一応、坂下はこの男に会いに来たのだが、会わないのなら会わないに越したことのない相手なのは間違いなかった。
そんなに悪い人間ではないし、別に苦手としているわけではないが、ありていに言えばバカなので、こういう人の多い場所では会うのはあまり嬉しくない。
「部長、大きな声を出したら恥ずかしいですよ」
寺町に付き人のように従っている中谷だ。まわりを気にして少しそわそわしている。
言わずもがな、綾香達は、というか綾香はかなり目立っているのだ。それを、こんな全然違う意味で注目されてしまう男が来れば、目立たない訳がない。
「だから主将と言えと何度も言ってるだろうが。もしかしてわざと呼んでるのか?」
もちろん中谷が寺町のことを部長と呼ぶのはわざとではあるのだが、その寺町のどこでも目立ってしまう態度がわざとなのかどうか坂下は聞きたいところだった。もちろん、わざとでないことを十分に理解してだ。
寺町はすでに空手着に着替え終わっている。今日は迷わずにここまで来れたようだった。しかし、何故か寺町だけでなく、中谷も空手着なのに坂下は気付いた。
「中谷、応援なのに空手着なの?」
「えーと、これは深い、いえ、理由は単純なのですけど、色々事情がありまして……僕も試合に出ることになっているんです」
「……それは大変ね。どうせ寺町が強制したんでしょ?」
「ご想像におまかせします」
もうどうにでもしてくれという態度で中谷は大きくため息をついた。寺町はあんなのでもそれなりに人徳はあるようだし、何より、寺町の押しは坂下でも少しは譲歩してしまうほど強いのだ。気の弱い中谷に断れる訳がない。
「でも、中谷ならそれなりのところまでは行けると思うけど?」
一度だけ池田との試合を見ただけだが、坂下は中谷をかなり評価していた。性格上、あまり攻撃的なタイプではないし、実力も実際まだまだだとは思うが、それでも、才能はかなりのものだと坂下は思っていた。
「お世辞だと思って受け取っておきます」
中谷はその美形の顔には似合わず殊勝な苦笑で坂下の言葉を流した。自信過剰とはほど遠い人間であることは知っていたが、もう少し自信を持っても文句は言われないだろうに、と坂下は思ったが、中谷の自信のない態度は、不快なものではないのでこれ以上言うのは止めておいた。
「ところで、そちらの方は?」
寺町は綾香達の方に目を向けた。まあ、予想通りだが、寺町は綾香の顔を知らないようだ。
「ああ、こっちは……私の友人。綾香に、葵に、藤田よ」
「ちょっと、好恵。あまりにも解説が簡単じゃない?」
綾香が文句を言うが、坂下は無視することにした。どうせ、この面子が顔をあわせれば、ろくなことは起きないのだ。もっとも、浩之も表情から見ると、それに薄々気付いているようだが。
「綾香さん……ということは、もしかして」
珍しく、中谷の目がきらきらしている。そう言えば、中谷は綾香のことを知っていたなあと今さらになって坂下は気付いたが、まあ、最初から隠すつもりもなかったので問題はない。
「ええ、去年の高校女子エクストリームチャンピオン、来栖川綾香よ」
「やっぱりそうなんですか。光栄です、本物の来栖川さんに会えるなんて」
握手でも頼みかねない顔で中谷が綾香の前で目をキラキラさせている。
「……そういや、こいつファンクラブとかもあるんだよな」
今更になって、浩之も綾香の立場を思い出した。この美貌に、あの強さだ。実際、ファンクラブやおっかけのような相手もいるだろう。
もっとも、そこは綾香、おっかけに追いつかれるほどのへまもしないし、ファンクラブとも適当な距離を置いて接しているようだ。
……考えてみたら、俺の位置的には、ファンクラブやおっかけに殺されても仕方ないよなあ。
何せ、綾香と半恋人状態の浩之だ。下手をすれば刺されることだってあってもおかしくない。もちろん、綾香と浩之がへまをすれば、の話だが。
「ファンクラブの人か何か?」
「いえ、そういうのではないです。格闘家として、尊敬しているだけです。僕も、去年の試合を見させてもらいました。あの強さは、正直……人間とは思えません」
ほめ言葉ではあるのだが、微妙な感じだ。それを寺町ならともかく、中谷が言うのだから、余計に微妙だった。もっとも、そこまで思わせてしまう強さが、綾香にあるのが原因ではあるのだが。
だから、綾香も、にっこりと笑って答えた。中谷には、綾香を尊敬する、いや、畏怖する気持ちしかないと気付いたから。
「ありがと、今度からも応援よろしくね」
「は、はい」
浩之は、その中谷を見ていて、葵を思い出した。あこがれの存在、そんな感じなのだろう。ただ、二人には決定的な差がこれだけでも見える。
葵は、綾香と戦いたい、そして倒したいと思っている。中谷は、ただあこがれ、畏怖しているだけだ。
……この男は、格闘家としては大したことはないな。浩之は失礼なことを考えた。しかし、それは本心だ。中谷からは、強い者と戦いたいという気持ちが見て取れない。
「好恵、このお二人の紹介は?」
「ああ。彼が中谷、この前合同練習をした他の高校の空手部の部員よ。で、こっちのバカが……」
「坂下さん、せめてその呼び方は止めて欲しいんですけど」
「……この恥知らずが、その空手部の部長の寺町よ」
寺町からの文句があったので、もう少しだけ具体的にして坂下は説明した。さして間違ってはいないところが問題ではある。
「……で、強いの?」
綾香の質問もストレートだった。綾香はもちろん戦う必要はないのだが、どう見ても高校の部に出て喜ぶ相手のようには見えなかったのだ。ということは、少なくとも浩之の敵ではあるのだ。
「弱くはないと思うけど……」
別に坂下は寺町を弁護する気はなかったが、寺町が弱くないのは確かだった。あの打ち下ろしの正拳などは、強いと言ってもいい。
「……私よりは下ね」
「なーんだ、なら楽勝ね」
もちろん、それは綾香ならば、という意味だ。浩之では坂下には勝てないのだから、判断するのは難しい。
「……あなたは、坂下さんよりも強いのですか?」
寺町は、話の前後から分かったことを口にしたようだった。何度か話をしたはずなので、まったく物覚えの悪い人間である。
そして、坂下だってそう何度も口にはしたくないことなのだが。
「言ったでしょ。こいつ、綾香は、私が今まで一度も勝てなかった相手よ」
それを聞いて、寺町は驚き、ついでに喜んだ。
「それは……ぜひ、戦ってみたいものですね」
その言葉は、一人事にはあまりにも大きな言葉だった。
続く