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最強格闘王女伝説綾香

 

三章・試合(5)

 

「お主、本当に相手を殴り倒す気があるのか?」

 浩之は、ぐっと言葉につまった。

 しかし、その本当の意味に、浩之はこのときは気付いていなかった。

「仕方ないだろ。俺だって一生懸命はやってるつもりだけどな、ジジイとか綾香と比べたら、大したものじゃない……」

「そういう意味で言っておるのではないわ」

 今のセバスチャンは、どこか諭すような口調でさえあった。歳を重ねたわりには、言ってしまえば直情と言えるセバスチャンのそういう口調は、そう聞いたことはない。

「お主は、本気で綾香お嬢様や、その崩拳を使う葵とか言う後輩を殴れるのか?」

 浩之には、それは即答できた。

「俺の実力じゃあ、当てるのは無理だな」

「……では、もし、綾香お嬢様が避けずにいたら、お主は綾香お嬢様を殴れるか?」

 いまいち趣旨のつかみかねるセバスチャンの言葉に、浩之は首をかしげる。

「うーん……そう言われるとどうだろうなあ。でも、それじゃあ格闘技やってるわけじゃねえから、そんな状態は起きないんじゃないのか?」

「ふむ、その意見には一理あるが……実際のところ、お主は綾香お嬢様を、もし綾香お嬢様が避けなくとも、本気では殴れないのではないのか?」

「……」

 浩之は、少し考えて、ついでに綾香が帰ってくることがないことを確認してから、苦笑して答えた。

「それは、俺に綾香を殴れって言ってるのか?」

「お主の実力では、それも無理であろうが……そう言っても良い」

「……ふーん、綾香や先輩のためなら人も殺しそうなジジイが、珍しいこといいやがるなあ。俺に綾香を殴らせてどうしようって言うんだよ?」

 浩之は、意図してセバスチャンの質問を捻じ曲げたのだろうか? その判断はつかなかったが、少なくとも、それはセバスチャンが聞きたい場所ではない。

「そんなことを言ってはおらん。お主は、綾香お嬢様を殴る勇気ないどないのだろう?」

 セバスチャンは、少しも話の機微についていこうとは思っていなかったようだ。おそらく口喧嘩をしたところでそれなりの勝負になるだろうが、セバスチャンの方もそう暇ではない。

「……女を殴るのは勇気って言わないと思うけどな」

「わしとてそうは思う。しかし、格闘技に男も女もない。お主は、それを綾香お嬢様の前で否定することができるか?」

「……」

 否定した瞬間に、綾香に瞬殺されるのは目に見えていた。

 綾香には、いわゆる「強い」と一般的に言われる女性が持つ、「男には負けたくない」という気持ちはなかった。男の持つ「女には負けたくない」という気持ちに比べればたかが知れてはいるが、強くなりたい女性のほとんどはその気持ちを持っているはずだ。

 だが、綾香は少し違う。そんなことを考えなくとも、最初から男よりも強いのだ。

 だから、そこは綾香にとって当たり前、こだわることのものでもない。

 しかし、だからと言って、反対のことを言われれば、プライドの高い綾香だ。黙ってはいまい。男や女というものを超えて、綾香は自分が強いことに誇りを持っているのだから。

「腰抜けだとは思っておったが、お主は、本当に腰抜けのようだの」

 しかし、そう言うセバスチャンの顔には侮蔑の色は見えない。誉めているようにも、あまり見えないのは仕方ないとしても、それを責めているのかどうかは、浩之には判断がつかない。

「まあな、正直、綾香も葵ちゃんも、俺は本気では殴れんだろうな。もっとも、練習中は本気で当てには行ってるんだぜ?」

「当てにな」

「……」

 返す言葉もない。浩之の打撃が当たったとしても、綾香も葵もKOされることはほぼ絶対にないだろう。

「だから、お主は、例えばアマチュアボクシングではそれなりに良い結果を残せるだろう。しかし、中国の形意拳や八極拳は、まず相手を一撃で倒せる威力を養ってから、次に必ず当てれる鍛錬に入るという。賛否両論はあると思うが、わしもそちらの方が、より打撃の真髄に近いと思っておる」

 そう言われても、浩之の顔色は晴れなかった。

「俺に、本気で女の子を殴れって言うのか?」

「そんな無茶は、わしも言わん。しかし、お主は殴らないのではない。殴れないのだ。その差は、格闘家にとっては酷く大きい」

 セバスチャンは、浩之から見ると、軽くジャブのようにサンドバックにパンチを繰り出した。まったく腰の入っていない、本当に単なるフェイントのようなジャブだ。

 ズバッ!

 恐ろしくキレのある音と共に、サンドバックが激しく揺れた。

「わしの本気ならば、人を一撃で殺す打撃も撃てる。それは鍛錬してきたというものもあるが、お主と決定的に違うのは、わしには、これを今でも人に撃つことができる。綾香お嬢様や芹香お嬢様に、もし悪い虫がつけば、それを実力で消し去ることに、いかほどの躊躇もせぬ」

 それは、昔は浩之もその悪い虫に入っていたことを考えると、寒気がする。今とて、完全に許されたわけではないのだが。

「しかし、お主はいくら練習して、打撃の威力を上げたところで、それを人間相手に撃つことができぬ。わしとお主の決定的な差、それは」

 セバスチャンの身体が、残像を残すほどのスピードで動いた、ような気がした。

 次の瞬間には、浩之の視界には、セバスチャンのそのごつい拳があった。まったく反応できずに、浩之は動きを止めたままだった。

「それは、覚悟だ。相手を、倒すという覚悟がお主にはない。お主は、競技者ではあっても、格闘家ではない」

「……で、俺にどうしろって言うんだ?」

 それに関しては、浩之は異論はない。むしろ、浩之はどこか自覚している部分さえある。普通に考えればそうだろう。相手にとってみれば、殴られれば痛いのだ、それを考えれば手も縮む。

「綾香お嬢様は、お主に格闘家であって欲しいのであろう」

 そう言った後、セバスチャンは破顔した。

「まったく、綾香お嬢様のわがままにも困ったものだ。今の世の中、競技者である方がむしろ美徳でさえあるのに」

「何だ、セバスチャンは俺がこのままでもいいと思ってるのか?」

「わしも格闘家のはしくれ。それを喜ばしいとは思わぬが、単なる執事の意見で言えば、お主はそのままでいいのであろう。いや、むしろ、そのままの方が良いのだ」

 浩之は、その話に何故か肩をすくめた。

「ま、綾香が望むって言うなら、考えてみるさ」

 そう、そのままの方が良いのだ。

 それならば、一生、本気で綾香お嬢様に勝ちたいなどと思わぬのだろうから。

「それでは小僧、いい機会だ。わしが少し手ほどきをしてやろう」

「い、いや、やめとく。俺もまだまだ命がおしいし……」

 じりっと浩之はセバスチャンから距離を取る。

「そう言うな。お主のような虫……いやいや、何でもない」

 必殺の拳を構えるのを見て、浩之は一目散で逃げ出した。覚悟がどうとかより、今はとりあえず五体満足でここを脱出する方が先決だった。

 

続く

 

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