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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(2)

 

 寺町に親しそうに笑いかけられたときに、浩之はゾクッと寒気を感じた。

 いや、男に笑いかけられても、嬉しくないのは当たり前なのだが、その寒気は、そういう類のものではなかった。

 少なくとも、今一瞬、浩之は極限にまで命の危険を感じた。綾香の許しが出れば、それこそ絶対に出ないのだが、ここから一目散に逃げ出したいくらいだった。

 すぐに寺町の顔はそれ、横の中谷と話を始めたようだったが、浩之の悪寒は消えなかった。

「どうしたの、今更怖気づいた?」

「いや、怖気づいてるのは前からだが……」

 それも、寺町の実力を知ってのことだ。むしろ言えば、寺町の実力のみを見ていたことになる。

 寺町が強いのは十分知っている。試合を観ていても、他の選手とは桁違いだ。それに坂下は圧勝したらしいので、坂下達の恐ろしさがより一層増すのはこの際無視して、寺町は、言ってしまえば常識を外れた場所にいるような者達以外には、負けないだろうという予感がある。

 残念ながら、浩之は十分常識範囲内だ。しかし、それはいい。常識外の強さなど、平気で持てる方がどうかしているのだ。

 そして、問題はそこ。

 寺町が笑った、その表情は、面白い試合をして、火がついてしまった綾香の笑いにそっくりだったのだ。

 もちろん、顔の造形の違いはある。だが、賭けてもよかった。本質的なところで、その笑い方はそっくりだった。

 それは、命の危険も感じるというものだ。

 だが、寺町と綾香が似てるなどということを言えば、綾香にボコられるのは火を見るより明らか、ここは黙っておくのが吉、と浩之は結論付けた。

 しかし、実に逃げ出したい状況であった。

 ただし、前門は綾香笑いをするバカ、後門は賭けの勝敗と、ついでに浩之の腕の一本ぐらいを握る怪物。

 ていうか、逃げる気配を感じて腕を握るのはやめていただけますか、綾香さん?

 さして腕力もないと見た目は思われる綾香の細く白い指が、浩之の腕に食い込んで、浩之の逃亡を封じていた。

「今、何か失礼なこと考えたでしょ?」

 はい、まったくその通りですが、コロサナイデ。

「んな訳ないだろ。いくら不謹慎な俺でも、試合前なんだからな」

「逃げ出そうと考えてるのに、えらく自信ありげね」

 心の奥底まで読まれたとて、それを認めなければ、とりあえず、一応今ぐらいなら見逃せてもらえるかも、と浩之は甘い考えをしていた。

「いや、観念したのさ」

 もちろん、浩之はこれっぽっちも観念などしていない。隙あらば、ここから恥も外聞も元からほとんどないのだから、平気で逃げ出すつもりなのだが、綾香の妨害があってはそれは無理。

 であらば、五体満足で試合場を降りるには、一つしか方法はない。

 怪物とバカ、倒すならどっちが楽か、それは言わずもがな。

 例えそれが、常識外の要素をかもし出していたとしても、まるっきり骨の髄まで怪物を相手にすることを考えれば、まだいくらかましだ。

 それに、浩之は、本当に残念ながら、逃げれる状況になっても、逃げる訳にはいかないのだ。

 綾香もうまいものである。まるで浩之の心の動きを全て理解しているようなやり方は、まさにあざといとしか言い様がない。

 賭けてしまったのだ。綾香と浩之が賭けて争うとき、浩之に逃げるなどという選択肢はなくなる。

 賭けには、いかなる至難な状況であろうとも、勝たなくてはいけない。例え相手が自分よりも強くてもだ。

 それに、実を言うと、ほんの少しだけ、この状況に進んで進もうとする心が、浩之の中にあった。

 ビュッ

 確かめるように、浩之は拳をふるった。自分でもわかる。いつもよりも、今までよりも確実に鋭くなった突き。

 一回戦目に勝ち、二回戦目は勝てないだろうと思った驚異の速度を誇る中谷をKOした。

 それを嬉しく思っていない、と言えば嘘になる。事実勝ったときは、元気さえあれば飛んで喜んだ。二回戦目の後はそういう訳にもいかなかったが、心はうきうきして、ダメージを消すために寝転がって寝ていても、その夢がリピートされたほどだ。

 次の相手は、さらに強い。

 強い相手というのは怖い。さらに手加減などするような常識人ではなさそうなので、怪我の可能性も多いにある。

 むしろ、浩之だって痛いのは嫌に決まっている。

 だが、もし寺町に勝てたら、どうなるのだろうか?

 その、もしかしてという気持ちが、浩之の足を前に出していると言っても過言ではなかった。

 強敵に勝てば勝つほど、自分は成長している。こんな短期間の成長など、普通は、浩之とて、本人の自覚云々はともかく普通ではないのだが、それでさえ、こんな短期間の成長は、初めて綾香に「やり方」を教わって以来だ。

 あのときは、綾香に一発当てるのに気を取られて、自分が成長していくことなど理解していなかった。目標が高すぎたのもある。

 だが、今は少しなりとも実力がつき、それと同時に、自分の力も理解できるようになってきた。そして、今成長しているのが意識できる。

 そう、僅かニ試合の間に、自分が成長できたことが、嬉しくて仕方ないのだ。このまま寺町に勝てば、自分がどれだけ成長できるか考えてしまうと、目の前で待っている恐怖の姿がかすんでくる。

 これは賭けなのだ。

 綾香との賭け、自分の成長に対する賭け。

 賭けというものに、リスクはつきものだ。そのリスクは……

 浩之は、すでに試合場に立って浩之を待つ寺町に目を向けた。浩之の方を見てはいなかったが、その顔には、待ちきれないと書いてある。

 戦いを、心底楽しもうとする、バカ一名。

 しかし、自分も、今回ばかりはバカとしか言い様がないのかもしれない。勝てないと、九割九部わかっていながら、試合に臨むのだから、利口とは言い難い。

 綾香のアドバイスもなし、自分に作戦があるわけでもなし。

 唯一救いと言えないこともないのが、相手が怪物ではなく、バカでしかないことだ。正真正銘の、格闘バカというやつだ。

「んじゃ、言ってくるわ」

「がんばってください、センパイ!」

「負けたら、怖いわよ〜」

 葵の激励と、綾香のにやけた笑みと含みのある言葉に、浩之は背中を押されて、試合場に足を進めた。

 この賭け、吉と出るか凶と出るか。

 わかっているのは、どちらにしろ、無傷では試合場を降りれないだろうことぐらいだ。だが、それはリスクの中では一番小さいリスク。

 二人に背を向けた瞬間に、浩之の腹が、決まった。

 痛くてもいい。

 さっきまでの逃げたい気持ちとは正反対の感情が、浩之の中でふくれあがった。

 痛くてもいい、俺は、勝ちに来てんだよっ!

 

続く

 

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