浩之の筋書きに反して、寺町は右拳を上に構えなかった。それどころか、他の構えさえしなかった。
何故構えない?!
寺町が、ここまで来て技の出し惜しみをするとは思えない。楽しみは思う存分楽しむタイプなのは、今日一日で十分理解できていた。
しかし、寺町は構えなかった。それどころか、浩之から視線をそらしていた。
な、何を……
オープニングヒットを狙う、その作戦を浩之は忘れたわけではなかったが、思わぬ寺町の奇妙な行動に、その期間を逃した。
それも、仕方ないと言えよう。寺町に向かっていくのは、あまりにも恐ろしい行為だ。そこに寺町が動きをやめているとなれば、腰が引けるのも道理。
その時間はほんのニ、三秒であったが、それでも浩之を混乱させるのには十分な時間であった。むしろ、理解力が早いだけに、浩之は余計に寺町の行動に混乱させられた。
一体何を狙って……
四秒後、浩之がそこにたどり着いたか着かないかの瞬間、寺町がのそりと動いた。
ズドンッ!
ごく自然に出された、しかし重い前蹴りを、浩之はかろうじて十字受けで受けた。とっさに足から力を抜き、後ろに飛んだのも合わせて、ダメージはほぼゼロに近い。
だが、その力を殺すために、浩之の身体は試合場の端近くまで飛ばされていた。
「ほお」
寺町が感心したような声をあげた。自分の渾身の前蹴りを受けたのに驚いているというよりは、賞賛の声だったのだろうと浩之は思った。
空手で一番堅固な受けと言われる十字受けに合わせて、足を浮かせて威力を殺す。ほとんどお手本のような前蹴りの受け方だ。
観客は、寺町の前蹴りの威力、何せ大の男が数メートルも吹き飛ばされたのだから、に歓声をあげるが、浩之とてわざと飛んだのだ。
着地した瞬間に、浩之は構えを取っていたが、寺町は追い討ちをかける気がないのか、相変わらず構えも取らずに試合場の真ん中に仁王立ちしていた。
「見事に外されたわねえ」
浩之には当然聞こえないが、綾香が他人事のようにそう評価していた。
「そうですね……ほんとに、うまい」
葵も、寺町に素直に賞賛の言葉を出していた。
実は、綾香も葵も、浩之がオープニングヒットを狙っているだろうというのは予測していた。
よくよく考えれば、それは無謀な行為だ。実力差のある相手には読まれ易いし、実力差のある相手の懐に飛び込むというのは、生半可な度胸ではできない。
だが、度胸の面で言えば、口や態度ではどうすれ、浩之には間違いなくそなわっている。そして勝つ確率を考えれば、浩之は間違いなくそれに賭けたことも理解できる。
よしんば、相手に読まれても、最初の最初、身体の温まっていない状態での身体の動きは、思う以上に重たいのだ。
「寺町のやつ、ちゃんとほとんど全快まで身体をほぐしているみたいね」
「あ、それ私が相手してやってたから」
そう言いながら、坂下が綾香の横に来た。さらに横には、まるで子分のように中谷がひっついている。
「あら、中谷だったっけ? 親分変えたの?」
「洒落になってませんよ、それ」
中谷は苦笑した。確かに、寺町が親分なよりは、しっかりした坂下の下についた方が子分としては楽だろう。
「しかし、寺町もみあげたもんだよ。さっきまで私にぼっこぼこにKOされてたのに、短時間の間にあれだけ回復するなんてね」
ほめているというよりは、むしろあきれたという口調だ。
「それに、一見、ついでに中身もバカだけど、格闘技となると、冴えるわねえ」
「まったく」
綾香と坂下の意見は一致していた。バカだという部分も、そして格闘技では冴えるだけ冴えているということも。
浩之のオープニングヒットを読み、それを簡単に封じてしまったのだ。相手が予想していることとは違うことを一つ行うだけで。
浩之は寺町が右拳を上に構えるだろうと予測していた。であれば、間違いなく浩之は寺町の右に回りこむ。その右拳に近づくのは怖いが、寺町の右の脇はがら空きであるし、近づいた方が打撃の威力は殺されるのだ。
であれば、その構えを取らない。さらに顔さえそらす。そこまでやれば、相手は混乱して手を出せない。
そこから、我に返るか返らないかの部分で、強襲の、渾身の前蹴り。
浩之が寺町の目的に気付くのが一瞬遅れたら、あれ一発できまっていたかもしれないのだ。
「相変わらずというか、まあ、相手が藤田さんだからってのもあるとは思いますが、楽しそうですねえ、部長は」
心底格闘技を楽しむ男、寺町の一番の部下は、ため息まじりに言った。
「あれで、いつもとは違って、どんなささいなことでも相手と戦っていれば気がまわるんですから、不思議なもんですよ」
「そういう人種を知らないわけでもないけど……」
坂下が言うのは、ずばり自分のことだ。坂下も、格闘技以外はあまりぱっとしない。むしろ、綾香のようにそれでも何でもできるというのがおかしいのだ。
「でも、センパイもまだ気おされてませんよ」
葵が指摘した通り、奇襲を外されても、まだ浩之はあきらめた顔はしていなかった。往生際の悪いのは、浩之の専売特許ではないが、これぐらいでへこたれるようなら、浩之とてこの場には立っていない。
油断できない相手だというのは嫌というほど浩之もわかっていたが、やはり格闘技においては浩之とでは格が違う。
奇襲をするつもりが、反対に奇襲しかえされているのだ。ざまあない話だよな、本当に。
やはり、簡単に勝たせてもらえる相手ではない。それどころか、難しくも勝たせてくれるような相手でもないのだ。
浩之は、寺町の嬉しそうな目を見て、睨み返した。
すでに気おされているのは自分でもよくわかっていた。であれば、せめて、気おされないだけの胆力を込めて睨み返すだけだ。
だが、それもやはり逆効果でしかなかったのか。
まだ、それでも今まで我慢していた蓋が、ぽこっと一瞬開いたような、と言えばいいのか。
そう、今まで我慢していたのが、浩之にはありありとわかった。
このバカは、まだ我慢していたのだ。これが、この男のやる気の最後ではない。
しかし、それも浩之の闘志に反応して、半分蓋から飛び出ていた。
寺町は、ゆっくりと右拳を動かした。
続く