作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

三章・試合(91)

 

 完全に首の後ろでフックされた手。これはそう簡単には外れない。

 しかし、その体勢は、反対に相手を倒すのには不利な状況なのだ。もともと相手を投げるのに、力任せでできるのは、レスラーぐらいだろう。それも腰に腕を回して、背筋という力で投げるのだ。

 柔道の投げは、そんな力任せな技はほとんどない。基本は左右に相手をふることにより、重心を不安定にさせてから投げるのだ。

 そして、英輔であろうとも、その体勢から相手を投げるのは無理な相談だった。だから、英輔な投げなかったのだ。

 英輔の脚が浮き、そのまま背中からマットの上に落ちた。絵志の身体もその上に覆いかぶさるように倒れる。

 一瞬、英輔が投げられたのかと思った。相手の脚に脚をかけて後ろに押し倒せば、何とか相手を倒すことも可能だろう。

 柔道であれば、一本を取られていた状況だ。だが、これは柔道の試合ではない。エクストリームの試合なのだ。

 普通の柔道家ならば、それを戦略の一つとして考えもできなかったろうが、英輔はそれを実行したのだ。

「英輔さん、今の……」

 何よりもそれに驚いているのは、安部道場の面々だろう。彼ら、彼女らは、間違いなく柔道家達だ。柔道という枠からは基本的には外れない。

 しかし、英輔はそれをこともなく外して見せたのだ。

 相手の首を捉え、自重でマットの上に倒れる。

 英輔のやったことはそれだけだった。確かに、こうすれば、相手を倒すことも可能かもしれないし、実際、今英輔は自分が下になった状態ながら、絵志をマットの上に倒している。

 いかに一般人よりも力があろうとも、全力で倒れようとしている人間を支えるのは難しい。それも首という先端の部分に重さが集中するのだ。耐えるのは難しいだろう。

「てっきり巴投げにでも行くかと思ったんだけどなあ」

「巴投げなら、投げれるかもしれませんが、その後が続かないですから」

「あ、なるほど」

 安部道場の面々の度肝を抜いた英輔の行動を、葵は簡単に説明した。

 あの体勢では、横に相手をゆらすのは難しい。ならば、縦にゆらせばいいのだ。一回戦で浩之が見せたような大外刈りや、安部道場の面々が思っていたような巴投げなら、それができる。

 大外刈りは来るとわかっていれば、そう簡単には決まらない。巴投げももちろんそうだが、首に腕をまわした状態ならば、巴投げの方がうまくかかったろう。

 だが、巴投げで投げても仕方ないのだ。

 巴投げというのは、どんな大きな相手でも決まれば綺麗に投げれる。相手の力と体重を利用するので当然なのだが、残念ながら総合格闘技には向いていない。

 相手が警戒しているか、と言われれば、まず警戒していない技なので、かかるかもしれない。だが、それだけだ。

 巴投げは、投げた後どうしても相手との距離が離れる。つかんでいる腕を放さなかったとしても、どっちも仰向けに倒れたのでは、次の技にはつなげれない。

 もともと巴投げのような技がこういう試合で使われるようなことはないのだから、警戒されないのは確か、しかし、それはただ警戒する必要がないというだけなのだ。

 綺麗に投げれるというのは、それだけ投げでは相手にダメージを当てれないと言っているようなものだ。ひっかかったような技の方が、投げた後相手がくらうダメージは大きい。まさに、まったく役に立たないことこの上ない技だ。

 それでも安部道場の面々が巴投げをすると思ったのは、英輔ならば、相手を倒した後、自分の方が素早く立ち上がって相手を捉まえれる。そう思ったからだろう。

 だが、それでは遅い、と英輔は判断したのだ。

 だから、相手を巻き込むようにして倒れた。

 絵志も、倒れた後になってそれに気付いたようだった。まだ英輔の攻撃ははじまっていないが、表情が驚愕でかたまっている。

 つかまれたときにそれに気付けば、あるいは絵志は無傷のまま、首にまかれた腕を外すことができたのかもしれない。

 英輔を押しつぶすようにして自分から倒れればよかったのだ。マットは硬いとは言っても、腕が使えない程度の英輔なら、受け身を取ってダメージをまったく受けないで済む。しかし、絵志の力で叩きつけられれば、その保障はない。

 しかし、絵志は一瞬耐えてしまった。だから英輔は余裕を持ってマットの上に落ち、絵志は引きずられて倒れてしまった。

 確かに、今は絵志が上になっている。だが、それも長い時間ではなかろう。

 もし相手を倒すだけなら、脚をかけた方が早いに決まっている。だが、英輔はそれをしなかった。

 絵志の胴体に、脚をからめるためだ。

 総合格闘技で言うところのガードポジションというやつだ。相手の下でも、胴体に脚をからめた状態ならば、むしろ上になるよりも有利に事を進めれる。

 組み技、というよりも柔道にとっては基本の寝技の対処方法だ。むしろ、この体勢なら、十分攻撃できる。

「英輔さんの、勝ちです」

 葵は言い放った。これで絵志がいきなり組み技の方が得意と言い出しても、よしんば言ったとしても、絵志に残っている選択は、このラウンドは耐えるだけだ。

 そして、絵志が組み技が得意だという可能性はかなり低く、そうなれば、英輔は次のラウンドまで試合を持ち越すことはない。

 絶対的有利な状況から、相手を逃すほど、英輔は弱くないし、甘くない。

 時間は一分と半分。英輔がすぐに動かないのは、受けたダメージが抜けるのを待っているのだろう。少なくとも、それだけの余裕のある時間だ。

「くっ!」

 休ませまいとして、絵志は上で暴れる。隙あらば立ち上がって今度こそマットに叩きつけようとしているのだろうが、ダメージが抜けるのを待って休んでいる状態であろうとも、英輔がそんなことを許す訳がなかった。

 もちろん、ダメージが抜けるのを待つほどのダメージを英輔は受けてしまっている。特にボディーのダメージというのはそう簡単に消えるものではない。

 それだけ、ギリギリのところだったのだ。だが、英輔はそのギリギリを見事に潜り抜けたのだ。

 しかし、ダメージは十秒待っていれば、少しは回復する。全快など望んではないのだ。英輔は、しとめることのできるだけの力がたまれば、すぐにでもしかける。

 残り、一分と十五秒。おそらく、まだダメージは抜けていない。だが、英輔にあせりがあったとしても、それは仕方のないことだ。

 もう一度捉まえることが、できるとも思えない。まさに、決死の作戦だった。これを失敗すれば、英輔には後がない。

 英輔は、動きだした。

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む