「武原選手の反則により、北条選手の勝ちとしますっ!」
審判のその言葉に一番早く反応したのは、他の誰でもなく、試合に勝った桃矢自身だった。
「ふざけるなっ!」
桃矢はそう怒鳴ると、審判の胸倉をつかみ上げた。
「おいおい……」
桃矢の筋力は当然常人よりも遥かに強い。審判は普通の一般人の体格なので、桃矢に胸倉をつかまれて足が浮く。
「試合は続行だ、このまま終われるかっ!」
桃矢の怒りはもっともだろう。かなりの実力差を見せ付けられた相手が、たかが反則で負け、自分が勝ち残るなど、プライドが許すわけがない。
もっとも、ここは桃矢のプライドよりも、宙に持ち上げられている審判の身体の心配をした方がよさそうだが。
「く、苦しい……」
審判のつぶれた声に、あわてて他の審判や選手達が止めに入ろうとした次の瞬間。
ガコッ!
勢い良く桃矢の巨体が、後頭部の一撃でマットの上に叩きつけられていた。
審判は、一緒に倒れはしたものの、怪我はしていないようだ。
「くっ!」
桃矢は素早く立ち上がって、自分の後頭部に一発入れた人物に拳を振るう。
ガッとあっけなく桃矢のストレートを弾くと、その高い構えからの右の打ち下ろしの正拳突きが、桃矢のまだ血でぬれた胸に突き刺さった。
ズドゴンッ!
物凄い音を立てて、桃矢の巨体が3メートルほど吹き飛びながら一回転する。
桃矢はそれでもバランスを取って、手をついてそのまま着地したが、応急処置しかしていない胸の傷から血が流れ落ちている。
「落ち着け、桃矢」
さっき胸に傷を負ったばかりの自分の息子に対して、後頭部に一撃、ついでに傷を負った胸に一撃、伝説の『鬼の拳』を叩き付けた北条鬼一は、自分のことは棚にあげておいて殊勝なことを言う。
「どけ、親父っ!」
しかし、桃矢もその程度の打撃ではすでに落ち着かなくなっていた。もちろん、その程度、というにはいささか強すぎる気もしたが、一応北条も手加減をしたのだろう。
「落ち着というのがわからんのか、桃矢」
北条は、拳を上に構える。これ以上暴れるようなら、自分が相手になるという意思表示だ。
「……くっ」
桃矢は、しばらく自分も構えたまま隙をうかがっていたようだが、慢心相違のこの状態でなくとも勝てないだろう北条に対して、今の自分が何もできないのを悟って構えを解いた。桃矢ほどになれば構えを取らなくとも一瞬で攻撃体勢に入ることもできるだろうが、そんな子供騙しが北条鬼一に通じるわけがないことぐらいは心得ているだろう。
桃矢が落ち着いたのを見て取って、北条は係の人間からマイクを受け取る。
「先程の審議について、説明します」
エクストリーム本戦ならともかく、地区大会程度でこんな説明が必要だとは浩之は思わなかったが、確かに、説明が必要な状況なのかもしれない。
肘を使って修治が反則負けになるのは仕方ない。そういうルールの試合で、肘を使う方が悪いのだ。
だが、それを言うと桃矢も派手に出血をしているので、ドクターストップやレフェリーストップがかかってもおかしくない。いや、普通に考えればこの量の出血なら、いかに桃矢自身が平気でも止められる可能性は高い。
むしろ、普通はここまで出血することのないようなエクストリームの大会では、桃矢の負けは濃厚だった。
ここでまたやっかいなのは、それでも、修治が負けること自体は何らおかしいことではないということだ。
修治を反則負けにした後で、次の試合で桃矢が審判に止められる。多分普通の選手ならこれで済んだろう。
だが、問題なのは、桃矢が、主催者である北条鬼一の息子だということだ。
こういう試合で、身内が偉くとも、何の得もないし、それどころか、このように害となることの方が多い。
いかに桃矢が強くとも、父親が主催者だという部分で、桃矢に有利なジャッジがされているのではないかという、あらぬ疑いをかけられることだ。
北条と少しだけ話をした浩之でも、北条がそんなことをするわけがないだろうと思えるのだが、全員が全員そう思うわけではない。
むしろ、大半の人間は、桃矢に有利なジャッジをして、修治が反則負けになったと見るのではないだろうか。
だから、北条は、むしろ言い訳に聞こえることもあるかもしれないが、ここは説明しておかなくてはいけないのだ。
「武原選手の行った肘打ちは、偶然に入ったものではなく、完全に故意によるものと判断し、反則負けにしたのだが……」
北条は、桃矢に一瞥をくれる。
「本当はこんな肘打ちなんか受けて出血しているようなヤツは負けにしてやりたいが……」
おそらく、どちらかと言うとリップサービスっぽい言葉だ。北条自身は、桃矢の勝ち負けにはあまり興味がないようにさえ見える。
「これを許すと、他にもこういうことをする選手がいるからな。そういうわけにはいくまい。よって、俺も不服ではあるが、武原選手は反則負けとする」
肘打ちは実際、非常に強力な打撃だ。距離は確かにないが、組み付いた状況でも強い威力を持って使えるし、下手に脇にでも入ったら簡単にあばら骨が折れてしまう可能性も高い。
何より、もしこの状況で修治を勝ちにしてしまうと、一撃で相手を出血させれば、それは有効ということになってしまう。
ただでさえ打撃を使えばある程度の確率で出血は起こり、しかもそれが試合を大きく左右してしまうのだ。肘のような簡単に相手に出血させることのできる打撃を、一撃でも許せば、何としても勝ちたい人間は使ってくる。
そういう意味で、この肘打ちは許せない反則なのだ。下手に処理を変えれば、エクストリーム試合全体にかかわってしまう。
だからこそ、ここは北条としては、修治を負けにするしか手はないのだ。もっとも、修治にしてみればそれも作戦の内だったのだろうが……
……ん? というか、修治はこれを狙ってたのか?
浩之は、そこで初めて修治が言っていたことを思い出した。そして、修治のまったく悪びれる様子も、悔しがる様子もないのを確認して、確信した。
修治のヤツ、わざと負けやがったな。
もちろん、その負け方は禍根を残すに決まっていた。
続く