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最強格闘王女伝説綾香

 

三章・試合(62)

 

「中谷っ、手を出せっ!」

 寺町の、まったく何も考えてないのではと思える怒鳴り声に、律儀にも中谷は従った。しかし、従ったとは言え、そのスピードは相変わらず尋常ではなかった。

 今逃げた、と思ったときには、また距離を縮めているのだ。浩之にはまさに目で追うのが精一杯のスピードでだ。

 スパパパンッ

 左のジャブの四連撃。溜めもなく、止まることのない足を使いながらの、超速の連打だ。

 浩之は、それを何の迷いもなく顔で受ける。

 明らかなクリーンヒットに、場内がわく。それもそうだろう、普通の人間には、あの四連撃はほとんど一瞬のことで、何をしているのかさえ判断がつかないような打撃だ。決まれば終わる、と誰もが思う。

 だが、浩之はそんなことは思っていないし、当の中谷もそんな期待は持っていないようだ。

 パパパンッ

 中谷はさらに浩之の右に回りこみ、今度はフックを三発打つ。

 通常はそれ一つで連打になる打撃ではないフックを、物の見事に三連撃として打ってくるのだ。スピードと、そのスナップの力は恐るべきものがある。

 が、これも、浩之には大したダメージとはなりえない。

 もちろん、まったく効かないわけではなかったし、何より、こうクリーンヒットを許しては、判定になってしまったら非常に浩之の方が不利だ。

 だが、浩之はその覚悟があった。

 綾香も、もともとその戦術を教えたということもあるが、浩之の戦略を否定する気はなかった。むしろ、この戦い方でしか、中谷に勝つのは難しいのだ。

 浩之は、ガードを捨ててカウンターか合い打ちになればと思い、左にまわった中谷に手を出していたが、それは簡単に避けられていた。

 そして、そう思ったときには、小柄でもない中谷の身体は浩之の射程範囲外に逃げ切っている。追撃は不可能だ。

「……ちっ、よく見てるじゃねえか」

 審判に聞こえない程度の声で、浩之は舌打ちをする。

 実際、中谷はよく見ている。相手の反応を見て、それにさらに即座に反応してくるのだ。自分が打撃を打ちながら、相手の打撃をかわすというのは、非常に難しい。だが、中谷はまるで攻撃と防御が別々かのようにそれをこなす。

 高度な、というより、基本の理論でもこれは多いのだが、格闘技の理論には、攻撃と防御を同時に行うというものがある。

 自分がこう動けば相手はこう動く、または相手の攻撃に対して、こうしながらなら防御して攻撃ができる、というのを体系付けて、使えるようにしたものだ。

 攻撃と防御が一緒になれば、単純に二倍動けているのと同じだ。そして、攻撃という、非常に反撃の食らい易い状況を作らないようにすることもできる。

 だが、中谷はまるで反対だ。中谷は、同時にすることを考えているわけではない。両方を別々に切り離せるのだ。

 だから、どんな体勢になろうとも、それが避けれる範囲ならば、自分が攻撃しているのにも関わらず、避けることができる。

 唯一「攻撃」にまわっている腕も、あの速度では、捕まえることはできない。

 よく路上のケンカなどでは相手の打撃の腕をつかむということができるが、こういう試合になると、相手は大振りのパンチなど打ってこないし、何よりも「手元に引く」という動作をほとんどの場合身体にしみこませているので、パンチを捕まえるというのは非常に難しいことなのだ。それが、中谷のような超高速のパンチならなおさらだ。

 隙もない、スピードは異常、さて、この相手、どうやって捕まえるか。

 浩之は、最初から判定を狙っていない。いや、綾香に言われたのだ。判定では、どうやっても浩之に勝ち目はないと。

 試合場で対峙してみて、浩之はつくづくそれが正しいことを思い知らされた。こんなスピードで動く相手に、そもそも判定勝ちなど無理なのだ。

 だったら、浩之としては、KO勝ちを狙うしかない。そのために、浩之は防御を一つを残して捨てているのだ。

 もっとも、この防御さえあれば、まず間違いなく浩之はKOされることはない。その安心感はある。

「やっぱり、あの体勢じゃあ捕まえきれないですよ」

 浩之は蹴りをあまり得意としていないし、スピードのある相手に蹴りは難しいだろう。何せ、浩之の反応よりも速く懐にもぐりこんでくるのだ。

 となると、後はパンチしかなくなる。タックルを決めさせてくれるような相手ではないのは間違いないのだから、それしか手がないようにさえ葵には思えた。

 その場合、両腕が使えないのはきつい。いくら相手にスピードがあって、反応が良くても、手を出し続けていれば、避けれない打撃というのはある。一発二発なら、それも大して意味がないかもしれないが、そういう積み重ねが、チャンスを生むのだ。

 浩之もそうではあるが、あの中谷という選手は、あまり打たれ強そうには見えない。もしかしたら、ボディー一発で形勢逆転、という可能性もあるのだ。ならば、両腕で攻撃した方がいいに決まっている。

「葵の言うことの方が正しいとさえ私も思うけど……あれには、ちゃんと意味があるんだろ?」

 坂下の肩をすくめた言葉に、綾香はうなずいた。

「しっかし、普通、それを考えても実行に移させるか?」

 坂下は葵よりも試合経験は豊富だし、案外物事を理論的に見る術に長けている。だからこそその浩之の、完全に自分の左を封じる、それどころか死角を作る構えの意味をわかったのだが、少なくとも、零からでは思いつかない内容だ。あくまで、その構えの意味を考えて出てくる答えでしかない。

「でも、あの中谷ってのもよくわかってるじゃない。いや、そうしかできなかったのかな。葵、何で中谷は浩之の死角である左にまわらなかったと思う?」

「そう言えば……」

 今までの中谷の動きから見れば、左だろうが右だろうが前だろうが後ろだろうが、そのスピードは衰えることを知らない。わざわざ死角の左を避けて、右に回りこむ必要はなかったはずだ。

「左に回れば、脇にパンチを打ち放題。でも、中谷はそれをしなかった。よくわかってるわね、向こうも。それが自分にとって、不利だってことを」

 中谷が、けん制なのか、浩之のまわりを距離を取って動いている。しかし、それは隙をうかがっているというよりも、攻めあぐねているようにさえ見えた。

「中谷がいくらパンチ力がなくても、何度も直撃を受けてればそれなりにダメージは蓄積されるわ。でも、あの構えなら、ダメージを最小限にとどめれる。浩之は、安心してKO狙いに集中できるってわけよ。何より、浩之がKOされることは、まずありえない」

「でも、あの左右のフックを受けたら……」

 中谷は、意を決したように、浩之の懐に飛び込んだ。浩之は、それに合わせて右を打つ。しかし、その程度のスピードでは、左のショートフックに弾かれるのは目に見えていた。

「というより、中谷は、左右のフックを打つこと自体ができないのよ」

 カカガッ!

 それを合図にするように、浩之の右ジャブを弾きながら、中谷の左右のフックが放たれた。

 

続く

 

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