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最強格闘王女伝説綾香

 

三章・試合(85)

 

 桃矢の試合が始まって、観客からもれたのは、失笑だった。

 両腕を、脇をあけて大きく上に構える構え。それは、まったく理にかなっていない構えだ。

 突きにも、蹴りにも、組み技にも適さない構え。守りにさえ適していない。それは、構えとしての意味をなしていなかった。

 それでも、桃矢はそれをどこか誇らしげに構えた。その構えに意味はなくとも、そう構えること自体に意味はある、とでも言わんばかりに。

 だが、その構えは、単なる張子。それは一回戦ですでに証明されている。

 いかに、その構えが、鬼の拳を形どっていても、こけおどしにしか見えない。

 北条鬼一の名前は、エクストリームに出るような選手にとっては絶大だ。異種格闘技戦と言う、格闘家にとってみれば鬼門のような世界に、おそらく日本人として初めて手を出し、勝ち続けてきた伝説の格闘家。

 しかし、その恩恵にあやかれるのは、息子である北条桃矢であっても、一度きりだ。一度見せてしまったそれは、何の効果もない。

 ない、はずだ。北条桃矢に対峙している相手もそう思っているはずだ。それは張子で、意味などない、はずだと。

「……なあ、綾香。北条桃矢が鬼の拳を使ったのを見たことはないんだろ?」

「ええ、ないわ」

 もし、北条桃矢が鬼の拳を使えるなら、綾香はもう少し態度を緩和させているだろう。北条桃矢は、格闘選手として強いが、それだけの選手だ。

「でも、これからも使わないと言った覚えはないわね」

 ほんの少しだけ、綾香が感心したような目で桃矢を見た。

「綾香がそう言うなら……俺の目も腐っちゃいないってことだな」

 対戦相手は思っているはずだ。こけおどしだ、と。

 こけおどしのはずだ、と。

 北条桃矢が歩を進めるわけでもないのに、相手はじりじりと後ろに下がっている。打撃の届く距離では、少なくとも普通の人間なら届く距離ではない。

 気押されているのだ、北条桃矢の迫力に。

 その上に構えられた両の拳が、相手を下がらせているのだ。

 失笑は、消えている。もう、敏感な浩之の目を必要とせずとも、伝わるまでにそれははっきりとしていた。

 一回戦、桃矢はいきなりに裏技的な技を使わされた。本当なら本戦で、どうしようもなくなったときに使いたかったフェイントだが、それでも、あのときがまさに使うべき瞬間だと理解して、まったく出し惜しみしなかったのは賞賛に値する。

 それを観て、誰もが思った。桃矢の鬼の拳は、張子の虎だと。

 しかし、両の拳を上で構えるその姿に、それが間違いではなかったのかという思いに、観ている者のほとんどがなっていた。

 大きく息を吐く桃矢は、まさに仁王立ちする鬼神のようだ。

 トンッ

 桃矢は、一歩小さく前に出た。その拳の迫力に比べれば、かわいいほどに軽くだ。

 それだけで、対戦相手は身を縮ませた。逃げたのではなく、縮ませたのだ。それは、もしその瞬間に打撃を放っていれば、倒せたタイミングだ。

 だが、そこからでは桃矢の拳は届かないし、何より、桃矢はまったくその隙を気にした様子はなかった。

 試合の機微というのは重要なことだ。あの寺町さえ、打ち下ろしの正拳突きを当てるまでは、それを最大限に生かしている。

 だが、今の桃矢は、それをまるで無視して、拳を構えていた。

 そして、何の工夫もなく歩を進める。

 稚拙な動きだ。おそらく、今の桃矢の動きならば、対戦相手にとってみれば、余裕の相手だ。

 その迫力に押されながらも、対戦相手は様子を見るため、ジャブを打つために、恐る恐る、もちろんかなりの速度でだが、桃矢のその腕の射程範囲に入った。

 おそらく、浩之は予想した。次のジャブは気のないジャブだ。当たったところで、桃矢にはまったくダメージなど当たらないだろう。

 大して意味のある打撃ではないが、様子を見て戦わないと怖いのだろう。それは異種格闘技という特殊な場所であること以上に、今の桃矢が怖いからだ。

 ドカッ!

 ジャブと言うには、あまりにも鈍い音を立てて、対戦相手の腕が弾かれていた。

 あわてて、対戦相手は距離を取る。最初から逃げ腰だったので、それは簡単だったし、桃矢は追い討ちさえかけなかった。

 そのダメージもなかったろう攻防に、しかし、試合場の人間は注目した。

 左のジャブを、左の打ち下ろしの正拳で、中谷のショートフックと同じようにはじいたのだ。いや、はじいたなどと言う生ぬるいものではない。

 まさに、打ち払ったのだ。打撃の方向をそらすような、軽いものではない。ほとんど肩ごと外に弾き飛ばした。

 おそらく、浩之はもちろん、他の選手も、その左の腕がそこになければ、何をしたかさえもわからなかったろう。それほどに速い打撃だった。

 その構えられた場所から、一直線に目標に向かう打ち下ろしの正拳。鬼の拳と言われるに相応しい、格闘技の不意条理のような一撃だ。

「あんな芸当までできるのか」

 というより、それぐらいの芸当は、桃矢の実力と、対戦相手との差を考えれば、まったくできないことではないだろうというのは理解できる。

 そう、桃矢は、そんなことをしなくてもどうでもできるはずだ。中谷がショートフックで相手の打撃を捉えていたのは、自分のディフェンスを完璧にすることと、相手に打撃を当てるための隙を作るためだ。

 だが、桃矢には、そんなわざわざ難易度の高い行動をとる必要はない。いつもの動きで、十分捉えられるし、むしろそちらの方が確実のはずだ。

 意味のない芸当。浩之はそう評価した。

「意味ないって思ってるみたいね」

 それを読んだのか、綾香がそう訊ねてくる。

「じゃあ、あの行為に意味あるのか?」

「ないわ」

 綾香は即答した。が、後に付け加える。

「少なくとも、対戦相手や、私達にはね」

「何だそりゃ」

「私や浩之には意味ないし、対峙してる対戦相手にとってみれば、有利になれこそすれ、多分損にはならないわよ」

 無意味どころか、有害でさえある行為、綾香はそう言っているように聞こえる。

「なら、何でわざわざあんなことやってるんだ?」

「決まってるじゃない。私や浩之には関係なくても、他の選手や、北条桃矢本人には意味のあることなのよ」

 自分が、鬼の拳を使えること。それだけで、試合に勝てること。

 それを証明するためには、桃矢は多少の不利さえ無視する。それだけ、桃矢は強い。そして、それ以上に。

 桃矢は、また一歩距離を縮めた。

 その拳は、十二分に意味を持つ。

 

続く

 

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