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最強格闘王女伝説綾香

 

三章・試合(69)

 

 距離を取った中谷が素早くまわりを見渡したのを見た。

 おそらく、今の空間を把握しているのだ。後ろもまだ十分空いているし、左右も同じ。逃げることは十分にできるとふんだのだろう。

 だが、浩之は逃がす気はなかった。

 すでにダメージを受けた中谷のスピードは自分とそう大差はない。五分と五分、まさにその瞬間が、勝負を決めるためにのこされた唯一のチャンスだ。

 浩之の左に避けようとしている中谷に合わせて、浩之は動く。すでに浩之は左のガードをダウンを取られてからはしていないが、それでも左半身に構える浩之の死角に入ろうとしているのだ。

 つまり、中谷は拳、特に右の拳を警戒している。浩之はそう判断した。左半身では、確かに左にまわればパンチは封じられるが、反対に右のキックは、助走距離を得てよりスピードののったものとなる。キックを警戒するなら、むしろ右に回りこんで向き合うようにするはずだ。

 まさに、ここまで全てチャンス。さっきの掌打も、中谷の読みも、そして、綾香が教えた最後の秘策も、全てがそろった。

 次の一撃が、浩之の勝敗を決める。

 浩之は素早く構えを右半身にチェンジする。中谷は、それに反応してすぐに右に回り込もうとする。

 浩之は、腕を引きつけた。完全に中谷が右に逃げる前に、中谷の顔面を狙って、裏拳ぎみの右の拳を繰り出した。

 拳を警戒していた中谷は、浩之の右拳をはじく。

 ドウッ!

「かっ……!」

 中谷の身体が、くの字に折れ曲がる。鳩尾を押さえて、中谷は身をかがめた。

 バシッ!

 隙だらけの中谷のテンプルを、浩之の渾身の右のフックが捉えた。それが効いたのかさえ無視して、浩之は左手で中谷の肩をつかむ。そして右腕で中谷の首を引き込む。

 ゴスッ!

 浩之の膝が、中谷の顔面に決まった。

 中谷の、膝が折れた。中谷はそのままマットの上に崩れ落ちた。

 崩れ落ちた中谷の腕に、浩之は腕をからめた。このまま仰向けに倒してしまえば、勝敗は決まる。

「ブレイク!」

 しかし、中谷を仰向けにひっくり返すよりも早く、審判が浩之を止めた。

 ぐったりとして動かない中谷に、審判がかけよる。それと入れ替わるように、浩之は中谷から離れた。

 観客がざわつく中、浩之は目をつむって呼吸を整えていた。ダメージはかなり抜けてきたが、息が荒い。やはり、身体には相当無理がきているようだった。これ以上試合が長引けば、不利になったのは自分かもしれない。

 いや、まだ試合は終わっていないのだ。まだ「勝者」という言葉を聞いていない。

 しかし、浩之の左拳も、右拳も、左膝も、全部が手ごたえを感じていた。むしろ、今まで経験したことのないような手ごたえだ。サンドバックを殴るのとは違う、人に致命的なダメージを与えた感触。

 そして、その様子を見ている葵達も、息をのんでいた。

「さっきのは……」

 丁度横から見るような体勢であったので、さっきの浩之の第一撃目が何だったのか、葵達はその正体を知っていた。

 いや、綾香の最後にしてみれば、単に最後の秘策を、本当に最後の最後で浩之が活用しただけなのだが。

「あれが、私が浩之にしたアドバイスの最後」

「……山突きね」

 坂下がどこか神妙な顔で口にした技は、葵や坂下にとってみれば、慣れ親しんだ空手の技だった。

「片方の拳で顔面を狙い、相手がそれを受けたところでほとんど同時に突き出される下段突き。いかにガードがうまくても、あれはそう簡単には避けきれないわよ」

 もっとも、山突き単体では、中谷には避けられていたかもしれない。それに、左腕はいつもガードに使わなければならなかった。普通の状態では無理だったろう。

 しかし、浩之の放った、フィニッシュまでの間の、チャンスを作った右掌打。あれのおかげで、山突きはもっとも効率良く作用した。

 それまでも浩之のキックは大した効果をあげていなかった。そこに、右の掌打が自分のガードを超えて当たったのだ。それが偶然であっても、中谷は掌打や拳を警戒するだろう。特に、その右拳を。

 そうして右拳に相手の神経を集中させておいて、右の裏拳のようなパンチ。またあれがよかった。中谷はどういう戦いをしようと空手家であり、山突きを知っていてもおかしくなかった。だが、普通の山突きは正拳突きだ。まさか裏拳で来るとは思っていなかったろう。

 そこに、ほぼ同時に突き出される左の拳。避けきれるわけがない。

 中谷をくの字に折れ曲がらせたのは、その左の鳩尾へのパンチだった。意識が顔面に向いているせいで、腹筋にもほとんど力が入っていなかったはずだ。これは効くだろう。

 その後の連打は、むしろその結果でしかない。あの山突きを当てたことが、浩之に勝利を呼び込んだのだ。

 が、まだ試合は、浩之が考えたように、終わっていない。

「ファイブ、シックス」

 カウントは進むが、さっきにもまして観客がざわつきだした。それもそうだ。おそらく、立つことさえ難しいだけのダメージを受けたはずの中谷が、立ち上がろうとしているのだ。

「あれで、立つ……?」

 葵が驚いた声をあげる。勝負は決まったとばかり思っていたのだ。

「よし、中谷、根性だ!」

 坂下も中谷に声援を送る。もう立ち上がるのも無理だろうダメージを受けているのは坂下も知ってはいたが、それでも応援せずにはおれなかったのだろう。

 ……立つなよ、お願いだから。

 そう心の中でまったく反対の声援を送っているのは、浩之だった。

 もう、立たれたら自分には手がない。ダメージが向こうの方が多いので、逃げ切ることができるかも、その程度だ。

 やはり、実力の差は大きい。それを埋めるのが、偶然当たった掌打だったのが泣けてくるが、もう一度偶然が起こるとは、さすがの楽天家の浩之も、考えていない。

「セブン、エイト……」

 たかが10秒、しかし、それは浩之にとっては何よりも長い時間だ。もし立ち上がってこられたら、自分は負ける。

「ナイン」

 浩之は、中谷を構えたまま睨みつけていた。立ち上がられたら負けると、心は思っているのに、身体はその言うことを聞いていないように、中谷と戦おうとしている。

 ……立ち上がって来たら、また戦うまでだ。

 俺は、負ける気なんてさらさらない。

 心の中さえ、浩之が思っているのとは違うことを言ってきだした。それは、自信というより、やけにしか浩之には思えなかった。

 いいから、さっさと一秒立ちやがれ。

 中谷は、中腰までになって、腕を持ち上げていた。

 だが、そこまでだった。

「テン!」

 審判は、その言葉と共に、バッと手をあげた。

「勝者、藤田選手っ!」

 わっと観客が沸きあがり、勝者の浩之と、敗者であっても素晴らしい試合をした中谷に、惜しみない拍手が送られる。それだけいい試合だったのだ。まさに息を呑むとはこのことだ。

 だが、どれだけ拍手がわこうと、浩之はどうでもよかった。耳には、まったくそんな音は入ってこなかったし、入っていたとしても、今は無視だ。

 とりあえず、休ませてくれ。

 劇的なKO勝利をもぎ取ったわりには、浩之はもうやる気のないいつもの浩之に戻っていた。さすがに、全力を出して心身共に疲れきってしまったのだ。

 構えた腕を思い出したように落とし、浩之はふらふらとしながら綾香達の方に近づいた。

 

続く

 

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