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最強格闘王女伝説綾香

 

一章・始動(42)

 

「うう、もうお婿にいけない……」

 微妙な冗談を言いながら、浩之は自分の股関節を押さえていた。

「ふむ、まあすんなりとできた方か」

 無理やり股裂きをやらせたわりには、まったく悪びれる様子もなく雄三は、浩之の言葉に突っ込む 気もないのかあごに手をやっていた。

「股裂きぐらいはやれて当然のことだぜ。それぐらいで悲鳴あげるなよ。あの嬢ちゃんには そんな姿見せれねえんだろ?」

「く……言いたい放題言いやがって……」

 しかし、浩之は股関節を押さえたまま動けなかったし、何より動けたとしても修治の相手に なるわけはなかったのだが。

「しかし、冗談は置いといて、股裂きぐらいはできないと本当に駄目だぜ。格闘家にとって身体が 柔らかいのは必修条件みたいなものだぜ」

「つっても……葵ちゃんは身体硬かったけだなあ……」

「ん、あの崩拳を使うって女の子か?」

 さすがに格闘家の間でも崩拳を使える相手はそういないのか、修治もそれについては覚えていた ようだった。

「ああ、葵ちゃんは確かにハイキックは練習してすごいけど、身体自体はかなり硬かったんだが」

「そいつはよくないな。柔軟はよくやっておくように言っとけよ。身体が硬くて怪我したやつは 星の数ほどいるからな」

 会ったこともない葵の心配をするほど修治はまめな性格でもなかっただろうが、もしかしたら 同じ格闘家としての忠告なのかもしれない。

「で、浩之。お前もだが、とりあえずしばらくは柔軟するから、そんな股間なんて押さえてないで 続けるぞ」

「……股間と言うな」

 浩之はとりあえず痛む股関節と脚の筋を我慢しながら、修治のやる柔軟の真似をする。

 首から足の指の先まで、修治の柔軟は丁重で、そしてじっくりと時間をかけてやられた。

 やはり、凄いの一言につきた。

 修治の身体は、その巨躯と筋肉からは想像できないほど柔らかかった。そう、むしろ……

「気持ち悪い」

「何がだ?」

「修治、それって何か変な方向にまで曲がってないか?」

「ん? ああ、まあ修練のなせる技だな」

 修練のなせる技って……手の甲の方で握手できそうなんだが……

 手の指が逆方向に曲がるのは、確かに見ていると気持ち悪いの一言だった。

 もちろん、普通に股裂きをしたまま胸が床につくし、手が背中でくめると言うよりも、さらに 肘まで手が届くような身体だから、それぐらいはできて当然なのかもしれないが。

 少なくとも、浩之には真似のできるものではなかった。やれるところまでは真似をしてはみるが、 あんな人間外の関節部を浩之は持っていない。

「おいおい、それじゃ柔軟にはならんだろ」

「そう言われても、修治の身体ほど柔らかいわけないだろ」

「そうじゃねえよ。まず、柔軟をするときは少し痛いぐらいまで関節を曲げて、その体勢のまま 息をしながら30秒以上、少なくとも1分は保っておきたいな。もっとも、あんまり無理すると 身体を痛めるだけだから、あくまでゆっくりな」

「じゃあさっきの股裂きは……」

「あれは儀式みたいなもんだ」

 しれっと修治は言い切った。

「てことはやっぱり意味はなかったってことか……」

「それぐらい気にするな。どうせ練習を続ければもっと痛いことなんて沢山あるしな」

 はっはっはと笑いながら、修治はバンバンと浩之の肩をたたいて話をはぐらかせようとした。

「……そういう問題なのか?」

「そういう問題だって。どうせ結局は股裂きはしなけりゃならなかったし、手間がかからなかった 分もうけたと思えよ」

「んな滅茶苦茶な……」

 しかし、ここでは浩之の立場は弱い。何より、浩之はまだ練習を始めたばかりのぺーぺーなのだ。 せめて言い返すにしてももう少し訓練をつんだ後でないと説得力もなかろう。

「ほら、無駄口叩いてないで続けな」

 そう言われると何も返せない浩之は、しぶしぶ柔軟の続きを始める。

 しばらく黙々と二人は柔軟を続けて、雄三はその二人の姿を眺めるだけであった。

 それにしても……長い。

 道場の壁にかけてある時計はあれから30分ほど経ったことを示していたが、修治は柔軟を やめる気配をしなかった。

 まあ、二人が何度も言うように柔軟を怠れば怪我をする可能性は格段にあがるのだろうから、 これぐらいは時間をかける必要があるのだろう。

 そう思いながら柔軟を続けたのだが、いくらか浩之の読みは甘かった。

 40分たっても、50分たっても、まったく終わる様子がないのだ。まさか浩之自身も、自分が 柔軟で汗ばむとは少しも考えていなかったのだが、実際に汗が額から流れていた。身体は熱を持ち、 もしかしたら自分が柔軟でギブアップするのではないか、そう思ったほどだった。

 浩之はとうとうしびれをきらし、修治に訊ねた。

「……な、なあ、修治。いつまでこの柔軟続けるんだ?」

「ん? ああ、だいたい1時間は毎日行うんだが」

「い、1時間!?」

「後10分程度じゃねえか。文句言わず続けな」

 修練のなせる技、修治はそう言ったのだが、その言葉にはまったく嘘はないようだ。

 たかが柔軟に1時間……

 浩之も準備運動をなめているわけではないが、ここまで柔軟に時間をかけるというのは聞いた こともなかった。

 だいたい、普通の部活ではこんな柔軟に1時間もかけていると他の練習ができなくなる。それ ぐらいなら、手早く柔軟を済ませて、他の練習に入った方が効率的と言うものだ。

 しかし、こういう部分に時間をかけるかけないが、結局は大きな違いになるのかもしれない。 実際に修治は強い。それは、こういう練習法をずっと続けてきた結果なのだろうから。

 だが、それはそれとして……疲れた。

 柔軟がつかれるものだということを浩之は初めて知った。普通は、柔軟をすれば硬い体は痛い ことはあるが、後はおれなりの爽快感があるものなのだが、これには爽快感などまったく無縁の ものであるようだ。

 自分でも息があがっているのがわかった。しかも、じわじわと自分の身体を蝕むように疲労が 襲ってくるのだ。

「よし、柔軟終わり」

 その言葉を聞いた瞬間、浩之は床に身体をあずけて大の字になって寝転んでしまったほど だった。

「何で……柔軟で疲れなきゃならんのだ……」

「やわなやつだな。ほら、すぐ立ちな。せっかく身体を温めたんだ。動かなかったら冷えるぞ」

 そう言われ、浩之はのろのろと立ち上がる。実際に、のろのろとしか立ち上がれ なかったのだ。

「さあ、次はジョギングだ。今日はお前は初めてだから軽く流すだけにするぜ」

「……そうしてもらえるとありがたい」

 しかし、ここでも浩之は当然のように裏切られることとなった。

 

続く

 

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