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最強格闘王女伝説綾香

 

二章・修練(50)

 

 浩之には、これっぽっちも負ける気はなかった。

 葵との実力差ももちろん理解はしているが、だからと言って葵に負けてやる気は少しもなかった。全力で、勝ちを狙っていた。

 もっとも、葵ちゃんもそのつもりみたいだったけどな。

 あの、角度の変化して、ガードをすり抜けてくる掌底は、正直危なかった。浩之としても、避けれたのは、日ごろからの危機感知能力の向上と、運の二つがかけ合わさったからに過ぎない。

 もし、あのとき葵ちゃんにカウンターを合わせようとしていたら、あの一撃で倒されていた。消極案もあまり良いものではないが、それでも、倒されるよりは何倍もましだ。

 やぶれかぶれのかにばさみは、まるで綾香を相手にしているように、華麗に飛んでかわされたのだ。あの体勢なら、油断してもよさそうなものなのだが。

 ……葵ちゃんが油断? その方が無理か。

 葵ちゃんは、いつも本気だ。相手が俺でも、綾香でも、誰でも。

 だから、浩之はこの無謀とも言える戦いを承諾したのだ。綾香の言葉に惑わされたのは絶対になかった。あれは、単なる口実に過ぎない。

 こんな素人同然の俺にまで、全力を尽くして、新技まで、しかも一番知られたくないであろう綾香の前でそれを見せてくれたことに、俺は応えたい。

 そして、応える方法は一つ。

 浩之は、ゆっくりと地面に手をついた。

「浩之〜、何やってんのよ〜っ!」

 綾香のやじが飛ぶが、綾香は、浩之が何をしようとしているのか、ある程度予想できているだろう。坂下にとっては首をかしげる動きだったはずだ。

 そして、葵は、じっと構えを取ったまま動かない。

 感謝するぜ、葵ちゃん。

 その場から動かれたら、それまでの構え。いや、構えとも言わない。これは、スタートだから、格闘技でさえないのかもしれない。

 だが、浩之にしてみれば、使えるものなら何でも使う、ただその延長上にあるだけのものだ。それだけの、大したことのない動き。

 浩之は、手を地面についたまま腰を上げた。

 さっきは迎撃されたけどな……

 浩之の、その才能の塊のような筋肉に、酸素が送り込まれる。次の動きを止めるまで、この身体は呼吸を止める。

 呼吸をする時間ほどの、余裕はない。

 一瞬の沈黙、そして。

 スタートッ!!

「フッ!!」

 浩之の身体が、すごいスピードで加速し始めた。人間は、初速度なら、どんなスポーツカーよりも速い。その中でも、浩之のスタートダッシュは特別と言ってもいい速さだった。

 クラウチングスタート、何のことはない、陸上の短距離のスタートの仕方だ。それを格闘技に応用したまでのこと。

 格闘技のスタートダッシュ、つまり加速力は、並の陸上選手などはるかに凌ぐ。陸上はその後に間があるが、格闘技には、その後がないのだから。

 浩之の、超高速タックル。

 打撃と同じスピードでタックルが入るのだ。そんなもの、避けれるわけがない。

 ドッ!

 だから、葵はそのタックルを、まともに受けた。ように見えた。

 異常に軽い手ごたえとともに、浩之の、葵の腰に回されるはずであった腕が空を切った。

 浩之の背中を、葵はまるでもてあそばれるボールのように回転しながら、葵が過ぎ去り、見事と言うにはほど遠い体勢で着地し、しりもちをついた。

 だが、浩之はさらに危険だった。マックススピードで突っ込んだのだ。人間にはブレーキはないが、慣性の法則はよく効く。

 浩之は、自分で前転を行い、3回転ほどして力を逃がしてから地面に手をつき、こちらは素早く立ち上がった。

 だが、それですでに身体が限界を訴え、浩之は息をするために動きを止めた。

 葵は、少しのろのろとしながらも立ち上がる。ダメージはぶつかったときにある程度はあったようだが、致命傷ではなかった。

 ゼハッ、ゼハッと荒い息をする浩之を尻目に、葵は自分の身体を確認している。まるで、交通事故にあった後のように。

「……すごいわね、葵」

 綾香が、感嘆のため息をつく。坂下も、不本意なようではあったが、それをすごいと思った。

 そう、理論的には、葵のそれは、車に衝突されても怪我を最小限に食い止めることが可能だ。それを実現できるレベルの人間ならば、もともと車に引かれたりはしないだろうが。

「葵ちゃん……さすがとしか言い様がないな」

 そう言って浩之は苦笑した。浩之は、さすがにやられたときは何が起こったのかわからなかったが、考えてみて、そして冷静になって考えてみれば、葵がやったことが何か理解した。

「由香が、一度見せただけだろ、それ」

「はい、由香さんんは華麗に決めてましたけど、私にはあれが精一杯です」

 そう言いながら、葵はゆっくりと構えを取る。浩之も、どこか苦笑したまま、構えを取る。

 由香の試合を見に行ったとき、由香が一度だけ、相手のタックルを相手の背中に手をついて側転で避けたときがあった。それは、何のことはない、プロレスという中での、見世物的な動きでしかなかった。

 だが、葵はそれを見ただけだったのに、それを昇華させた。

 脱力、というのも変だが、腰を浮かして、相手の力を利用し、相手のタックルの威力を殺しながら逃げる。相手の背中を回転しながら通りすぎるのだ。

 車に引かれた人間がボンネットに転がり上がると一緒の原理で、葵は浩之の背中に転げ上がり、そのまま威力を殺して浩之の上を通り過ぎたのだ。

 葵は努力家だ。それは浩之も認める。綾香と比べれば、確かに葵は努力で自分を構成している。それは、浩之と比べてもそうなのかもしれない。

 だが、それは、葵にまったく才能がないというのにはつながらない。

 その格闘センスは、素晴らしいものがある。それを浩之はすぐにでも証明できると思った。今、自分の高速タックル、とんでもない手で避けられたのだから。

 ……勝てるか、この葵ちゃんに?

 分が悪いなんてものではなかった。確かに葵は強い。浩之がこれ以上何をしたところで、どうにもならないのかもしれない。

 さっさと降参するか?

 浩之は、自分に勝ち目がないのを冷静に判断していた。まだ慣れていない組み技を主体にして、これだけやったのだ、ほめるべき結果なのかもしれない。

 だが、浩之は満足していなかった。

 葵ちゃんが、ちゃんと組み技でもそれなりに戦えるのはわかった。ということは、俺のやらないといけないことは終わったも同然だ。

 でも、まだだ。

 悠長なことをやっている間に、さっきの無茶な高速タックルで疲弊した身体は回復しつつあった。息もだいぶ落ち着いてきている。

 俺は、まだ葵ちゃんに勝っていない。

 無謀な戦い、しかし、浩之にはそれをするだけの価値があった。

 何せ、葵は、浩之が世界で2番目に勝ちたい相手なのだから。

 

続く

 

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