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最強格闘王女伝説綾香

 

三章・試合(88)

 

 英輔の準備は万端だった。

 格闘技は、瞬間的な運動。つまり急に激しい運動をすることが主眼となる。

 当然、ストレッチや準備運動で身体を温めるのは当然のことだ。でなければ、どんな鍛えられた人間でも、怪我をする可能性は格段に上がる。

 時間をかけて柔軟をし、軽く汗が出るほどに準備運動をしている。特に試合間隔が空くと身体が冷えやすい。

 スポーツマンである英輔は、その点においてはぬかりない。相手に怪我をさせられるなら仕方ないが、自分の動きで怪我をする可能性は皆無だろう。

 しかし、その準備ができていないだけで、何と怪我を多くなることか。練習中に身体を痛めたというプロスポーツ選手の多くの原因は、準備運動の不足なのだ。

 それはともかく、柔道着を着た英輔の準備は終わっていた。もうすぐ試合が始まるというのに、英輔の表情は穏やかだった。

 いや、それはまわりから何気なく見たときだ。よく観察すれば、その目の闘志は消せていない。

「次の英輔さんの相手、どんな選手なんですか?」

 実を言うと、葵は英輔が勝ったのを喜んで、次に英輔と戦うであろう選手を確認していなかったのだ。浩之の場合はちゃんと確認しているので、えこひいきなのだが、それを英輔以下安部道場の者が知るわけもないし、それぐらいで英輔が文句を言うこともなかろう。

「見たところ、キックか、それに近い選手だと思うよ。一回戦も、1ラウンドKOだったしね。名前は……」

「えーと、絵志満(えしみつる)だって」

 美紀が対戦表を見ながら言う。

 キックというのは、キックボクシングのことだ。簡単に言えば、パンチとキックのある打撃系の格闘技だ。ムエタイに近い感覚もあるが、基本的に肘が許されていないので、違う種類の格闘技だ。

 このエクストリームの打撃系の格闘家はキックボクシングの選手は多い。

 組み技こそないが、打撃のルールに関して言えば、キックボクシングはエクストリームのルールにぴったり当てはまるのだ。

 ルールの利、というのは、実は大きい。

 格闘界で一世を風靡したグレイシー柔術という格闘技があるが、グレイシー柔術は確かに強い。実際、有名になり出したころは誰も勝てなかった。

 しかし、それはもちろんグレイシー柔術の強さを証明することになったが、勝ってきた大きな要因は、ルールだ。

 グレイシー柔術は、基本的には何でもありと思われているが、何でもありではない。それしかないのだ。

 自分のところの、グレイシー柔術のルールに、ひどくこだわるのだ。

 それは伝統とか、そういう部類のものではなく、単純に勝つため。

 柔道家が空手をやって勝てるわけがないように、その格闘技の特色を一番有効に使いやすいルールというものは決まっている。

 グレイシー柔術が強かったのは、自分に有利な、つまり自分達が一番戦いやすいルール、それが他の格闘技と比べて何でもありに近かったにすぎないのだ。

 そして、エクストリームは打撃に関して言えば、肘を禁止しているし、倒れた相手への打撃も禁止している。

 それは確かに打撃格闘技には不利な条件ではあるが、こと打撃だけ、に限れば、キックボクシングにはルールの利がある。

 まあ、ルールの利があったとしても、1ラウンドKOをしてくるような選手が弱いとは思えなかったが、打撃のルールに関して言えば、あちらが有利ということだ。

 もっとも、英輔はその黒帯と道着が示すように、組み技という利を持って戦うことができるのだが。

「強そうな相手だね。組むにしても、素直に組ませてくれるような相手ではなさそうだったし、楽勝、とは言えないだろうね」

 組み技の選手がエクストリームで打撃系の選手に勝つにはどうすればいいのか。簡単だ、相手を寝転ばせてしまえば、勝ちは決まったも同然だ。

 しかも、真面目に、それこそ生活の全てを格闘技にかけているような人間が、「1、2発もらってもいい」という覚悟でタックルをかけてきたら、打撃でつぶすのは非常に難しい。

 綾香ほどの、理とかそういうものを無視するような怪物ならまだしも、一般人、というにはいささか強いのだが、英輔では、理に頼るしかないのだ。

 受けてもいいというなら、英輔は、その点有利だ。

 決して打たれ強い方ではなかろうし、どちらかと言うと細身の身体だ。一度ダメージを受ければ弱いかもしれない。

 だが、英輔には、精神論に走るのはどうかと思うが、ガッツがある。その目の奥で、消しきれない闘志がある。

 「1、2発」などという生易しい覚悟ではないはずだ。

 おそらく、「何発受けてでも」捉まえて、倒す。

 倒した後の組み技に、絶対の自信がなければできない戦法かもしれないし、英輔が実のところそこまで自分の組み技に自信を持っているのかも葵にはわからない。一回戦では打撃も見せたのだ。それは、単に捕まえるための方法ではあったが、不慣れな打撃をあそこまで使えるようにするには、組み技だけでは勝てないのではないかと言う不安もはあったはずだ。

 だが、英輔はそれでも捉まえ、倒すだろう。

 勝つためにはそれしかないのだし、英輔は自信とかそういうもので動いている人種ではないのだ。

 そこは葵とは違う人種。

 葵は、何度も練習した技を、性格は怖がりで臆病ではあっても、「自信」として戦う。

 英輔や、おそらく浩之は、葵とは違う種類の人間なのだ。

 自信を必要としない、自信に頼らずとも、戦える人間だ。それを一般的には変人というのか、天才というのか、強者というのか、葵は知らないが。

「さて、じゃあ、がんばってくるよ。藤田君とも戦ってみたいしね」

 真実、優勝戦に出るという宣言だが、それも、強がりかも知れない。それでも、強がってでも、それを本心として言える、それが英輔の恐ろしいところだ。

 英輔の闘志は、実力さえゆがめ、おそらく、英輔は勝つだろう。そういう人間だ。それを人は天才というし、そんな言葉で片付けられるような甘い人間でもないのだ。

「がんばってくださいね、英輔さん」

 葵は心から応援した。浩之と、英輔の戦う姿が、本当に見たいと思った。

 二人の天才の戦い。それはどれほど、葵の血を沸き立たせてくれるだろうか。

 温和な、そして消えない闘志を持って、英輔は試合場に出た。

 

続く

 

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