「いや〜、実に凄い」
寺町の陣営から上がったのは、当の本人の寺町の陽気そうな声だった。ダメージで膝が立たない男の態度ではないが、この男は最初から常識でははかれない、というか、完璧な非常識を実行する男なので、今さらという気もする。
「嬉しそうだね、寺町」
坂下が、大きくため息をつきながら言った。気持ちはわからないでもなかったが、いかにもそれが寺町らしかったのが、ため息を誘うのだ。
「それはもう、楽しいですよ。こんな楽しい試合、生まれて初めてかもしれないですからね」
浩之も大きく評価されたものだ。おそらく、ケンカばかりしてきた、それもケンカを楽しもうとする寺町にここまで言わせるのだから大したものだ。
何とか言ってやれ、と坂下は中谷の方を見るが、中谷もいつもの冷静な態度ではなかった。
「まさか僕の左のショートフックを使ってくるとは思いませんでした」
「まあ、それはそうね」
「僕との試合では、見れませんでしたけど、もしかして、藤田さんはあのショートフックを最初から使えたんですか?」
「うーん……とりあえず、私の記憶にはないね」
少なくとも、坂下も何度も浩之と戦ったが、その間に一度もあんな打撃をはじくショートフックを打たれた記憶はない。
いかに坂下がそんな軽い手、というほど軽くはないのだが、を許すような打撃を打っていないとは言え、浩之が最近、その技を覚えたのは明白だった。
「私が知らないってことは、最近覚えたんじゃないの?」
最近……か。
おそらく、その最近というのは、今日、中谷との試合が終わってから。
天才とは、こういうことを言うのだろう。怪物はその日に相手以上の力を使えるが、そこまでいけない天才は、それをうまく使おうとする。
中谷のように連射はできないだろうが、狙いに狙った一発の効果は大きい。あまりにも不意の攻撃に、寺町の上体が浮いてしまったのもうなづける。
「しかし、まんまとひっかかったわね。ショートフックの罠に」
坂下の意地悪な言葉に、しかし寺町は真面目に答えた。
「あのショートフックだけじゃないです。考えてみれば、だいたいが、俺を攻めさせないための戦略がねってある」
寺町が考える、という珍しいことをしているのはさておいて。
相打ち狙いをされたとき、寺町はそれでもかまわないと思った。相打ちならば、負けない自信があった。自分の練度に練度を重ねた打ち下ろしの正拳突きは、正面で当たるならば敵はいないとさえ自負していた。
しかし、寺町のそんな心理を、浩之は見事についてきた。正面で当たるならば、その打撃は恐ろしい。ならば、正面で当たらなくすればいいのだ。
それでも、ショートフックにつなげる前に打ち下ろしの正拳をよけられたのは、寺町にも正直堪えた。
おそらくは、完璧な誘いだったのだろうが、それにしたって、あれだけ体勢十分から打ち下ろしの正拳を「避けられる」というのは、寺町の自信を崩す。
しかし、自信が崩れた後に残るのは、寺町本人は良く知っているが、心地よい戦闘意欲だけだ。
大勢に囲まれてリンチに遭ったときも、その後で鬼の拳で完膚なきまでに打ちのめされた後も、坂下にボコボコにされて、それでも戦いを続けたときも、そこには、悔しさの一片もない。
まさに、この男、格闘バカなのだ。
強い相手がいれば、それだけで楽しい。自分の伊達ではない自信と、鍛え抜かれた身体を壊す相手というのは、いつ戦っても楽しい。
しかも、この相手を倒しても、まだ上がいるのだ。そう思うと、寺町の格闘バカ精神は喜びに震えた。
「この大会は実にいい。次もあんな相手がいるかと思うと、ぞくぞくしてきますよ」
「寺町……藤田を、甘く見ると、痛い目見るよ」
坂下は、少し声をきつくした。
寺町の発言は、今の浩之を軽く見ているとさえ思える発言だった。坂下は綾香や葵のように浩之に好意はないが、今の浩之が、決して油断して勝てる相手ではないのは、よくわかっていた。
「大丈夫ですよ。もちろん、藤田君をなめてるわけではないですから」
確かに、それは見ていてもわかる。
寺町の目は、休みに帰って、ダメージで膝をついて立ち上がれない状況だと言いうのに、ギラギラと獲物を狙う目のままだった。
「後一ラウンド、じっくり、楽しませてもらいますよ」
自分が負けるなどとは少しも考えていないのかもしれないし、ただ、その目の前のうまそうな獲物に目が行って、他のものに目がいかなかくなっているだけなのかもしれない。
「いや、それにしても、坂下さんは実においしく藤田君を料理してきたものだ」
「へ? 私は別に何か教えてたわけじゃないんだけど……」
相手になってやったことはあるが、身体でわからせる以外、浩之に何か教えた覚えはない。まあ、身体で教えるだけでも、浩之はスポンジが水を吸収するように色々覚えるのだが。
それには、もちろん命の危険がつきまとっているから、という理由を、坂下も否定できなかったりもする。
「私よりも、あそこにいる二人、綾香と、葵が教えているんだよ。最近は柔術か何かの道場にも通っているらしいけどね」
「ほう……しかし、最近は、ということは昔はどこで?」
「綾香と葵が探し出してきたんだよ。と言っても、私の学校じゃあけっこう有名人だけどね。少なくとも、そのことは格闘技はしてなかったはずだよ」
「ということは……あの二人があそこまで……、いや、世界は広いですね」
多分、かなりのところを独学でやってきただろう寺町の言うセリフではないのかもしれないが、しきりに寺町は感心していた。
「部長……また何かよからぬことでも考えてるんですか?」
「いや、何、これが終わったら、あの二人にも手合わせしてもらおうかと」
そろそろ、この返事にも二人はなれてきていた。ようするに、この男は強いと見たら誰にでも戦いを挑む、そういうおかしな人間なのだ。
「まあ、それには、まず、藤田君に勝たなくてはいけないけれどね。さて、簡単には勝たせてくれない相手だ。どうしたもんか……」
そういう寺町の顔は、ものすごく嬉しそうだった。心から、浩之のような強い相手と戦うのを楽しんでいるのだ。
自分の得意技を避けられ、狙われ、相打ちに持っていかれる、しかも、打たれ強い寺町が、膝をついて立ち上がれないほどのダメージを負っている。そんな相手と、楽しそうに戦えるこの男は、おかしい。
しかし、残念ながら、坂下も今の寺町を否定することはできない。
面白い試合をしているのもそうだが……
今、坂下もこの試合をかわってくれと言われれば、喜んでかわるだろう。それほど、面白い試合だし、寺町も、浩之もいい戦い方をする。
これは、余計身体がうずうずするわね。
そう思っている人間は、坂下だけではなさそうだった。
続く