「……死ぬかと思った」
池田の意見は、まあ半分ほどの人数の支持を受けた。何故なら、後半数は「思ったじゃなくて死んでる」と思っているからだ。口には出さないものの、その雰囲気はその原因を作った一人である坂下には届いていたが、諸悪の根源たる寺町に伝わっているかどうかは謎だった。
「久しぶりに池田のその言葉聞くわね」
「……忘れもしないわよ。入部当日にKOされたのは」
ここの空手部の伝統として、空手経験者は、入部したらすぐに同じ進入部員と試合をさせられる。坂下はどれだけの実力か手っ取り早く見るための手段だと思っているのだが、普通の試合ではなく、フルコンタクトで、おまけに勝ち抜き戦だったりしたので、いわゆる運動部にはありがちな「意味のない伝統」というやつだったのだろう。
だが、ある意味それは坂下には楽しい事だった。何せ、フルコンタクトの試合など、中学では経験したことがなかったのだから。
坂下は、空手の練習としては、相手を倒すことだけ考えて練習していた。ポイントを取ろうとか、そんな殊勝な考えは、あのころの、今もかなりそうだが、坂下にはなかった。
そして、坂下は、空手経験者として自信満々で出てきた池田を、わずか30秒ほどでKOして見せた。池田が弱かったわけではない、坂下が、おかしかっただけだ。
「ローキックからバランスを崩させて、あごに左右のフックに、おまけに中段回し蹴りまでつけてくれたからねえ、あのときは」
「おお、ありゃひどかった。俺もその後無理やり試合させられたけど、逃げるのが精一杯だったからな」
「そうそう、私としてはあのまま全員KOしてやるつもりだったのに、結局御木本には逃げられたの、よく覚えてるよ」
ぽきぽきと坂下は指を鳴らした。別に恨みには思ってはいないが、あのときやり残したことはやっておくべきなのかもしれない。
「げっ、一人殺し損ねたからって覚えてるか普通? だいたい、俺はあの後先輩らに怒られて、逃げるのに大変だったんだぜ?」
「私はそこらへんよく覚えてないんだけど?」
「池田はあのとき倒れたままだったろうが。俺は一度も攻撃しなかったって言われて、先輩から折檻受けそうだったんだぜ」
「でも、結局あんた先輩からも逃げ切ったのよね」
「そりゃあな、好恵から逃げることを思えばかなり楽だったな。ついでだから先輩方々はたっぷりとからかわせてもらったぜ」
逃げることに関しては天才的な御木本だが、人をからかわせても一級品だった。もっとも、それが一体何の役にたつのかは謎だが。
その役に立ちそうも無いことを、さもすごいだろうと言う御木本の性格が、一番色々な意味ですごいのかもしれないが。
「まあ、意識が戻ったときの、池田の『死ぬかと思った』て言葉にはうけたな」
「ほんとに死ぬかと思ったわ。初めてKOされたんだから、当たり前だけどね」
池田も並の選手ではないのだが、少なくとも、中学では、そんな人間はいなかったのだ。つまり、相手をKOしても平然としている人間など。
「あのときに比べたら加減してると思うけど?」
「坂下、あんた、また最近体力増えてきたんじゃないの? 前はそれでも私がギリギリどうにかなるレベルだったと思うけど?」
「……あの〜、ほのぼのと会話するのはいいんですけど、何か忘れていませんか?」
すごく控え目に、というかこの場合、もっと大きく言った方がいいのだろうが、中谷が3人に訊ねる。
「ん、どうかした?」
「いや、あの、このまま他の人達放っておいていいんですか?」
「別にいいんじゃないか?」
御木本はまったく興味なさそうだった。おそらく女の子の世話はぴんぴんしている坂下と、一応は復活をはたした池田に絶対に阻止されるのは分かっているので、御木本には楽しいことがこれと言ってない。
「御木本の言うことは無視してくれていいから。森近ぁ!」
「は〜い」
坂下の言葉で、床を這うようにして近づいてきた森近は、か細い返事をした。
「死人はいた?」
「いえ……とりあえず、死人はいません。こちらの部員は、何人か保健室に酸素スプレーをもらいに行くまでに回復してます」
「そう、じゃあ、休んでいいわよ」
「はい、そうさせてもらいます」
そういうと、森近は来たとき同様、床を這うようにしてすみっこの方で動かなくなった。
「……む、惨い」
「ん? どうかした?」
坂下は別段気にした風もなかった。
しかし、ここでありありと差がでていた。森近は空手部の中では実力的には下の方だ。空手だけでなく、身体能力という面においても、さして見るところのない部員だ。性格がいいし、練習も熱心なので、坂下はそれなりに信頼はしているが、大会に出て良い結果を残せるほどのレベルではない。
だが、その森近でさえ、すでに這って動ける状態まで回復している。しかし、方や中谷の仲間は、寺町も含めて、まだ誰も回復していないのだ。
「そろそろ部長は回復するとは思いますが、他の部員は……」
一応、池田の命令の下で、やっと動けるようになった部員が、倒れたままの人のために酸素スプレーと麦茶を用意しているが、ある意味倒れている人間はほっときぱなしの状態だ。
「大丈夫、1時間もほっとけば、だいたいの人間は元に戻るから」
「……」
また中谷は言いたそうではあったが、坂下はあまり気にしないことにした。
だいたい、練習で倒れた相手をいちいち心配していたらきりがないのだ。坂下は、今まで何度も倒れたことがあった。坂下が本気で練習をしだしたら、倒れるまで誰も止めれないし、止めようともしなかった。
そうやってつちかってきた体力だ。それに付き合わされる方もたまったものではないと思うが、それより何より、まったく理にかなっていない身体の鍛え方だと思って、その部分に関しては、坂下は部員にも強要はしなかった。
まあ、その結果、こんな無茶なことが起こると知っていても、誰も坂下が倒れるような練習などには付き合いたくはなかったろうが。
「それにしても、そっちも災難だったな。もっとも、最初の原因はそっちの部長さんのせいみたいだけどな」
「はあ、そこは返す言葉もありません」
御木本に言われるまでもなく、そもそもの原因はそこに倒れている……
「いや〜、さすがは坂下さん。常識では測れないですねえ。はっはっは」
さっきまで倒れていた、何故かえらく陽気なこの男のせいである。
「部長、回復しましたか」
「主将と呼べ、主将と。しかし、見事にダウンしてしまいました。体力だけには自信があったんですけどね。しかし、いい経験になりました」
「……」
倒れたままの部員から、無言のプレッシャーを坂下は感じた。あのまま終わりまで倒れていろと思ったのは、おそらく数人ではなかったろう。
だが、それにもめげず、寺町はえらく上機嫌だった。
続く