作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

三章・試合(16)

 

 身体の火照りが消えなかった。

 もちろん、もう2時間近くも身体を休みなしに動かしているのだ。夜とは言え、すでに熱くさえなっているこのごろでは、身体は冷えるわけがないのだが、それでも、それは別の火照りだ。

「ハァッハァッハァッ」

 どこからか聞こえる早すぎる虫の音と、遠くから聞こえる車の音。それ以外は、川の流れる音程度だろうか。思うよりはよほどうるさいはずなのに、何故か浩之の荒い息だけが響いていた。

 緊張がないと言えば嘘になる。いや、浩之は実際に緊張しているのだ。

 公式戦に出るのは、これが初めてだった。浩之は自慢ではないが、そういう大会というものにまったく今まで縁がなかった。

 それは、大会に出る機会が単になかっただけでもあるが、それより何より、浩之は今まで打ち込めたものというものがなかった。

 浩之は、自分では自覚はないが、天才である。それも、他方に渡ってだ。あくまで、力を入れたものの上達が早いだけだし、それなりにもいくが、何もしないでもそれなりの成果を出せる。その程度の天才だ。

 そして、これが全てに秀でた者の宿命なのだろうが、浩之は努力をほとんどしなかった。少し練習すれば、どれだけ真面目にやってきた者も簡単に越せるのだ。それは、簡単なゲームのようだった。おしむらくは、浩之はそんな簡単なゲームには興味がなかった。

 天才とは言え、所詮人間。今まで苦戦して、そして負けてきたこともあるが、それを面白いとも浩之は思わなかった。

 格闘技には、浩之を燃えさせるものが何かあったのかと言われると、浩之は返答に困っただろう。結局、浩之にはさしたる目的はなかったのだ。

 そう、なかった。

 今は、ほんの少しなりにも、いや、時間の大半を割いてもやりたいことがあった。

 綾香。

 自分と同じ、天才を、浩之は見つけてしまった。天才は天才を好きになるというわけではない。綾香を好きになったのはたまたまで、出会いもたいがいたまたまだったし、その後話すようになったのもやはりたまたまだし、結局、そこに必然はなかった。

 しかし、綾香は天才だった。そして、浩之よりも強かった。

 多分、自分はわがままな人間なのだろう、と浩之は苦々しく笑った。好きな相手が、自分よりも優位に立つのが許せない矮小な男なのだろう、と。

 日に日に、浩之の中でその思いは大きくなっていた。それに意味があるかどうかなど無視するように、大きくなっていくその思い。

 綾香に、勝ちたい。

 綾香が、どれだけ天才かということを知った上で。しかも、浩之は自分が天才だというのを知らない、知らないでも、綾香に勝てないことだけは分かる。

 綾香は天才だが、格闘技においては、本当の、世界でおそらくほんの一握りの、もしかしたら一番の、天才だということに、浩之はすでに気付いていた。

 天才の通じる世界なのか。否、天才でなければ、その世界では通じないのだ。そして、綾香は天才だ。だから、綾香はエクストリームチャンプになった。必然だ。

 しかし、俺は……綾香には、決して勝てないだろう。

 それを分かりながらも、浩之の身体の火照りは消えない。

 試合をすることに緊張しているのではない。綾香と同じ舞台に、それが対戦することがないとしてもだ、綾香と同じ舞台に立つことに、緊張しているのだ。

 浩之は、綾香に、少しでも追いつきたかった。もっと自分の有利な舞台で戦えばいい、そう考えないこともなかったが、浩之のわがままは、綾香の土俵で、格闘技で、綾香に勝ちたいと言ってくるのだ。

 しかし、きっと、自分と同じレベルになって欲しいと願っているのだろう、多分それは間違いない、綾香と比べれば……

「俺のわがままなんて、たかが知れてるよな」

「誰がわがままよ?」

 浩之の言葉に、即座に答えが、しかも名前も出していないのに返ってきたことに、浩之はさして、いや、全然驚かなかった。今ここに自分がいることを考えれば、これは必然。

「よう、綾香。お嬢様が夜遊びか?」

「健全な高校生はまだ寝ない時間よ」

「まったくその通りだとは思うが、女の子が一人歩きするには物騒な時間だせ」

 時間は9時もまわって、繁華街から遠いこの河原は、人っ子一人いない……はずであったのだが、何故かこんな時間、しかも、エクストリームを明後日に控えているのに、綾香はまだしも、浩之はそこで練習をしていた。

