英輔の腕が絵志の首から離れた。
瞬間、絵志は上体を起こそうとしたが、すでに胴体を脚でとらえられており、思うように動けない。
今度は一瞬動きを止めた絵志の手首を英輔は取った。それまでの動きに無駄なところはなかった。最短で相手をしとめようと考えている。
英輔がさっきまで絵志の首を捉まえていた体勢を、いわいる首相撲というが、もし絵志が何か服を着ていてなら、迷わず首を取っていただろう。下からであろうとも、えりのある服さえあれば、絞め技に持っていけるのだ。
だが、今の絵志のように、上半身に服を何も着ていない状態では絞め技は難しい。
技がまったくないというわけではない。英輔なら自分の道着を武器に絞め技に入ることもできたかもしれない。
だが、そのためには相手をひきつけなくてはいけない。それ以前に、首相撲をしている腕を放さないといけないのだ。
絵志は当然上体を起こそうとするし、それは英輔が首を放せばなおさらだ。例え放す前にひきつけておいたとしても、力で離れようとするだろう。
そして絵志は首から手が離れた瞬間に、それを実行した。英輔の身体に手をついて、腕力でひきはがそうとしたのだ。
首には腕は届くものの、道着を活用するまでは近づかなくてはいけない。しかし、英輔が素で上体など持ち上げようものなら、絵志はその力を利用して立ち上がるだろう。
だから英輔は首をすぐにあきらめた。首を取るとみせかけて、手首を取ったのだ。英輔の身体に腕をついた状態であったので、手首をつかむのは簡単だった。
「やった!」
すでに安部道場の面々は喜んでいる。それだけ柔道家にとって、手首をつかむという行為は有利なのだ。
柔道家の握力は強い。相手をつかんでなんぼの世界なので当たり前だが、ただ握力が強いだけでどうにかなるものでもない。
それは同時に、相手が無理やり振りほどこうとするのを防ぐのがうまいということなのだ。倒れた状態で組み技ともなれば、英輔ほどの柔道家の「手」を逃れるのは至難の技。それが打撃系の選手ならなおさら難しいだろう。
それでも余裕を持てる相手ではないとは思うが、それでも。
「いけますね、英輔さん」
葵もグッと拳を握り締めた。
相手が苦し紛れに自分の手首をつかんでいる英輔の手首を取って力まかせに外そうとするが、それぐらいではびくともしない。
反対に、英輔はその腕を押し返した。大して力も入っていないように見えたのに、それで相手はバランスを崩して横に倒れる。
そこからの英輔のグラウンドの動きは速かった。葵にも何が起きたのかいまいち認識できないほどだ。
身体を起き上げようとする絵志のついた手を空いた手で素早く払うと、絵志がまた横に倒れるのに合わせてさらに身体にまいていた脚を上にあげる。
完全に相手の胸まで脚をあげ、その脚の力で相手の脇を浮かせる。こうすることによって相手の腕に力が入りにくくなるのだ。
そこで英輔はさらに回転し、完全に絵志からマウントポジションを取ろうとするが、それは絵志は全力で阻止した。明らかに組み技では英輔の方が勝っているのに、もしこれでマウントポジションを取られたら、勝ち目はない。
だが、それさえ英輔のまいた餌だった。
英輔は反対に身体をまわして、絵志の後ろにまわった。しかも脚をかけたままだ、手首を握ったままだ。
耐えていたとは反対側の力に、絵志は耐える暇もなく返される。それでもその隙、英輔が激しい動きをした隙を狙って、ゆるくなった脚から逃れる。
だが、もうそのときには遅かった。脚は外れた、いや、英輔自身が外したのだ。もう必要なくなったから。
絵志の身体は仰向けに倒され、サイドでは、英輔が完璧にアームロック、柔道で言うところの腕がらみを極めていた。
オオォ!
場内が沸く。英輔の動きは、ほとんど完璧な詰め将棋だった。相手の動きを読んで、退路を断ちながら詰める。
立ち技では動きを読まれたが、それを完璧にリベンジした動きだった。そして、完璧に極まったアームロックを、逃れれよう訳がないのだ。
「よしっ!」
「やった!」
安部道場の面々が歓声をあげる。完璧に極まっているのだ。あと少し英輔が力を入れれば、決着はつく。
下手に我慢などしようものなら、肩が「いく」だろう。葵のあまり豊富とは言えない組み技の知識を持ってしても、間違いない。
審判があわただしく近寄る。おそらく、決まったのだろう。
と思った瞬間、絵志の極められているはずの肩が動いた。
ぐにっと、普通なら絶対に曲がらない方向に、絵志の肩が曲がる。
外れた!?
英輔は確かに技に関して言えば容赦なく極める方だ。一試合目の投げ技も、相手が怪我をしてもおかしくない投げ技を使っている。
反則でなければ、それで怪我をする方が悪いとさえ言えるのだが、それでも相手の肩を外すほどのことをするとは思っていなかった。
実際、英輔は驚いているようにさえ見える。やはりわざとではないにしても、そこまでやって……
……そんな訳ない。英輔さんほどの使い手が、関節技を手加減できないなんて。
葵には確信がある。打撃でもそうだが、うまい者ほど、手加減はうまいはずなのだ。しかもそれが関節技となれば、限界など、すぐにわかりそうなものだ。
そして、葵の考えは、英輔には不幸なことに、当たっていた。
不自然に曲がった肩の裏に、絵志は首を突っ込む。そして倒れたまま、首とブリッジ、残った腕の力でバク転をするように回転した。
そして、英輔の手から腕を引き抜く。完全に自由になった身体なら、それは容易な話であった。
関節技が外れ、ぽかんとした顔の英輔を残して、絵志は飛び跳ねるように離れて距離を取った。
オオオオオォォォォォ!
さっきの英輔の動きのとき以上に場内が沸く。
「は、はずれたっ?!」
「嘘だろ、完璧に極まってたぞ!」
間違いなく、完璧に極まっていたアームロックから、絵志は逃れていた。
残された英輔は、呆然とした顔で、それでも素早く立ち上がった。
英輔の決死の覚悟の技は、外されたのだ。
続く