「やはり、俺が目標にするだけはありますよ、坂下さんは」
「目標……ねえ」
坂下にしてみればはた迷惑もいいところなのだが、確かに坂下を超えれるレベルならば、かなりの部分まで行けるだろう。これは、何も坂下の自信過剰というわけではない。
坂下も、薄々は感じていた。
自分が、今も成長し続けていることを。しかも、それは葵に敗れてからこそ、さらに拍車がかかったように感じることを。
あの敗北は、手痛い一敗ではあったが、それによって、坂下はレベルアップしたと言ってもよかった。おそらく、負けることで、手に入るものもあるのだろう。
そして、寺町は、私に負けてそれを手に入れたのか?
それは微妙なところだった。おそらくは寺町も成長はしているのだろうが、同じように坂下も成長しているのでは、自分と寺町を比較してもよくわからない。
「これでも、うちの部もそれなりに厳しい練習をこの一ヶ月間続けてきたつもりだったんですが、全然相手にならなくて安心しました」
目標は、それは高い方がいいに決まっているだろうが、この男はもう少しへこたれることを覚えた方がまわりのためなのかもしれない。
「おいおい、見てわからない? こんなの、私らだってついていけないよ」
池田が肩をすくめて寺町の間違いを指摘する。こんなことをずっと続けていたら、それこそこの空手部は全国大会の常連になっているだろう。
しかし、それをこなせる坂下は、前よりもさらに成長しているとしか言い様がない。
「俺としては、ほとんど坂下の相手をしていたあんたが立ってることが不思議でならないんだが……」
練習の最後辺りは組み手の練習だったが、坂下の相手はほとんど寺町がやっていた。まあ、坂下もほとんど実践さながらの気合いをこめてやっていたものだから、寺町が倒されること倒されること。それまでの練習ですでにかなりばてていたのだから、体力のある坂下の方が、実力も上なのだか、かなり有利な状況にも関わらず、それでも果敢に相手になっていった。
だからこそ、今回死人を出さずに済んだと言ってもいいだろう。寺町は、結果的には自分で責任を、まあ、それは自分のためなので当たり前なのだが、とったのだ。
「いやいや、俺としては、あれぐらいで根をあげてるようじゃまだまだ駄目だと思うんだが」
「……次は死人が出るな」
少なくとも、次の死人は逃げることが得意な御木本ではないだろう。
「いや、そろそろ試合も近いんで、レベルアップが必要なんですよ」
「試合? 空手の試合にはもうちょっとあるけど……まあ、レベルアップするには足りない期間か」
「いえ、実は2週間後に……」
「森近ぁ、どっかの空手の大会なんてあったっけ?」
坂下はそういうことにあまり詳しくないので、はしっこの方でまだ倒れたままの森近に聞いてみる。そういうことは、この部では森近が一番知っている。
空手には流派が多いので、普通の高校の試合だけでなく、そういう流派の試合というのはけっこうあるのだ。そういう試合に出るのも、確かに経験にはなっていいかもしれない。
「……えーと、とりあえず、ここ1ヶ月ほどは、空手の試合はないと思います。ただし、2週間後って言ったら……」
森近はそこで言いよどんだ。ただ単に息が切れただけなのかもしれないが、それを確かめる術は坂下にはない。
「あれ、ご存知ないんですか? 坂下さんほどの強さなら、興味があってもよさそうなんですが。そういうことには無頓着な部長ならともかく」
「中谷、だから主将と呼べ。部長じゃあさまにならん」
相変わらずこだわる寺町を、坂下は押しのけて中谷に聞いた。そう、坂下には一つだけ心当たりがあったのだ。二週間後にある試合に。
「まさか……エクストリーム?」
「あ、はい。やっぱりご存知だったんですね。高校の空手部の活動としては邪道かもしれませんが……」
中谷のその言葉に、寺町がすぐに反論する。
「何を言う、中谷。強い弱いに空手も邪道もないだろうが」
「それはそうなんですが……部長、僕がうっかりそれを話題にださなかったら、エクストリームなんて知らなかったじゃないですが」
「格闘技とはするもので見るものじゃないからな」
もっともらしい言い訳をして、寺町は坂下の方に向き直った。
「確かに、坂下さんには邪道と思われるかもしれませんが、きっと出てくる選手は猛者ぞろいです。俺がどこまで行けるかわかりませんが、それでも、その試合を通じて……て、どうかしましたか?」
眉間を押さえてあらぬ方向をにらみつけている坂下の態度に、寺町は不安そうな声をあげる。
「もしかして……やはりそんな邪道なことは許せないですか?」
「許すとか許せないとかじゃなくてね……」
それは森近も言いよどむというものだ。自分の格闘人生において、それほど坂下に影響を与えたものはないと言わんばかりに、坂下には関係があるのだ。
「去年の、高校女子の部の優勝者、知ってる?」
「あ、はい。来栖川綾香さんですね。僕もビデオで彼女の試合は見ましたが、すごい選手ですね。空手をやっていたそうですし、坂下さんが覚えていてもおかしくないですね」
中谷には他意はない。寺町は、他意をつけれるほど器用でもない。そこらは理解しているつもりなのだが、それにしても、頭の痛い話だった。
「私の友人で、この練習量に難なくついていくってやつがいるって言ったわよね」
「はい、坂下さんの友人なので、まあ、驚くべき人もいますが、何となく納得もできますね」
実は寺町だけでなく、中谷にも怪物に見られているような気もしたが、あながち間違っていないのも嫌な話だ。
少なくとも、坂下のその友人は、完璧な怪物なのだから。
「その友人の一人、来栖川綾香、本人よ」
「はあ、それはすごい……というか、ほんとですか!?」
「嘘ついてどうするのよ。あの化け物の相手してれば、嫌でもこんなの平気になるわよ」
「……あの、一ついいですか?」
「何?」
「サイン、もらってきてくれませんか?」
坂下はいぶかしげな顔をした。森近みたいな格闘マニアならともかく、目をきらきらさせながらそう頼んでくる中谷を、ものめずらしげに見る。
「あんた、そういうキャラだったの?」
「どういうキャラですか。来栖川綾香と言ったら、格闘技の世界じゃあアイドルですよ。別にサインぐらい欲しがっても普通だと思いますけど」
「そんなものなの?」
坂下の前で綾香の話を出すのはそれなりに命がけなので、今まであまりそれについてサインをねだられたことはない。今はそれなりに和解してはいるが、綾香とはつい少し前まで、良く言って休戦中という感じだったのだ。
「もりあがっているとろこ、申し訳ないんだが……誰だ、その綾香って?」
「この部長は……」
「……ま、こいつはこういうキャラみたいね」
続く