英輔が試合場についたときには、すでに相手の選手は試合場に立っていた。
対戦相手、絵志満は背はそう大きくないし、痩せ型なので、英輔とあまり変わらない体格だ。
だが、その上半身裸の身体は、鍛え抜かれていた。一片の脂肪もないのではないかと思えるほどの細く、鋭い身体だ。
しかし、だからと言って強いかどうかはわからない。脂肪というのは、防御力や体力に非常に密接な関係を持っているのだ。
脂肪はただつけていれば、重しにしかならない。何キロもの重りを持って戦っているようなものだ。
だから基本的には格闘家は身体の脂肪を削る。それだけで、スピードは格段に上がるのだ。特に打撃格闘技の人間は、減量をかかさない。
だが反対に、脂肪は身体を守る防護でもある。脂肪があるのとないのでは、ダメージの受け方も怪我の仕方も、これまた格段に違う。それに風邪などの病気も、まったく脂肪がないのとあるのとでは、ある方がかかり難い。
一番理想なのは、動きを阻害しない程度の脂肪をつけることだ。明確な境界線があるわけではないが、その線に向かって身体を鍛えるのが、一番効率が良い。
そういう意味では、絵志は脂肪を削りすぎていた。おそらくスピードのために脂肪を犠牲にしたのだろう。
しかし、それを言うと英輔も細い。身体は鍛えられていて、ほとんど脂肪などついていないのだ。これは柔道に階級がある以上、超重量級以外では仕方ないことなのかもしれない。
だが、それはともかく、体格のあまり恵まれていない二人が二回戦に進んでいるのだ。間違いなく、この二人は強い。
「では位置について」
審判の合図に、二人は開始位置につく。どちらも準備は万端のように葵には見えた。
「英輔さん、がんばって!」
「負けるなよ〜」
安部道場の面々から、応援の声が英輔に届く。このいかつい人間の集まりの中ではかなり女の子の比率が多く、少なくともその一面だけは、相手に勝っていた。もっとも、それが何の役に立つのかはわからないが。
いや、応援というのは、素直に嬉しい。葵はそう思う。自分が浩之に応援されて坂下に勝てたように、自分の応援で、ほんの少しでも役に立つことはある、と葵は思っていた。
役に立たなくとも、少なくとも自分は応援されれば嬉しかった。それは、力となるかもしれない。だめもとでも、応援するべきなのだ。
だから、葵も声を張り上げた。
「英輔さん、ファイトッ!」
ちょっと振り返ってにっこりと笑ったのが見えた。安部道場の面々は影の方でこそこそと話をしているが、葵は気にしなかった。
「さすが、英輔さんには葵ちゃんが効くよね」
「まったくだ」
おそらく、安部道場の面々のこんな会話もわかっているのだろうが、英輔は相手の方を向いた。もう、気を抜く時間はないのだ。
「レディー」
英輔が腕を前に出して構える。絵志は英輔とは反対に、腕を引いて構える。防御と攻撃、丁度真反対の構えだ。
「ファイトッ!」
審判のかけ声と共に飛び込んでいたのは、英輔だった。
打撃を封じる方法を、英輔は心得ていた。飛び込んでしまえばいいのだ。自分も相手の打撃を避けれなくはなるが、少なくとも強い打撃はこなくなる。それだけでも、十分有利に試合を進めることができる。
相手の打撃を止めるための腕を伸ばしたまま、英輔は突っ込んだ。
そして、射程前で、いきなり動きを止めた。
ヒュッ!
英輔の頭が次の瞬間あったであろう場所を、絵志の裏拳が振りぬいていた。英輔の前に突き出された腕を避け、大外からスナップの効いた裏拳だ。このまま踏み込んでいれば、間違いなくテンプルに受けていた。
オオッと場内に歓声がわく。さっきの攻防の意味がわからなかったとしても、その裏拳は見ただけで驚くべき打撃だというのがわかる。
裏拳は身体の内から、左拳なら左外に向けるように打たれる。不意をつくにはなかなか効果はあるし、振るので威力もあるが、いかんせん、手元を止められると威力を殺される。
肘を丁度自分で逆関節にかけるようなものだ。どうしてもやわらかい動きはできない。
だが、絵志の腕は、腕を完全に伸ばした状態から、さらに曲がったのだ。なので肘を押さえても、そのまま腕が伸びてくる。
英輔がただの裏拳だと思って踏み込んでいれば、捉えられていた。オープニングヒットをもらうのは、いかに身体をほぐしていようと効く。何より、顔面に直撃されれば、そのまま負けかねない。
英輔は、仕方なく後ろに下がった。相手の打撃を何とかかわして、しかも英輔にはまだ脚が残っていた。やろうと思えば踏み込むこともできたろう。
だが、それすらさせてもらえなかったのだ。それも絵志による技の攻防の一つだった。
普通にフック系を避けることができれば、相手には隙ができる。相手の側面に自分は回りこめるからだ。
だが、裏拳は違う。肩が開くように振りぬかれた後には、形十分の反対側の腕や脚が残っているのだ。あわよくばそれを避けても、素早く倒さないと、十分に警戒している人間を転ばせるのは難しいのだ、裏拳を放った腕が戻ってくる。飛び込んだ状態ならば、確実に後頭部を狙われるだろう。
いや、読んでいなければ、そんな動きはできないのだが、英輔が止まって、後ろに下がったということは、絵志は読んでいた、と英輔が判断したに他ならない。
相手をつかんで懐に入るのと、必殺の打撃、交換するにはいささか歩が悪いと英輔が判断したわけだ。
試合が始まってすぐに突っ込む人間は、案外に頭に血が上っていることが多い。そんな状態では、相手に来るだろうと予測されていれば、軽くいなされるだろう。いや、下手をすればそれで終わる。
しかし、英輔はかなり冷静だった。いきなりつっかかってこられても冷静に罠にはめようとした絵志もかなり冷静ではあったが、英輔の冷静さは、褒められるべき部分だ。
闘志を空回りさせない。言葉にすると簡単だが、何とそれの難しいことか。英輔は、その点に抜かりはない。
あれだけの闘志を、空回りさせない。それは相手にとってみれば非常に怖い相手だ。おそらく、今の攻防は英輔が引いたが、相手にプレッシャーがかかったのは間違いない。
英輔は、距離を取って隙をうかがっている。どちらも、うかつには距離を縮めたりしないし、取ったりもしない。
微妙な間合いをずっと維持しているのだ。どちらも相手の実力どうこうよりも、失敗をして勝ちを取りこぼすことを避けているのだろう。
しかし、動かなければ、勝敗は決しない。そして、そのまま様子を伺うには、二人とも、そう、二人とも闘志にあふれかえっていた。大きな闘志と、大きな闘志のぶつかり合い。
動きのない試合なのに、試合場は緊迫していた。その雰囲気は、観客の方にまで伝わっている。
どちらが動くか、と息を呑む時間は、そんなに長くはなかった。
だが、短くもなかったのだ。
いきなり、クンッと、絵志は英輔に背を向けた。
続く