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最強格闘王女伝説綾香

 

三章・試合(61)

 

 パパパンッ!

 打撃音がほとんど同時に聞こえる中谷の左のショートフックが浩之の横っ面を捉えた。

 そして打撃が入ったと思った瞬間には、中谷は射程範囲外に逃げていた。まさに、驚異的なスピードだ。

 ぐらっと浩之は安定を崩した。

「センパイッ!」

 葵の応援とも悲鳴とも判断つかない声は、しっかりと浩之に届いていた。

「大丈夫よ、葵。浩之にダメージはないわ」

 綾香は冷静に浩之を見ていた。いや、綾香が冷静なのは当然だ。浩之にその作戦を教えたのは、綾香自身なのだから。

「でも……浩之、ちょっと今あの作戦を使うのはあんまりよくないと思うわよ」

 普通の話し声なので、試合をしている浩之には届いていなかったが、浩之本人もそう思っていた。

 まだ早すぎたか。

 浩之は、バランスを崩したように見せかけて、その実まったくダメージを受けてもいないし、バランスも崩していなかった。

 オープニングヒットを許すのは、綾香も仕方がないと言っていたのだ。スピードも打撃の精度も、向こうの方が上なのだから仕方ない。

 どうせ、普通の左フックだけなら、ほとんどダメージはないのだ。だったら、受けてもいいから、相手をおびき出した方が有効、と綾香は判断したのだ。

 それでまず最初に思いついたのは、やられたふりだ。打撃を受けて、バランスを崩したり、ダメージがあったと思えば、当然追い討ちをかけてくる。そこを、反対に狙うという簡単な作戦だ。

 しかし、いくら何でも、それはあまりにも虫が良すぎる作戦だったようだ。中谷は、もう最初から決めていたように、距離を取っている。

 最初だからというのもあるだろうが、中谷自身が、ダメージをほとんど期待していないのではないか、と浩之は思っていた。

 打撃の軽さを補うためのスピード、いや、スピードの為に打撃の威力を殺していると言った方がいいのだろう。あの左右のフック以外は、単なる見せ技なのだろう。

 しかし、そうなると、何故中谷は、役にも立たない打撃を打ってくるのか。それが分からなくなってくる。

 それにしても、確かに、ダメージはほとんどないが、切れるパンチだ。

 ヒリヒリするほほを浩之は手の甲でぬぐった。

 フックを3連打など、無茶なスピードを実現させているだけに、中谷の打撃は非常にスナップの効いたものとなっている。芯に残るダメージはないが、相手をひるませるには十分な威力だし、そのスピードで急所を的確に突かれれば、さすがにダメージは残るし、KOも不可能な話ではなくなってくる。

 問題は、そのウレタンナックルだ。

 正直、中谷の打撃の威力は、そのウレタンナックルが全部吸収してしまう。衝撃はボクシングのグローブと同じで、より強く与えるが、精度という部分では、かなり弱まってしまう。

 これが、もし完全な素手であったら、そして、中谷が拳自体を、素手で戦うために鍛えていたなら、中谷はもっと恐ろしい敵になっていたろう。

 まあ、今でも十分俺には恐ろしい敵だけどな。

 綾香に教えてもらった何個かの戦術と、浩之自身が考え出したほんのわずかの戦術、それに素人同然の実力。これで、目の前を、まさに目に留まらぬ速さで動く中谷を倒さなくてはいけないのだ。難しい仕事だ。

 だからって、逃げるわけにもいかないのが難しいところだよな。

 浩之は、ニッと笑って、左腕を曲げ、肘を前に出すような格好で、自分の左の顔をガードするように構えを変えた。脇が完璧に開いている構えだが、浩之はまったく気にしていない。

 これが、綾香が浩之に教えた戦術の、一番重要なもの。

「ほう……」

 これみよがし、もちろん本人はその自覚はないのだろうが、一際大きな声で寺町が感心した。

「さすがと言うべきか……」

 綾香も、その寺町の態度に感心した。バカであるのは今さらだが、こと格闘技においては、それこそ綾香と同じほどに頭がまわるのかもしれない。

 いや、寺町は、中谷の戦い方をよく知っているのだ。中谷が苦手とする戦い方や、中谷にとっては不利となる相手など、一応理解しているのだろう。

 ということは、ここで寺町が納得するということは、その戦術がそれなりの効果を持つということだ。

 中谷も、その構えを見て、戸惑っている様子だ。自分が苦手とする方法をとられたのを、わざわざ対戦相手に悟られるような態度を取る必要はないと思うのだが、そこはやはり経験不足か。

「あの……綾香さん。センパイの構え、どういう意味があるんですか?」

 葵は、綾香の余裕の表情を見て、訊ねた。葵の経験上、その構えには何ら利点がなく、つまるところ、奇抜な構えには何の効果もないのだ。

「あの構えだと、脇はがら空きだし、左はほとんど打撃に使えませんし、何より左が全部死角になっちゃいませんか?」

「ま、普通の相手ならね。でも、今回の相手には、あの構えは十分効果あるのよ」

 浩之は、その構えのまま、また中谷との距離を縮める。中谷は、それを嫌がっているのか、中々近づいてこようとしない。逃げるのは判定でも非常に立場が悪くなるのだが、それを考えても、中谷はその構えとは対峙したくないようだ。

「とりあえず、見とけば分かるわよ、あの構えの意味も。好恵はどう? あの構えの意味分かる?」

 坂下は話を振られて、難しい顔をして答えた。

「分かるけど……綾香、あんた思い切ったこと藤田にやらせてるね」

「でも、有効でしょ?」

 坂下がその構えの意味に気付いたのは、やはりこれも経験の差としか言えない。だが、意味はわかるとしても、坂下はその構えを取ることを勧めはしなかったろう。

 いくら理にかなっているとは言え、それはあまりにも無謀だ。いや、理にかなっているからと言って、それが全て通用するとは限らないのだ。

 浩之の構えは、確かに理にはかなっている。だが、それはただ一方だけの理だ。むしろ、理にかなっていない部分の方が大きい。

 それをやらせようとする綾香、そして、やる浩之。坂下には理解できない無謀さだ。

 むろん、それで勝さんがあってのことなのだろうが……

 打ち合おうとしない中谷を、浩之は執拗に追いかける。自分の方が有利であると信じているような動きだ。

「中谷っ、手を出せっ!」

 寺町の、その不用意とも思える声に、中谷は反応した。

 

続く

 

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