射程外ぎりぎりで、真緒は歩みを止めた。もちろん、綾香の射程外だ。真緒のタックルは、この距離からでも入れる。もちろん、こんなに距離があれば、簡単に綾香にはよけられるが、しかし、この距離からは先に入るには決心がいる。
綾香は、確かに腰を落としている。重力を、たまに無視しているようにも見えなくもないが、綾香とて全部の重力を無視する動きは無理だ。それに、あの体勢では、身体が素早く動くわけがない。少なくとも、重心を動かすまでには真緒ならどうにでもできる時間がある。
それに、あのまるで取ってくれといわんばかりに出されてる片脚が邪魔だね。
そう、まるで取ってくれと言わんばかりに、綾香は左半身になって、しかも腰を低く落としていた。真緒からすれば、その前に出された左脚は、まさにおいしそうな餌だった。
真緒の動きは速い。そんなもの、綾香なら十分にわかっているはずだ。綾香のトップスピードについていくのは難しいかもしれないが、それでも不可能なことではない。反対に、あの腰を落としている綾香の構えでは、それだけのスピードは出ない。
「どうしたのよ、来ないの?」
「罠がないかどうか、考えてるんだよ」
そうは言ったが、今このチャンスを逃せば、次がないことを真緒は感じていた。今しかないのだ、この実力差のまま、綾香を倒しきるときは。
迷った真緒を、綾香は苦笑しながら見て、そして、腕をゆっくりと振り上げた。
「?」
その体勢から、飛び掛ってくるのは不可能だ。綾香は、まるで隙を作るように、腕で隠していたはずのわき腹を開ける。これで、真緒は打撃で綾香を倒すチャンスを持った。
「……何の、つもり?」
「言ってるでしょ。対策よ、対策」
綾香は、余裕の笑みで、真緒を挑発する。
わざと隙を作っている? 綾香に限って、そんなことがあるのか?
ない、真緒はそう思っている。冗談ならともかく、対等と見た相手に手加減をする綾香ではない。ならば、理由は一つ。
「……綾香っ!」
私は、綾香に対等に見られていない!
そう思った瞬間、真緒は何もかも無視して綾香に突っ込んだ。
確かに、私はまだ綾香を倒していない。しかし、それでも、綾香に一番近いという自負がある。それは、オリンピックよりもよっぽど重要なこと。
それを、綾香はっ!
真緒は、望み通り、その突き出された取ってくれと言わんばかりの綾香の左脚を取りに走った。
取れる!
射程範囲に入っても、綾香からの攻撃はない。そして、近づき過ぎれば、打撃は威力を失う。右脚の蹴りは届かない。脚に手がふれれば、私の勝ちだ。
真緒の手が、綾香の脚にふれた瞬間だった。
綾香の、美しいまでに天に伸びた腕が、真緒に向けて振り下ろされた。
ドコッ!
鈍い音を立てて、真緒は、その場に前のめりになるように倒れた。
「……一本です」
綾香の勝利を、審判をしたセリオが、静かに告げた。
「っとに、何も考えもなしに飛び込んでくるから」
「……」
真緒は、ぶすっとした顔でそっぽを向いていた。
しかし、KOされたからと言ってすねるような真緒ではないことを知っていたので、綾香にはますますわからなかった。
「最後あたり、急に動きが雑になったわよ。あれじゃあ、私に倒してって言ってるようなもんじゃない」
正直、失望しているところもあるのだが、真緒は、少なくとも失望するような実力ではないはずだ。だから、綾香としては友人として理由を聞きたかったのだ。
「……から」
「何、よく聞こえないわよ?」
「あんたが、手加減なんかするからよ」
「手加減? 私は、手加減なんかしてないわよ」
「だったら、何であんな構えなんて取ったのよ」
「何でって……言ったじゃない。対策だって」
真緒は、ダンッと床を叩いた。床を壊してしまいそうな威力に、セリオが横で少し顔をしかめる。
「あんな構えの、どこが対策よ。あれは、私に対する侮辱だ!」
真緒は、本当に傷付いたのだ。確かに、おかしな性格ではあるが、真緒はこういう部分に関しては、えらくピュアな部分を残している。そのギャップが、綾香には面白く見えたりもするのだ。
「……私は、あんたに認めさえされれば、いいと思ってる。他の、何の役にもたたないような評論家や、意味もなく私をほめる教師達よりも、エクストリームチャンプの、あんたに!」
真緒の、正直な思いだった。今まで初めて対等、それ以上だと思える相手に会ったのだ。それこそが、綾香である。
「だから、誤解よ。それが証拠に、真緒もKOされたじゃない」
「そうだけど……」
確かに、自分は不用意に飛び込んだと思った。しかし、それでも取ったと思ったのだ。それこそ完璧に、綾香の射程範囲を潜り抜け、もう一歩、自分の位置までもぐりこんだはずであった。
そこまでやって倒せなかった綾香は、やはり全力を出していたのだろうか。
「正直言うと、今のは真緒対策じゃないのよ」
「え?」
「私を追い詰めた男がいるのよ。そいつに、勝つためにね。もう一回空手を調べて選んだ対策よ」
「綾香を追い詰めた? あの、噂の綾香の彼氏?」
「浩之のこと? 彼氏じゃないわよ」
そう言っても、綾香の顔がほころぶ。それは、明らかに好意を持った態度だった。
「確かに、浩之なら、いつかは私を脅かす存在になってもおかしくないけど、今はまだまだ私の相手になんかならないわよ。今は、浩之の兄弟子にあたるわね。修治っていう大男よ」
「修治? 聞いたことない名前だ。綾香と同等にやりあうって、もうプロの有名な外国人ぐらいしかいそうにないけど」
しかし、それなら手加減されたのではないと理解したのか、真緒はいつもの口調に戻っている。感情の起伏が激しいわりに、戻るのも早いので、綾香はいつものことながらあきれた。
「泣いたカラスがもう笑ったわね」
「綾香を追い詰めるぐらいの達人のための対策なら、手加減されたってわけじゃないからね」
むしろ、十分以上の評価をもらっていると考えてもよかった。
「でも、正直真緒に決まっても、あいつに決めれるかどうかわからないわね」
「そんなに強い相手なの?」
真緒は、自分が一発でKOすることとなった延髄の痛みに、首を押さえながら立ち上がった。
「ええ、強いわよ。ほんと、いつもの私なら負けたかもしれないぐらいにね。だから、考えたのよ。あいつに、修治に勝てる、タックル殺しを」
続く