「あら、一応女の子って認めてくれるんだ」

「ああ、ここらを変質者が歩いていたら同情はするがな」

「まったくね」

 浩之は、人畜無害な変質者が、ここ近寄らないことを祈るばかりだ。

「で、こんな時間に……」

「何しに来たとか、野暮なこと聞くつもり?」

「……いや、それは予想がつくんで、こんな時間にセバスチャンから逃げれたのか聞こうと思ったんだが」

「セバスチャン? ああ、セバスチャンは逃げる相手を捕まえるのは苦手なのよ。正面から戦うのは大得意みたいだけど」

「なるほど」

 嘘っぽい綾香の言葉だが、かなり信憑性のある言葉だ。まあ、あんな大きな声をあげていたら、逃げてくれと言っているようなものだが。

 綾香は、そんなことはどうでもいいと言うと、いたずらっぽく笑った。まだ少女だが、それは魔性の女のように、浩之の目には写った。まあ、性根の悪さから言えばどっこいどっこいだろうが。

「それで、私がここに来た理由、想像つくんでしょ?」

「もちろん、俺に会いに来たんだろ?」

「うーん、半分当りって言いたいところだけど……」

 綾香のこういう笑いは嫌いではない、と浩之は思った。

 いや、綾香のこういう笑いを、浩之は好きだ。

「……全部正解」

 綾香は、嬉しそうに、嬉しそうにだ、肩をすくめた。

「本当は、ナーバスになってるだろうと思って活を入れに来たんだけど……」

 遠慮しておきたいところだ。下手に活を入れられると、そのまま病院送りという可能性が否定できないどころか、単勝1.1倍のド本命なのだから。

「今の顔、葵にも見せてやりたいぐらいよ。好恵でも本気になるかもよ?」

 浩之としては、いつになく深刻そうな顔をしていると自分では思っているのだが、綾香から見たら、もっと他のものに見えるのだろうか。

「あいにく、女難の相は間に合ってるよ」

「酷いわねえ、私が、それを招いているような言い方、やめてくれない?」

 招いているような、ではなく、招いているのだ。実際、葵をからかっただけで、何度殺されかけたことか。まあ、それでも懲りない浩之も浩之だが。

「まあ、気合いは入ってるぜ。何せ、初めての試合だしな」

 綾香の横に立つための、とまでは言わなかった。どうせ、遠い未来の話だし、そんなことを言って興をそぐには、いや、それを言った方がよりこの状況には合っているのだろうか?

「がんばってね、浩之」

「……」

 浩之は、思い切り疑いの目で綾香を見た。

「何よ」

「いや、綾香が素直に俺の応援するってのは……綾香、熱があるなら早めに帰って寝た方がいいぞ?」

「添い寝してくれる?」

「……また今度な」

 凄い悩みどころな言葉を、浩之は軽く、まあ、勢いもあったが、軽くかわした。

「期待してるわね」

 何に、というのを聞かなかったのは、浩之の理性と臆病な心のなせる技だったろう。

「でも、この調子なら、浩之の心配はなさそうね。正直、サポートの方は葵にかかりっきりになるだろうから、これで浩之がプレッシャーに負けてたらどうしようかと思ったけど」

「プレッシャーねえ」

 いつもの、綾香からのプレッシャー、そして、本人が思っているわけでもないが、葵からのプレッシャー、そういうものに比べれば、そんなもの、たいしたことではないような気さえしてきた。

 浩之が思ったことは、どうしてプレッシャーという言葉は、口に出してしまうと安っぽく思えるのかということと……

「今日は、お前といちゃつく余裕はないってことだ」

「残念ね、それは」

 まったくだ。浩之は心の中で、強く思った。

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む