置いているのだ。
まあ、ここでセリオに俺の心のうちを読まれても、それも恐いけどな。
そう思いながら、セリオに浩之が目を移す。
じっと、セリオは浩之を見ていた。
まるで、人を観察するような目。
いや……
それは、まるで浩之の様子を心配しているような瞳。
どう見ても無表情に見えるセリオの、その瞳に、浩之はかたまった。
それが、自分の目の錯覚だと、浩之は信じたかった。
その錯覚を、やはり錯覚として認識させえない言葉を、セリオは浩之の目を見ながら言った。
「本当に大丈夫ですか、浩之さん」
それは、いつものように、抑揚のない声であった。
続く