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最強格闘王女伝説綾香

 

三章・試合(25)

 

 たかが地区予選とは言え……もうちょっと余裕が欲しいよなあ。

 浩之は試合場に立ったまま物思いにふけっていた。

 もちろん、物思いにふけるような時間ももうすでに残っていないのだが。

 エクストリームの地区予選は、全ての試合が1日で終わる。それなりの人数が来ているのだから、それだけの試合をこなすのは中々大変なのだ。

 だから、一々試合の間を広く開けたりもしないし、仰々しい試合の合図もない。審判の合図とともに始めるだけだ。

 何より、小さな体育館ではないが、それでもそこに四つも試合場を作って同時進行するというのは、あまり選手にとっては集中できる環境ではない。何せ、選手や応援の観客、記者などが試合会場のまわりに入り乱れているのだ。もちろんその中には、次に自分が対戦することになるだろう相手の実力を見ておこうという者もいたが、それだって自分が同じ時間帯に試合を組まれれば見ることはできない。

 まあ、浩之は別に修治と北条桃矢の試合さえ見れればいいし、運のいいことに、まったく重ならない時間帯に二人の試合はある。

 ただ、浩之が問題にしたいのは、自分の試合が一試合目だということだ。

 まだ準備が終わっていないのか、審判も忙しそうに右往左往しているが、すでに浩之とその対戦相手は試合開始位置に立たされている。

 ちらりと浩之は対戦相手を見る。大学生だろうか、ごつい顔に、それに劣らないこつい身体だ。格闘技は……見たところ、その道着姿から、柔道か空手、まあ、間違いなく空手だろう。

 もちろん黒帯で、浩之などとは比べ物にならないぐらいそれに力と時間を注いできたのが聞かなくともわかる。

 俺に勝たしてくれるかなあ?

 浩之は、自分の戦力を冷静に判断して、そこそこいい戦いができるだろうと、軽くそれぐらいしか思っていなかったが、いざここに立ってみると、何と落ち着かないことか。

 相手が何をしてくるのか、わからない。確かに空手着のように見えるが、もしかしたらそれがフェイクで、キックボクシングの選手かもしれない。

 いや、その重そうな身体では、キックやボクシングの選手ではないだろうが、もしかすると柔道かもしれないし、まったく浩之の知らない技を使ってくるかもしれない。

 相手のことを知らないというのが、こうも怖いものだとはね。

 綾香や修治を見ていると忘れてきそうになるが、所詮浩之は素人。つまり、弱い位置にいるのだ。弱い位置にいる者にとって、相手を知らないというのは、まさに自殺行為。

 だいたい、どんな試合の組み立て方をすればいいのかもよくわかんねえしなあ。

 これが2試合目とかなら、浩之も他の選手の戦い方を見てある程度研究することもできたのだが、これではそれもできない。

 綾香に何度か聞いたが、まあ当然参考にはならない。あの天才お嬢様にとっては、エクストリームという大舞台など、遊び場のようなものなのだから。

 葵ちゃんが固くなってた理由、少しはわかるぜ。

 今この場に立って、浩之はそれが身にしみてわかった。打撃をよけるのは得意でも、それさえ失敗して、一撃で倒されるかもしれない。よしんばそれをよけても、自分の攻撃が効かない可能性だってある。それに何より……

 負ければ、それまでなんだ。

 浩之は、今まで綾香との賭け以外で、負けてはいけない場面というものに、一度も関わらなかった。何より、あのときでさえ浩之は賭けに勝ったのだ。

 だが、今回も勝者で終わるという保障はどこにもない。それどころか、下手をすれば一回戦目で敗者になる可能性だって十分にある。

 手は……動く、足も……でも、まだ動くだけだ。

 浩之は自分に言い聞かせる。自分が強い、と。ちょうど、あのとき葵に言ったように、何度も自分の心の中で。

 大丈夫だ、ここには綾香や修治のような怪物は存在しない。俺が勝てるかどうかは別にして、俺が手も足も出ない相手なんていない。

 自信を持て、俺は、綾香や修治、葵や坂下にしごかれてきたんだろう? だったら、ここにいる無名の選手に負けるなんてことはない。絶対に、絶対にない……

 ドクンッドクンッ

 心臓の音が、嫌に大きく聞こえる。手足が少しずつしびれている。浩之は、この自分を押さえ込もうとする物の正体を知っていた。

 これは……緊張だ。負けてしまうんじゃないかという、恐怖で生まれた、緊張だ。

 葵にあんなことを言っておいて、自分でも情けないとは思うが、どうにもならないというものはある。浩之としては、もう少しどうでもいい場面で、どうにもならなくなっていて欲しかった。

 だが、どうにもならないということは、えてしてその人間にとって重要な場面に限ってあるものなのだ。

 審判が近寄ってくる。もう少しで試合が始まってしまうのだ。

 この時間を、浩之はずっと恐れていた。もっと時間が欲しかった。しかし、本番は時間をずらしてくれるわけでもなく、まだまだ浩之を鍛える時間を残して、ここまで来てしまった。

 やばい、今やったら……俺は、負ける。

 じわじわと浩之をなぶるように広がる緊張が、さらに浩之をあせらせる。

 しかし、その様子を後ろで見ていた彼女は、全然平気だった。

「まったく、がらにもなく緊張しちゃって」

「センパイが、緊張ですか?」

「うん、前の葵ほどじゃないけど、かちかちに身体がかたまってるみたいよ」

 綾香と葵と坂下の三人は、試合場のまわりにいる応援の人や選手にまぎれて、浩之を後ろから見ていた。

「へえ、あの失礼を地で行く男がねえ」

 坂下はすごく意外という顔で言う。確かに、日ごろの浩之は緊張のかけらもなく、こんな場面でさえいつもと変わらず飄々としていても不思議ではない。

「しかしまあ、浩之にとっては本当の本当にデビュー戦だから、仕方ないんじゃないの?」

 今まで何度も空手の試合に出ている3人とは違い、浩之は公式試合というのが初めてのはずだ。それは緊張するなという方が無理というものだ。

「でも……私のときはセンパイに勇気づけられましたけど、センパイは……」

 日ごろの浩之を見ていれば、緊張するのが珍しいこともあり、どういうキーワードで応援したら浩之の緊張が解けるのか、まったく見当がつかないのだ。

 だが、綾香はそんなに深くは考えなかった。ちょっとだけ、手助けをしてやれば、浩之は勝手に自分でどうにかしてしまうのだから。

「いいのよ、葵。普通に大きな声で応援してやれば。女ったらしの浩之は、女の子に声をかけてもらうだけで十分よ」

「……そんなものですか?」

「そんなものそんなもの」

 葵は浩之のことを女たらしだとは思っていないが、綾香に言われて、ただ応援するだけならば、自分にもできると思った。大きな声には自信があるのだ。このざわざわとした場所でも、十分浩之に届く声が出せる。

「じゃあ、せーので言うわよ」

「はいっ!」

「せーの……」

 綾香と葵と、おまけに坂下も、大きな声で浩之を応援した。

「シャキッとしろ、藤田っ!」

「がんばってください、センパイっ!」

「がんばれ、浩之っ!」

 

続く

 

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