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最強格闘王女伝説綾香

 

二章・修練(11)

 

 葵は、息を吐き出す。

 左足を前に出した左半身の構えに、順手である左腕を軽く曲げた状態で突き出している。手は 開いており、そのかわりに腰にためるように置かれた右手は軽く拳が握られている。

 空手の構えとは、明らかに構えが違う。少なくとも、ここから打撃を打とうという構えでは なかった。

 しかし、その体勢を保ったまま、葵は息を吐き出し続けた。

 指の先から、身体の芯まで、葵の意識が行き渡る。稼動するためではない、この姿勢を保つ ためだ。

 葵は、ほんの微妙にだが、身体を動かしていた。自分の記憶にあるその構えに、身体を調整 する。

 ほんの拳一つの、いや、指先一つの間違いでも許さないその意識の中で、段々と葵の構えは、 葵の望む構えとなっていく。

 構えが記憶にあるものに近づくにつれ、葵には、見えない突きを入れるべき対象が空間に浮かび あがる。

 そして、葵の記憶の中の構えと葵の意識する構えとが一致した瞬間、葵は動いた。

 それは、動き自体としてはまったく早いものではなかった。

 葵の左足が前に一歩踏み出す。それにつられるように、後ろにある右足がひきつけられ、突き 出された左腕が引かれる。

 そして、右拳が突き出された。

 ズバッ!

 空を切るすさまじい音が響く。

 葵の拳は、その見えない対象を完全に打ちぬいていた。

 葵は、身体から力を抜くと、構えを解いた。

「どうですか、老師?」

 葵は、そばで葵の動きの一部始終を見ていた一人の初老の男にそう訊ねた。背はそこまで高く はなく、別に筋肉質と言うわけでもない。見た目に一番よく似合う言葉は、好々爺と言った感じだ。

 その老人は、にこにことしながら葵を誉める。

「いや、よくやってるよ。少なくとも、君の始めた時間と、年齢から考えれば、かなり完成された 型と言ってもいいと思うよ」

「ありがとうございます」

 葵は、緊張したまま言葉を続けた。それは、その言葉が素直に賞賛を含んでいることとともに、 その後には手厳しい指摘があるだろうことは、予想できたからだ。

 この老人こそ、葵の老師、つまり日本で言う師匠にあたる人だ。

 陳という名前なのだが、何故か葵はこの老人の下の名前を聞いたことがなかった。まわりの 弟子も、全員が陳老師とか呼ばないので、葵もそれにならってこの老人を陳老師と呼んでいた。

 彼は、この日本で本格的に形意拳を教える数少ない人物の一人だ。

 形意拳。

 葵は、空手をやめ、エクストリームに転向したときに、まず最初に形意拳の道場を探した。それは 総合格闘技という言葉に踊らされそうになる今日、この少女は自分が強くなるためにはまず打撃を 精進することだと直感で感じていたのだ。

 形意拳などの中国の拳法の近代空手とは違う能力は、いつか綾香から聞いたことを自分で勝手に 想像を膨らませていたのだが、本物は葵の想像を裏切った。

 本当に強くなろうとするなら、鍛錬を欠かさぬことしかない。葵は、天才の綾香を前にしても その信念を曲げたことはなかった。練習こそが全てであり、葵が強くなるためにはその方法しかない と思って、いつも練習を続けていた。

 しかし、この道場に来て、その気持ちは簡単に打ち砕かれた。

 本当の鍛錬とは、もっと厳しいものだったのだ。葵は、自分ではできる限り練習に時間を割いて いると思っていたのだが、ここの道場の練習は、もっと厳しかった。

 いや、瞬間の練習量はおそらく今までの葵の方が多かったろう。しかし、この道場で習ったもの は、時間が桁違いだった。

 生活の全てが鍛錬。最初に陳老師は、葵にそう言った。

 それは、社会生活をやめるというわけではない。いついかなるときも、鍛錬しているという意識 を閉ざさないということだった。そして、鍛錬できる場所は、例え普通の生活においても鍛錬となる ようにする。

 格闘技に全てを奉げるようなことのできない、言うなれは俗世との関わりの深い日本で形意拳を 教えるために、その意識をその陳老師は何度も葵に教えた。

 かけた時間こそが、強さ。

 天才というものを嫌というほど見てきた葵には、その言葉は感動さえ呼び起こした。そして、 葵はそれを実行しはじめた。

 歩くときは、意識的につま先だけで歩く。背筋は伸ばし、腹筋にはいつも力をこめる。そして、 暇さえあれば何かを握って握力を鍛え、そして放課後になればまた練習を繰り返す。

 そうやって、葵は自分を鍛えに鍛えぬいていた。しかし、それ自体は教わったわけではない。 それは葵が自主的に行っているだけのことだ。

 そして、それを知ってか知らずか、陳老師は最初にそれだけ言った後は、全て技術だけに教える 時間を割いていた。

「それでは、今日の問題点だが……まず、腰が少し高いな」

 にこにこしながらも、陳老師は当然のように葵の悪い部分を指摘しはじめた。

 形意拳の教えは、ただただ同じ型を教えつづけることだった。他の弟子は色々と他の技も教えて もらっているようだったが、葵はそれについては一度も文句を言わなかった。

 葵はよく自分で知っているのだ。いかに多くの技を教えてもらっていても、それを使いこなせ なければ、それは邪魔でしかないことを。

 はっきり言えば、一つの体勢から打てる技は、一つでいいのだ。後は、その技に鍛錬を重ねて、 完成させれば、十二分に強い。いや、それこそが、強い技というものなのだ。

 そして、ただ一度だけの崩拳が、葵のその考えを肯定した。いつもこの型だけでしか練習して いなかったにもかかわらず、あのときはそんな構えも必要なく、崩拳が出た。

 だったら、もう崩拳の練習は必要ないではないか。ということを、葵は考えなかった。むしろ、 今までの練習をしてきたからこそ、あのとき崩拳が打てたのだと自覚していた。

「はい、分かりました」

 葵は言われた通りに、型を直していく。本当に気が狂わんばかりに細かい部分にまでチェック が入るが、それ一つ一つが自分の力になると思えば、葵には苦痛はなかった。

「はい、では、この状態から、もう一度」

「はいっ!」

 葵は大きな声で返事をすると、また構えを取って、拳を突き出した。

 

続く

 

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