「とりあえず、よくやったって言っておくわ」
綾香はにこにこしながら、ついさっき自分がKOした浩之を、あてつけのように褒めた。
「一番最初に、それもTKOで試合が決まったんで観客や選手の人も注目してましたよ」
何故か綾香の突っ込みだけにはあまり突っ込みを入れない葵は、もしかしたらこういうことに凄く慣れているのかもしれない、と浩之は遠くの方で考えていた。
現実に戻ると、綾香に殴られた顔が痛いから。
「まあ、その後の綾香のKOの方が確実に目立ってたけどね」
坂下は、腹をかかえて笑っていたので、まだ苦しそうだ。
「しっかし、まさか試合に勝ったその直前に綾香にKOされるとはねえ……」
坂下はまだ笑い足りないようだ。まあ、こんなことが起こって驚くか笑わない方が珍しいとは思うが。
「で、藤田、生きてる?」
「……意識はある。身体は動く」
本当はばっくれたいところだが、きっとはって逃げている間に踏んづけられて殺されるのが目に見えているので、浩之は素直に立ち上がった。
「まったく、とんだ恥かいちまったぜ」
綾香を知っている者にならそうでもないが、知らない者が見たら、さっき試合に勝った選手が、そこらの、まあそこらにはいない美人ではあるが、女の子に一撃で倒されたのだ。どう見ても笑いのタネにしかならない。
「浩之が葵に抱きつかれて鼻の下伸ばしてるのが悪いのよ」
この一言で全ての罪を浩之になすりつけるのは、さすがに酷いと思うのは、きっと俺だけではない、そう信じるしか浩之にはなかった。
「試合の方はあんなによかったのに、最後までかっこよく終われないの?」
「それって全部お前のせい……いや、何でもない」
浩之は、笑顔で拳を振り上げた綾香の姿に、命惜しさに口をつぐんだ。男たるもの、いつかは命をかけなければならないこともあるかもしれないが、少なくとも、それは今ではない。
浩之にできる数少ない身の安全をはかる方法を、二つばかり思いついたが、綾香に甘えてご機嫌を取るはあまりにも、ここに葵がいる限り、危険なのでもう一つの方法にしておくことにした。
簡単に言うと話をそらしたのだ。
「それにしても、投げ一発で終わるとは俺も思わなかったんだが」
「レフェリーが止めてもすぐに関節技に入ろうとしてましたね。すごいです」
何がすごいのか浩之にはいまいちつかめなかったが、確かに浩之は審判が止めるのも耳に入らずに技をかけようとしていた。
「いや、まさかあれで決まるとは思ってなかったからさ」
「あれは私もいいと思うわよ。確かに、投げ一撃で終わることを願うよりも、次の技に入って仕留める方がいいわね。そういう意味では、つめが甘くなくていいんじゃない?」
試合とは言え、いや、試合だからこそ、わざわざ相手のダメージが抜けるのを待ってやる必要はないのだ。むしろ、あそこで追い討ちをかけない理由はまったくない。
相手を倒したらすぐに組み技に入れる。それは間違いなく正しい。しかし、あまり経験がないと、すぐには移行できない者もいる。浩之はその点正しかったのだ。
「ま、投げ技のチョイスも良かったから、あれでKOしても偶然じゃないわよ」
「とっさに脚をかけただけなんだけどな」
浩之は正直に告白した。確かに投げを狙ったのは狙ったが、どちらかと言うととっさに出ただけで、どんな技だったかも今思い出せないのだ。
「確かに、あの投げはちゃんと理にかなってたね。後ろに逃げようとする相手の脚に自分の脚をかけて、相手の動きの力を借りて、さらに自分でも後ろに押し倒す」
「さすが好恵さんです。投げは専門外なのに詳しいですね」
「まーね、エクストリームに出るつもりはないけど、空手以外の格闘技と戦って負ける気はないから」
坂下なりに色々研究しているからこそ、どっかの誰かのタックルでも平気でつぶしてしまったりもするのだが、まあ、これは坂下が普通の空手家ではないからの証明にしかならない。
「あれ、柔道の技じゃない?」
「正解、大外刈りって技よ。相手の右脚なら自分の右脚で、左なら左で、外側から相手の脚を自分から見て後ろに刈るのよ。まあ、浩之のはどっちかっと言うと、大外巻き込みって言った方がいいのかな? 相手の脚にかけたままだったから、相手もふんばりようがなかったし」
大外刈りは、柔道では重量級の選手がよく使う技だ。何故なら、相手の懐の奥に飛び込む背負い投げのように、相手の重心の下に滑り込む必要がなく、体格の良い者でも使い易いからだ。
柔道では普通の技であるが、しかしこれを他の格闘技や、ストリート、つまり実戦で応用したりすると、とたんに危険な技となる。
柔道には、決まったら耐えようのない技と、もう一つ危ない技がある。それは、受け身の取りにくい技だ。
例えば、一本背負いなどは、見た目は派手だが、受け身が取りやすい。うまく投げられれば投げられるほど、脚から落ちていく体勢になるからだ。柔道の受け身は手で受け身を取るが、レスリングのように足の裏で受け身を取れば、そして相手が上にのしかかってくるようなことがなければ、下手をすればコンクリートの上で投げられてもダメージを無くすこともできる。
だが、大外刈りはそういう訳にはいかない。投げられた相手は、その場で後ろに倒れるような体勢となり、しかも脚が上になるのだ。これは、直に後頭部を打つ可能性がある。
柔道でも、頭を打つのはこの大外刈りを受けたときが一番多いと言われている。もう一つ、危険と言われている体落としとはまた違った危険な技だ。
うまく回転を消して背中から落ちて受け身を取るか、それともプロレスのように肩で受け身を取るか、どちらにしろ、ダメージを消し去るのは難しい。
「柔道で一本を取る気がなくて、相手をダメージで立てなくするんなら、大外刈りが一番いいと思うわよ。何せ、頭を打っちゃえば、どんな相手でも脳震盪ぐらい起こすだろうし。ま、マットがあるから事故で死んじゃうこともないだろうし」
カラカラと軽く笑う綾香を見て、浩之は、心底この美少女を怖いと思った。きっと試合でためしに人の一人でも殺してみるつもりなのだろう。
「あ、そう言えば、さっきバカと一緒に来てたヤツがいたでしょ? そろそろそいつが試合するみたいなんだけど、見に行かない?」
坂下は急にそんな提案をした。バカとはもちろん寺町のことであり、試合をしなければならない不幸な男は言わずもがな、中谷だ。
「……ああ、一応ライバルになりそうだから、見に行くか」
「はい、他の人の試合を見ておくのも勉強になりますし」
「そこの人間凶器はほっておいてね」
坂下の綾香に対する評価は、綾香の言い分はともかくとして、かなり的を射た答えだったろう。
続く