1ラウンドをフルに戦いきった中谷は、少し息を切らせながらも、それなりに笑顔で戻ってきた。
「どうですか、僕もそれなりにできるでしょう?」
中谷には珍しく、少しはしゃいでいるようにさえ見える。いつもの落ち着きぶりを知っている坂下としては、違和感を感じる態度だ。
「いいから、しゃべらずに息を整えろ。お前のやり方はスタミナに問題があるからな」
「はい」
中谷は素直に寺町の言葉に従って、ゆっくりと息を吐いて呼吸を整える。後半はほとんど相手が動かなかったからいいものの、中谷はそれでも動きっぱなしだった。あの早いスピードをずっと維持しておくのは、想像以上のスタミナを消耗するはずだ。
「相手が警戒してくれたからいいが、おそらく次のラウンドからはこっちのスタミナを消耗させるために向こうも動いてくるぞ」
「大丈夫ですよ、部長。3ラウンドはスタミナは持つと思います」
「いいから、さっさとKOに持っていけ。いくらお前がスタミナには自信があっても、次の試合もあるんだぞ。疲れたままで勝てるような甘い大会じゃないんだろ?」
「はい……」
寺町が正論を言って、中谷がそれを聞くというのは、坂下にはあまりにも珍しかった。実際、まだ2回ほど一緒に合同練習をしただけだが、二人の性格はかなりのところ把握していると思っていたのだが、それがまるで正反対だ。
「お前がこんなところで負けるとは思わんが、万一ってこともある。少し無理をしてでもKOを狙うんだ」
「ですが……」
「いいから、やれ」
そうこうしている間に、審判が合図をかける。息はかなり整っているようだが、中谷の表情には覇気が感じられない。
「KOを狙えって、セコンドの言うアドバイスじゃないわね」
綾香は寺町のアドバイスをあまり良いものだとは思わなかった。浩之にさえ3ラウンドフルで戦えと綾香はアドバイスしたのだ。
それは、まだ試合に慣れていないものを極力慣れさせるための行為だ。確かにスタミナはその分消費するかもしれないが、試合に慣れておく方がよほど後に続く。
それに、普通の人間はKOなど狙えば技は大振りになるし、硬くなるので、余計に不利になることさえある。KOしたら何かいいことがある訳でもないのだから、それだけの実力の人間はKOなど狙わない方がいいに決まっている。
「レディー、ファイトッ!」
審判の合図で、また試合が始まるが、寺町は見ようとさえしなかった。
「俺はセコンドではないので……それに、試合に慣れるとか、KOを狙って技が雑になるとか、中谷はそういう部分をすでに越えてます」
相変わらずのフットワークだ。おそらく寺町の予測通りに、相手もスタミナを削ろうと動いてはいるが、中谷の方が数段速く、追いついてこれない。
「……それで、綾香さんでしたか。何故中谷の試合を見て大したことないと言ったんですか?」
「あの、私が見ても、今試合している人は、凄い実力だと思いますけど」
葵が少し控えめにそう言う。坂下も浩之も同意見だ。もっとも、坂下と葵は戦っても勝つつもりはあるのだろうが、浩之にはまったくその自信がない。
「見た目は、ね」
「見た目って言っても、あの動きは見た目だけじゃないだろ?」
目の前にいたら追いきれるかどうかさえ分からないような速い動きに、相手の打撃をショートフックではじくその目。間違いなく、かなりの実力者だ。
「ううん、見た目だけよ」
「はい、綾香さんの言う通り、中谷は見た目だけです。いや、確かに実力はあるのだし、見た目だけとは言いすぎかもしれませんが、見た目通りの男です」
パパパパンッ
弾くような連打の打撃音が響く。中谷が、また相手の打撃を弾きならがジャブを打ち込んだのだ。だが、相手もそれだけでは引き下がらず、さらに追い討ちをかける。
中谷はそれを足を使って逃げるが、表情はどこかあせっている。
「例えば、坂下さん。坂下さんは、中谷に負けますか?」
「私? まあ、負ける気なんてさらさらないし、負けないだろうけど……」
中谷の動きは素晴らしいと坂下も思うが、所詮は実力が違う。捕まえる方法など、坂下の引き出しにはそれなりの数がある。
「では、勝負は時の運、もし中谷が勝ったとして、中谷はどうやって坂下さんに勝つんですか?」
「それは、中谷は打撃系だろうから、勝つためにはパンチかキックで……」
坂下には、しかし、中谷が自分を倒す映像が思いつかない。いや、自分が倒される映像が思いつかないのだ。
中谷が勝つことも、万に一つもあるかもしれない。しかし、どうやって?
どの技で、坂下をKOする?
「そう、中谷の打撃は、弱い。威力が極端に弱いんです。確かに、相手の打撃をそらすことや、顔面にジャブを入れることはできる。それだけの動体視力と反射神経がありますから。だが、中谷のジャブでは、何発入れてもダメージはない」
「そんなの、練習でどうにか……」
打撃の威力をあげるのは、難しい部分とそうでない部分がある。しかし、極端な話、筋力を上げるだけでも打撃の威力は上げることもできる。
「単純に、ためし打ちと言うなら、そこまで威力を殺すことはないんですがね。中谷は、生まれつき持った打撃の質として、威力がない。それに、あいつは人を殴るのを喜ぶタイプじゃない。あれだけの才能があれば、もっと強くなれるとは思うのですが……」
「じゃあ、どうやって相手を倒すんだ?」
エクストリームにはKOやギブアップでなくとも、判定という勝負の決め方がある。決勝戦には判定はないが、それ以外では判定はもっとも多い勝負のつき方だ。
だが、いつも判定を狙うのでは、いつか倒されるだろうし、威力のない打撃ばかりでは審判の受けも良くない。有効打にならない打撃は、判定でもあまり有利には働いてくれないのだ。
「隙ができるのを我慢して蹴り、それもハイキックを撃つか、それとも……」
そう言って寺町は試合場を指差した。
中谷が、相手の蹴りを、一歩踏み込んで得意の左のジャブの連打で打ち落とした瞬間だった。
カカコンッ!
一瞬、身体がぶれたように見えるほどの素早い腰の回転から、左右のフックが相手のあごを捕らえた。
中谷はすぐに後ろにさがり、構えたまま動きを止める。
ズルッと対戦相手はその場に崩れ落ちる。
「あれが、中谷の唯一とも言っていいKOできる打撃。左のフックであごをうかせて、右のフックで同じくあごを打って脳を揺らす。打撃に威力はなくとも、正確なポイントを撃てば、脳震盪を起こさせるぐらいはできるってことです」
審判が、10カウントを数え、中谷は軽くガッツポーズを取った。
続く