「飛びつき腕十字は、れっきとした柔道の技だ」
雄三は何故かとても嬉しそうにそう言った。
「あの、それじゃあ、別にサンボの必要はないような……」
「いや、ある。柔道には、確かに飛びつき腕十字はある。しかし、おぬし、それが今まで使われたところを見たことがあるか?」
「一応、オリンピックのときぐらいは柔道を見ますけど、今まで一度だって見たことはないです」
だからこそ、由香が使ってもわからなかったのだ。柔道で頻繁に使われるものなら、名前ぐらい覚えていてもおかしくない。
「特にオリンピックなどではそうであろうな。柔道の飛びつき腕十字は、はっきり言って役にたたん、使われないのは当たり前だ」
「……弱いんですか?」
「弱い。柔道家の使う関節技は最初からあまり恐れるものではないが、飛びつき腕十字など、最初から使ってこないであろう」
雄三は、絶対に偏見で格闘技を見たりしない。使えると思えば、それが殺人技だろうとドロップキックだろうと使う。それだけ格闘技に徹底しているのだ。
しかし、だからこそ、雄三の言うことは正しい。雄三が使い物にならないと言えば、それはほぼ間違いなく使い物にならないのだ。
でも、それだと変だ、と浩之は思った。
「俺の見た飛びつき腕十字は、確かに使われたのはプロレスでしたけど、すごく早くて、何をしたのかさっぱりわからなかったんですが」
「だからサンボを教えたのだ。同じ技であろうと、それに何の改良がなかっわけではない。特に、立ったまま関節に移行できる飛びつき腕十字に関して言えば、柔道よりもサンボの方が優れているのは確かだ。おそらく、その飛びつき腕十字はサンボから覚えたものなのだろう」
「あの〜、そんなに柔道の飛びつき腕十字と、サンボの飛びつき腕十字って、違うんですか?」
技というものは、どちらかと言うと、その技が使える、使えないというよりは、その技をいくら練習したかによるところが大きい。
例えば、葵が得意とするのはハイキックだが、同じキックでもミドルキックとなると、そこまででもない。そこまででもないというのは、ハイキックに比べてという話だ。
これは、単純に葵がハイキックをよく練習したからだ。
柔道ならば、使われる技はだいたい決まっているが、それでも、得意技というものが必ずある。それは、練習を一番多くしたものが強い技になるからだ。
その理論から言うと、柔道とサンボには、そんなに大きな差はないはずだ。所詮、全然飛びつき腕十字を練習していないサンボの選手より、よく練習している柔道家の方がうまいに決まっている。
「サンボの方に飛びつき腕十字にバリエーションがあるというだけで、さして違いはない。ただ、サンボの方が、それに強い重点を置いている、その程度のことだ」
「なら、練習すれば、柔道の飛びつき腕十字だって……」
「……ふむ、説明が足りなかったようだ。仕方あるまい、少し、わしがじきじきに体で教えてやろう」
「え……師匠が、相手をしてくれるんですか!?」
実は、浩之はここに来るようになってから、一度も修治や雄三と組み手の練習をしていない。事前の準備運動と証するバカげた猛特訓で、身体が動かないというのもあるのだが、それにしたって、雄三は相手をしてくれないものとばかり思っていた。
「おいおい、いいのかよ、じじい。自分の流派の手のうちを人に見えるの、すげえ嫌がるくせにさ」
「浩之はすでに我が流派の門下生だ。格闘技を止めるのは止めんが、もし、我が流派の手のうちを人にみだりに見せたり、教えたりすれば、ただでは済まさんよ」
雄三は、ひどく平和そうな表情でそう言って笑った。浩之としてもわざわざばらす気はないが、それにしたって頭に銃をつきつけられた状態で、いい気持ちになるわけがなかった。
「浩之も、覚えておくと良いだろう。我が流派の技を見せるなとは言わないが、十分に注意して使うことだ。研究されれば、当然不利な状況で戦うこととなるからな」
有利だと思えば、どんな技でさえ使う雄三でも、相手に自分の手のうちを知られてしまうのは問題なようだった。
「でも、組み技を教える約束を……」
「普通の技は良い、ほとんどが他の流派からわしや修治が勝手に付け加えたものだ。だが、我が流派の秘伝や、奥義ともなれば、そんなことは言っておれんのだ」
「……教えられるのが、いつになるかわからないと思いますが」
秘伝や奥義とまで言われるものなら、使うのだって最初から優れた能力が必要だろう。少なくとも、今準備運動だけで動けなくなっている浩之にそれがあるとは思えなかった。
「正直に言えば、普通の技とて見せないことに越したことはないのだが、浩之は、あの来栖川のお嬢さんのために来ておるのだろう?」
「いや、葵ちゃんのためってのもあるけれど……」
まあ、誰か一人と言われれば、綾香のために来ていると言ってもいいだろう。今だと綾香の方が組み技もうまいだろうが、それの手助けをするために浩之がここにいるのは確かだ。
というか、綾香のためでもなければ、こんな無茶な練習にずっと付き合ったりしない。綾香のことがあるからこそ、浩之は逃げ出しもせずに、修治に付き合って無茶をしているのだ。
「浩之がそれを一番優先させたがために、今おぬしはここにいるのだ。それを承知して弟子にした以上、わしもそこまで難しいことは言わぬ」
雄三は、頑固な相手ではなかった。その年から考えれば、柔軟すぎるほど柔軟だ。
だが、それはこだわりを捨てていないからこその柔軟なのだ。
「ただし、我が流派の、秘伝に伝わる部分は、口外は許さん。それこそ、我が流派にとっての企業秘密だからの。それを知られれば、わしや修治が受ける被害は図り知れんし、おぬしにとっても幸福なことにはなるまい」
「は、はい、わかりました」
いつ教えられるともしれない秘伝だが、浩之はそれでも疑問が頭から抜けなかった。
雄三も、修治も、どちらもすごいのは言うまでもないだろう。綾香と対等以上に戦う修治に、その修治をドロップキックで吹き飛ばす雄三だ。その実力を疑っているわけではない。
だが、技はどうなのだろうか?
雄三が口をすっぱくして脅すほどに、その技術は優れているのか?
経験してみないとわからないものだが、経験できたとしても、それは修治の実力、雄三の実力ではないとは言えないのだ。
まあ、俺が使ってみるのが一番いいんだけどな。
そうすれば、その技のすごさも、無駄かどうかも、ただ二人が強いだけなのかどうかも理解できる。それが結局一番近道なのだ。
間違っても、本当にすごいのかどうかを聞きはしない。下手をすると、そのまま倒される、いや、かなりの高確率で、危険なのだ。浩之は、一知能を持った人間として、そんな危険に満ちた冒険をする気にはなれなかった。
「うむ、よく覚えておくことだ。それでは、軽く教えてやろう」
そう言うと、雄三はゆっくりと道場の中央に向かった。浩之も、痛む身体をひきずりながらも、道場の中央に立った。
続く