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最強格闘王女伝説綾香

 

三章・試合(60)

 

「ファイトッ!」

 審判の声を合図にして、中谷の身体から力が抜け、軽いフットワークを使い出す。

 少し腕を引きつけた構えからの、フットワークのスタンスだ。それは空手というより、むしろボクシングに近いものだ。

 今の空手はむしろすり足よりも、こういうフットワーク系が多いと葵から聞いたことがある。いや、高校生で限って言えば、すり足の選手などいないとも言う。

 それは、空手が実際にボクシングに近い感覚があるからだろうか。すり足も、もちろん理にかなっていない訳ではないのだが、空手はむしろフットワークに向かっている。

 いや、時代の流行や、その格闘技の動向など、そういうことは問題ではなく、この中谷には、フットワークは間違いなく正しい。

 浩之も、どちらかと言えばフットワークを使う方だ。今は武原流で組み技も練習しているので、いつも軽いフットワークから、ということはなくなったが、元が綾香や葵が教えていただけに、素早いフットワークというのは、初期のころから練習している。

 だけど、こいつのフットワークは、俺じゃあつかまえ切れないだろうな。

 浩之は、冷静にそう考えて、広いスタンスで腰を落とした構えを取った。

 待ち構えた程度でどうこうなるような相手ではないことぐらいはわかっている。スピードはフットワークとかを無視して、かなり強烈なものだ。近くで動かれると、目でさえついていかないかもしれない。

 だが、浩之にも浩之なりの、もちろん綾香に教わったのだが、作戦がある。その作戦では、むしろ浩之には今フットワークは必要ない。

 まずは、オープニングヒット……

 オープニングヒット、つまり最初の一撃は、試合の勝敗を、大きく左右する。ダメージが入ってしまえば、そのままなし崩し的に負けることはよくある話だ。

 浩之は、いつもとは比べ物にならないぐらい、遅く、ズルリと身体を引きずるように中谷との距離を縮めた。

 中谷が、少し戸惑って、フットワークを消す訳ではないが、逃げようとしなかった。

 まずは、軽いフェイントから。

 浩之も本気ならまだスピードは出せるが、どうせ浩之のトップスピードでも追い切れないのは目に見えている。だったら、スピードを落とした方が、相手を捕まえれるということはあるのだ。

 広いスタンスは、相手にプレッシャーをかけ、逃げ口を縮める。遅いスピードは、どう反応していいかを、頭で考えさせる。反射的に動けない相手は、むしろ対応できずに守りに入ってしまうのだ。

 これが、まず綾香に教えてもらった戦術。

 相手には、反射的よりもむしろ頭で考えさせた方が、捕まえやすい。

 相手の先を読んでしまえばいいわけで、反射的では、こちらも反射的に考えなくてはならず、反応が追いつかないこともあるのだ。

 それに、何かあるのでは、と相手を警戒させる効果もある。ただゆっくり動くだけではしょうがないが、使い方によっては、スピードのある打撃よりもよほど効果のある戦術だ。

 しかし、皮肉なことに、それを綾香も浩之も気付いていたが、これは明らかに、あのバカ、寺町が一試合目で見せた戦術そのままなのだ。

 しかも、寺町は試合前の見せ技で相手を威圧しておくという、ほとんど反則な、そして効果の高い脅しをかけておくという前ふり付きでだ。

 それを頭で考えたのか、経験などで手に入れたのかはわからないが、それでも寺町がかなり格闘センスに恵まれているのは確かだろう。

 まあ、その寺町に快勝したという坂下も坂下だが……

 中谷が対応に戸惑っている間に、浩之は何とか退路をふさぎ、捕まえなくてはいけないのだ。

 だが、中谷もそろそろ……

 試合場の端に追い込まれるような愚を、中谷がするとは思えない。寺町のときのようなプレッシャーもないのだし、中谷は動いてくるだろう。

 そのときが、浩之の正念場だ。

 タンタンタンッ

 リズミカルなステップの音が、ほんの少しだけ重くなった、と浩之は、これこそ反射的に思った。そして、身体が動いていた。

 左半身の浩之の後ろに逃げるように、浩之から見て左に中谷の姿が、残像を残して消えた、と思えるほどのスピードで動いた。

 いや、逃げた。

 いくら中谷でも、身体の向きを変えることを重視したすり足の体勢の相手から脇を逃げ切ることは、おそらく不可能だと浩之は判断していた。

 そして、待ち構えていたように、右手を振り上げ、予測していたように自分の左に逃げようとしていた中谷の方、いや、おそらく中谷がいるであろう方向を向き、腕を振り下ろした。

 ブンッ!

 浩之の脱力した腕は、空を切った。

 やっぱりそうか!

 しかし、浩之はこの結果を、予測していた。というか、望んでいた。

 捕まえ切れないのは重々承知している。中谷のスピードを、浩之は決して甘く見てはいない。

 いや、中谷のスピードなら、打撃をあの左のショートフックではじいて、2、3発入れて逃げることさえできたろう。

 だが、反撃はなかった。浩之の作戦が一つ成功した証拠だ。

 これは浩之自身で考えたことだったが、腕をただ振り下ろすだけだ。拳も握らないし、特別な打撃でもない。

 だが、中谷のショートフックはこれを防げないのだ。

 中谷のショートフックは、相手の打撃の軌道をそらし、直撃を避けるものだ。理にもかなっているし、中谷のスピードのある打撃を有効に活用する、いい方法だ。

 だが、それにも穴がある、と浩之は考えていた。

 それが、この上から腕を振り下ろすだけの打撃だ。

 結論から言ってしまえば、中谷のショートフックは上からの打撃の軌道を変えることはできない。

フックは基本的には、せいぜい肩から顔面までの高低さぐらいでしか打ち分けることができないのだ。普通のパンチであれば、それでも十分に事足りるかもしれないが、浩之の見せた変則の、上からの打撃は、ショートフックの高さには入っていない。

 これならば、中谷がいくら速くとも、懐に飛び込むのは難しい。それだけで、打撃精度の怖さをひとんど消せるのだ。

 しかし、浩之の腕が振り下ろされてから、中谷はおもむろ、というにはいささかスピードがありすぎたが、に浩之の懐に飛び込んだ。

「あ?」

 パパパンッ!

 中谷の左のショートフックの三連打が、浩之の顔面を捉えた。

 

続く

 

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