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最強格闘王女伝説綾香

 

三章・試合(76)

 

 相手は、素早く左足から踏み込んできた。

 肩の開きから見て、おそらくフックだろうが、これも寺町から見れば大して速くもない打撃だ。

 さっきまで組み技を狙っていたところに、いきなり打撃。確かに、フェイントとしては成り立つが、そんなに冴えたやり方でもない。言わば普通のフェイントだ。

 寺町は、案の定それを後ろに下がって軽く避ける。

 ブンッ!

 大振りの右のフックが、空を切った。

 しかし、相手もなかなかのものだ。すぐに切り返して一歩踏み込み、左のフックにつなげる。中谷のような高速フックと比べると見劣りするのは確かだが、それでもよく鍛錬された動きだ。

 だが、それは寺町にとってみれば、大した動きではないことにもつながる。少しぐらい良い動きをしたところで、寺町を捉まえることなど、いや、もし捉まえたとしても、有効打にはなりえない。

 浩之は、てっきり相手の左フックが、空を切るものとばかり、いや、この会場の誰もがそう思ったろう、その左フックを打った本人以外は。

 バシィッ!

 渾身の左フックが、寺町の顔面を捉えていた。

「っ!」

 一瞬の出来事に、観ている者も騒然となった。

 ガクッと寺町の足が落ちる。と同時に、相手はタックルを仕掛けていた。

 ダメージを受けながらも、寺町は腰を落としてタックルを止める。だが、その動きはかなりおぼつかない。

 左フックの直撃を受けた状態であっても、とっさにタックルに腰を落として耐えたのは賞賛に値するが、どういう経緯で寺町の顔面に左フックが入ったのか、浩之にはまったくわからなかった。浩之が見た限り、相手の放ったのは、フェイントも何もない、単なるタックルだったのだ。

 解説を求めようと、綾香を見ると、綾香は目を細め、そして驚くほどに殺気を帯びていた。

「浩之、対戦表」

「あ、ああ」

 あまりの眼力に、浩之は言われた通りに、対戦表を綾香に渡す。綾香は、今の相手の名前を見ているようだ。

「後藤……勇一ね」

 綾香の殺気は、すでにまわりで観戦している選手にまで伝わっていた。おそらく、並の度胸ではない者があつまっているこの場所においてさえ、何度か温度が下がったような気さえした。

「前言撤回、面白そうな相手じゃない」

 全然面白そうに思えません、その殺気では。

 浩之は、冷や汗をたらしながら、綾香の壮絶な冷たい表情から目をそらした。すると、葵も何故かかなり難しい、いや、見たことのないような表情をしている。

「……葵ちゃん?」

「は、はい、何ですか?」

 浩之が話しかけてくるのに反応が遅れたのは、綾香の殺気を怖がっていたからではなさそうだった。むしろ、葵自身にも殺気が走っているような錯覚さえ覚えた。

「どうしたの、そんな難しい顔して?」

「はい、あれは……もしかして……」

「ん?」

 さっきの、浩之には何が起こったのかわからなかった左フック。葵がそんな表情をするところを見ると、やはりかなり凄い技だったのかもしれない。

 しかし、葵の表情は、凄い技を見たという喜びは少しも見受けられなかった。心の底から困ったような顔をして、綾香の方に助けの視線を送る。

 綾香は、やはり瞳に殺気を残したまま、うなづいた。

「多分、間違いないわね」

「……で、何が間違いないんだよ」

 浩之が聞くと、綾香は声をひそめた。

「さっきの、踏んでるわ」

「……はあ?」

 綾香の言葉が何を意味しているのか

、浩之にはわからなかった。その言葉と、さっきの左フックが結びつかないのだ。

「寺町の足を踏んだのよ、あいつ」

「……おい、ちょっと待て、それって……」

 浩之も声をひそめた。

「地区大会だと、審判は一人。しかも、審判の視線から外れるように踏んでたから、寺町が抗議しない限り、ばれないわ。あれが何をやったのかわかる選手なんてそう多くないし、多分、審判で好恵や中谷からも死角だった」

「……完璧に、狙ったってわけか」

 それで浩之は理解した。相手が何故笑ったのかを。それこそ、本当に完璧に狙った反則だったのだ。

 しかし、抗議するべき寺町は、タックルに捉えられて、倒されないようにしているのが精一杯だ。何より、さっきの左フックが効いているだろうから、論理的に物を考えるなどできないだろう。

「だったら、俺達が抗議すれば……」

「無駄よ、試合を止めれるのは審判だけ。それに審判はさっきのに気付いていない。ここで止めたら、証拠なんてないから、下手すれば寺町の不利な状態から試合再開、とかなりかねないわ」

「てことは、見過ごすってのかよ?」

「そうなるわね。気付いてる人間なんて、少ししかいないし……北条のおじ様は、気付いてても止めるような人じゃないしね」

 誰にも気付かれていないのなら、それも有効打だ。北条鬼一のような徹底したケンカ好きは、止めるような無粋なまねはすまい。

 浩之が北条鬼一に目をやると、確かに、どこか嬉しそうに寺町の試合を見ている。その顔は、間違いなく気付いていて、しかも「なかなか面白いことをするじゃないか」と感心さえしているように見えた。

 相手を自分の実力でどうこうできないことがわかったならば、トリッキーな手を使うしかなくなるのはわかる。反則ではあるが、足をふめば相手は逃げれなくなるし、下手をすれば脚を痛める可能性もある。かなり勝ち易くなるのは確かだ。

 反則にされているのは当然。それを使えれば、余裕で相手を倒すことができるのだ。それに、怪我をする可能性もぐんと上がる。こんな、一応は健全な試合では、絶対に使ってはいけない部類の反則だ。

 それを、狙って使った、勝つためにだ。

 浩之には納得できなかった。勝つためには、何をしても許されるというのだろうか。少なくとも、浩之はそんな手で勝っても嬉しくも何ともない。

 綾香も、その意見には賛成なのだろう。その殺気が物語っている。下手をすれば、試合が終わったら、この反則使いの後藤勇一を、血祭りにあげかねない殺気だ。

「かなりダーティーな戦い方ね。あの年で、あんなことができるなんて……本当、面白そうな相手じゃない」

 綾香の皮肉を合図にするように、何とか今まで耐えていたのだが、とうとう寺町は脚を取られ、倒れた。

「負けるな、寺町!」

 浩之は、次の自分の試合のことも忘れて、寺町を応援していた。

 

続く

 

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