「鬼の拳……」
まわりから聞こえてきた言葉に、浩之は首をかしげた。どこかで聞いたことのある言葉だ。しかも、そう古くはない。
「……ああ、そう言えば、言われてみればそっくりね」
綾香も、何かに気付いたようだ。
「何だったっけか?」
「……浩之、格闘界に疎いのは知ってるけど、これぐらいは覚えておいた方がいいんじゃない? 一応エクストリームに出てるんだし」
まわりの選手のことをほとんど気にしない綾香に言われても説得力はなかったし、浩之にだって思い当たるふしはあった。
というよりも、ここに出てきていてそれを知らない方がもぐりなのかも知れない。
日本格闘連盟会長にして、エクストリーム主催者。そして何よりも有名なのは、超実戦派空手、錬武館館長、『鬼の拳』の異名を取る格闘家、北条鬼一。
通常では考えられないが、肩よりも上に構えられ、振り下ろされるような両の拳は、いつのころからか『鬼の拳』と呼ばれるようになった。
その二本の角で、数多の伝説を作ってきたのは、まだそう古い話ではない。
異種格闘技を好んで行い、未だ負けたことのない、今でも最強と言われる格闘界の鬼だ。
はからずなのかどうなのかは謎だが、確かに、寺町の打ち下ろしの正拳突きは北条鬼一の『鬼の拳』に、片角ながら酷似していた。
何よりも似ていたのは、そのガードをまったく無視する、普通の打撃では考えられない強引さだ。まさに力任せと言うにふさわしい、それでも打撃の極地の一つ。
「いや〜、効きましたよ。打ち下ろしの正拳だけには自信があったんですが、まさかアレにカウンターを合わせられるとは。やっぱりいいですねえ、こういう試合は」
足元がいくらかおぼつかないが、どこか、というかかなり喜びながら寺町が戻ってくる。
「よくKOされなかったわね」
坂下がそう言ったのは、何も悪く言おうとしたわけではない。確かにあの正拳は素晴らしい打撃だったが、今寺町が立っているのはある意味偶然なのだ。一歩、いや、半歩も間違えば、運が良くてダブルKO、運が悪ければ寺町は一人あの場所に倒れていただろう。
「手厳しいですねえ、坂下さん。俺としても自覚はしています。相手をなめていたわけではないんですが、ここまでレベルが高いとは思ってもみなかったもので」
そう言いながらも寺町は終始ニコニコしている。
浩之は、この寺町の性格を、かなりストレートに見抜いた。
こいつ、強いやつと戦えるのが楽しいんだな。
浩之とて、強い者と戦うのは楽しい。弱い相手と戦っても、何の充実感も得れないだろう。だが、無尽蔵に強い敵と戦いたいとは思わない。自分の実力よりも優れたぐらいならいいが、まったくかなわない相手と戦っても負けるだけだ。
何より、浩之は殴られて喜ぶような変態ではないが、寺町はまさにその変態なのだ。
相手が強ければ強いほどいい。自分がかなわないのなら、もっといい。
もちろん、この男には負ける気はないのだろうが、それとこれとは話が違うのだろう。だからあんな危機一髪な試合をして、しかもKO寸前のダメージを受けてもニコニコと嬉しそうに笑っていられるのだ。
「これなら、すぐに試合を決めようなんて思わずに、もうちょっと楽しめばよかったか」
「部長、そんなこと言って、ぎりぎりだったじゃないですか」
「そうそう、あれだけの選手にアウトボクシングなんてやられたら、あんたなんか追いつくこともできないんじゃないの?」
寺町は右の打ち下ろしの正拳突きは素晴らしいが、それだけの選手だということを坂下はよく知っている。まあ、それを考えればよくやった方だろう。
「しかし、楽しかったは楽しかったけれど、あれだけは不完全燃焼というか……」
駄々をこねる寺町だが、さっき一撃KOした四ツ木選手は、この地区大会では優勝候補なのだ。それをただの一撃で沈めておいて、不完全燃焼も何もないものである。
「で、寺町だっけ? さっきの打ち下ろしの正拳は、北条のおじ様と同じ、『鬼の拳』ぽかったけど」
綾香は、反応を薄々予想しながらも、訊いてみた。
「北条?」
それを聞いて、いつになく寺町が神妙な顔になるが、この後の反応は、葵にでもすぐにわかった。もうここまで来ればこのキャラというものがだいたい理解できている。
「中谷……」
「はい」
中谷が、半分あきらめたようか口調で答える。それはそうだ、こういう反応を、この中で一番見てきたのだろうから。
「誰だ、その北条って?」
「やっぱり……。相変わらず、選手とかには全然興味ないですね」
「まあな。強い選手を見たからと言って強くなるわけでもないだろうし、俺はそんなことをする暇があったら身体鍛えた方がいい」
まったくの正論というわけではないが、それなりに正論な訳だが、何しろ寺町の言うことだ。説得力はほとんど、いや、まったくない。
だが、その寺町の言うことに賛同する者が一人だけいた。
「うむ、正論だ。俺を知っているよりも、一回でも正拳突きを練習した方がいい。うちの門下生にも聞かせてやりたいぐらいだ」
まったく、それこそ当事者以外のまわりの者にさえまったく気配を悟られることなく、その中年の大男は平然として後ろに立っていた。
……きっと、この世界は化け物であふれかえっているのだろう。浩之はかなりあきらめの境地に立ったままそう考えた。
「綾香君、挨拶ぐらいには来て欲しいものだね」
「あら、おじ様、会いたくない人には会いに行かないのが私のやり方なので」
綾香も、まったく驚いた様子もなく、その元祖『鬼の拳』と呼ばれる中年男に微笑んだ。
まわりがその人物を見てざわつきはじめても、大物なのかそういうことが気にならない目立ちたがり屋なのか、北条鬼一はまったく困った様子もなく、寺町の肩をぽんぽんと叩いた。
「まさか、俺の『鬼の拳』を門下生以外で使おうなんて酔狂なヤツがいるとは思わなかったよ。ついつい嬉しくなって来てしまった」
そのごついというよりかは人間とも思えない拳を見ながら、寺町は何故か首をかしげていた。
そして起こした反応は、まさに寺町のキャラを裏切る行動だった。
「やっぱり、お久しぶりです!」
続く