「あれ逃げられちまうんだからなあ、こまったもんだぜ」
浩之は、肩で息をしながら、苦笑した。
「いいから、今は息を整えるのよ」
中谷のスピードに、待ちながらでも付いていっていたのだ。浩之もかなり息があがっているはずだ。
浩之の体力は、修治にずっと鍛えられていたおかげでかなりあるが、試合の疲労というものはまた違った疲労を生む。ダメージも、まったくないとは言い切れないだろう。
綾香は用意しておいた氷水で浩之の右の顔を冷やす。
「おい、つめたいって」
「贅沢言わないの。中谷のパンチは威力はないかもしれないけど、かなりスナップが効いてるでしょ。ちゃんと冷やしておかないとはれるわよ」
浩之は、作戦とは言え、中谷のパンチを受け過ぎている。ちゃんとした処理を施してやらないと、顔がはれあがって、右目の視界が悪くなる可能性もある。そうなるともう中谷を捕まえるのは、ほぼ不可能だ。
「しかし、セコンドまで頼んだつもりはないんだけどな」
綾香の顔を知らなければ、かわいい女の子にセコンドについてもらっていると見え、綾香の顔を知っていれば、あのエクストリームチャンプをセコンドに持っていると見られるのだ。浩之はかなり目立っていた。
もっとも、今さらそんなこを気にしても、最初から目立っていたのだから、関係はないという話もあるが……
「で、どう? 戦ってみて」
浩之の疲労が大したことがないと判断したのか、作戦を練っておかなければならないと判断したのか、綾香は自分が黙れと言っておいてから、話しかけた。
「そうだな……速いな。目の前にいると、まるで消えたように見えるぜ」
「追いつけそう?」
「言うまでもなく、足で追いつくってのは、無理だな」
浩之とは次元の違うスピードだ。いくら綾香や葵、坂下のような、スピードを生かしてくる強い選手とずっと練習してきたとは言え、浩之のスピードが劇的に速いわけではないのだ。
しかし、その練習がなければ、一度でも中谷を捕まえられなかったのも真実。あればあるからこそ、浩之は一発を入れるのを成功させることができたのだ。
「じゃあ、捕まえるのは?」
「さっき見たとおり、逃げられたよ」
何も、スピードに対抗できるのは足だけではない。強引な攻めや、練られた戦術などによって、捕まえる一歩手前までは行けたのだ。
少なくとも、一撃を入れれる隙を作れたのは大きい。浩之の実力が、中谷に勝てないことはないのを証明してみせたようなものだ。
「しっかし、中谷は一体、何を思って左だけ使ってくるんだろうな。左はほとんどダメージを当てれないのは知ってるだろうに」
実際、そういう場面もあった。中谷は完全に逃げるつもりで左を使っている。相手をひるませることさえほとんどできない打撃では、いくら自分のスピードに自信があっても、使うだけ無駄のような気さえした。
だいたい、それだけの打撃精度があるなら、最初から左右のフックを狙っていった方がいい。浩之のように、それだけを警戒した構えまで取られると困るが、それでなければ、充分に初撃でKOを狙えるはずだ。
「まあ、意味がないわけじゃないわよ。威力はなくても、相手を出血させたり、顔をはらせて視界を殺したり、色々できるから。それに、多分、あの左だけのパンチを何度か打ってないと、左右のフックが使えないんだと思うわ」
「何で?」
「左のパンチは、距離を測っているのよ」
「……ああ、なるほどな」
浩之は綾香の説明で納得した。
中谷は、空手というよりは、ボクシングに近い。ボクシングにもあるのだが、手を出して、距離を測るということを行っているのだと推測できるのだ。
殴って当たるかなど、見たらわかると素人は言うだろうが、何もパンチはただ当てただけでいいというわけにはいかない。特に速いパンチというのは、インパクトの瞬間以外は、拳に力を入れないのだ。反対に、当たる瞬間に拳に力を入れていないと、ダメージも弱い。
中谷の左は、ほとんど拳には力が入っていないと思われる。そのかわり、手首のスナップは極限までに利かせ、あのスピードを実現しているのだ。
そうやって、何度か丁寧に距離を測り、相手との間合いを完璧にしてから、狙った、今度は拳に力を入れたパンチを2発、入れるのだ。左右に振り分けることで、左の拳に力が入って遅くなるのもカバーして、しかも距離を測って打撃精度をより上げた状態での左右のフックだ。
「何か、余計高等技術のような気もするけどな」
「そんなことはないわよ。向こうも、自分の打撃に威力がないのを知っていて、それを一番有効に扱える方法を選んでいるんだから」
もっとも、綾香なら、もっと打撃の威力の上がる練習をさせる。浩之がある程度抵抗できているように、その技には穴が多い。
しかも、綾香の作戦は、まだ全部出し切れているわけではないのだ。中谷を追い詰め、倒す方法はまだまだある。
安定とはほど遠い戦術なのだ、中谷の戦い方は。だが、もちろん、より強い者でも、スピードさえ上なら倒せる可能性もあるのだが。
それに何より、中谷の対峙している相手は、綾香の期待を裏切ったことは、今まで一度もない、天才なのだ。
「大丈夫、浩之なら、やれるわよ」
綾香は、確信を持って、嬉しそうに微笑んだ。自分に向ける笑顔が、浩之にはまずしかった。
「……ああ、綾香の言葉を、信じるしかないだろうけどな」
浩之は、一分のインターバルの時間が過ぎるのを、少し残念に思いながら、息を整えた。
「それに、まだ綾香に教えてもらったことを、全部出したわけでもないしな。見てろよ、次は向こうをあっと言わせてやるからな」
「頼むわよ、さっきはこっちがはらはらしてるんだから」
KOされることはまずなくとも、勝てない可能性は、作戦を一つやぶられるごとに増えていくのだ。浩之の地力に頼っても、綾香はそれでいいのだが、浩之の今のスペックでは、勝てないことの方が多いだろう。
まだ、浩之は自分を活かせるだけの経験がないのだ。綾香としては、浩之にはもっと多くの経験をして欲しいのだ。それは、負けることによっても手には入るが、どうせなら勝ってくれた方が、綾香も嬉しい。
「両者、もとの位置へっ!」
審判の言葉に、浩之は立ち上がった。
「がんばってね、浩之」
「まかせとけ。とりあえず、もうちょっとだけあがいてやるさ」
そういう浩之の表情は、少なくとも自信がなさそうには見えなかった。
続く