浩之の上体がのぞける。寺町は、その一瞬の隙を見逃さず、浩之の首に脚をかけた。すでに浩之がのぞけるのを予測していたように、最初から脚をかけようとしていたのだ。
そのまま、浩之の頭をマットに叩きつけるようにして、寺町は浩之を自分の上から外した。
したたかにマットに後頭部を叩きつけられた浩之だったが、ダメージはほとんどない。すぐにそこから膝をつく。
だが、それは手遅れだった。
「くっ!」
浩之がしまったと思った瞬間には、時遅く、寺町は立ち上がっていた。
マウントポジションが、外された。必殺になるだろうと思われたそれを、寺町はいと簡単に外してしまったのだ。
相手の上体がのぞけってしまえば、そこで首に脚をかけて後ろに倒すという回避方法が使える。普通に使われる回避方法ではないが、理にかなっていないわけではない。
寺町は、すでに立ち上がって、右拳を上に構えている。その顔には、何の迷いもない。
しかし、問題は、そこではなかった。
まわりの観客も、ざわついている。さっき起こったことに疑問を持っているのだ。それはマウントポジションを返したからという理由ではない。
「待てっ!」
審判も、試合を止める。それはそうだった、今の寺町の行動は。
「マウント返したけど、今のって……」
「反則、だよなあ?」
綾香と葵のまわりの選手も観客も、ざわざわと話をして、その内容が二人にも聞こえていた。
「綾香さん、今のって……」
浩之のマウントポジションは完璧だった。決して返せない体勢ではないのだが、少なくとも浩之なら、寺町に返されることはなかったはずだ。
だが、浩之は上体をのぞけらせてしまった。
寺町は、倒れた状態から、右拳を構えていた。そして、そこから気合い一閃、打ち下ろし、いや、打ち上げの正拳を……
「……打って、ませんよね?」
「ええ、打ってないわよ、寺町は」
寺町は、掛け声を出したが、拳はまったく動かなかった。
だが、浩之にしてみれば、そういうわけにはいかない。確かに、寺町が倒れた状態で、そこまで露骨に打撃を使えば、寺町の反則負けは決定だろう。
しかし、寺町は反則負けにはなるかもしれないが、勝負には勝つ。それは、今の浩之には絶対に許せないことだったろう。
よしんば、それがなくても……
寺町の気合いや、今までの打ち下ろしの正拳突きの威力やプレッシャー、そういうものが、浩之の身体をのぞけらせていたろう。
「でも、この審議って、かなり微妙ですよね?」
「まあね、寺町の方には悪いことをしたって気持ちはなさそうだけど」
打撃を打たなくとも、威嚇に使った。これを良しとするかどうかは、かなり微妙な審議になりそうだった。
少なくとも、寺町は打撃を打っていない。それは反則にはならない。当たらなかった、というだけなら、反則と取られるだろうが、打ちもしないものに反則を取るというのは、おかしい気もする。
反対に、打たなければ、例えば目を狙うジェスチャーを、本当に狙わなければしてもいいということになる。狙ってくることはない、と理解していたとしても、人は反射的に目をかばうものだ。おそらく、隙はできるだろう。
どちらにしろ、何もなし、で済ませられる反則ではなかった。
しかし、当の本人の寺町は、少しも悪びれている様子はない。むしろ、試合が止められたのを不思議に思っているような態度を取っている。
「君、今のは、打撃を打ったのかね?」
審判は、そう寺町に訊ねた。確認せずともわかる、というには寺町の打撃は速すぎたし、浩之の身体が本当に打撃を打たれたようにのぞけったので、実際に打撃が当たったのでは、と思ったのだ。
いや、審判には見えているかもしれないが、観客の中には、本当に寺町が打撃を打ったのかどうか、さっぱり判断がつかない者がほとんどだろう。選手の中でも、それを自信を持って言える者が何人いるか。
それだけ、寺町の打ち下ろしの正拳の気迫は真にせまっていたのだ。だから、浩之は避けざるおえなかった。
「打ってはいません」
「しかし、あの動きは、打撃を打つ動きだったが?」
寺町は首をかしげた。
「倒れた状態では、打撃を打ってはいけないと聞きましたが、叫んではいけないとは聞いていないんですが」
それは、聞く者には屁理屈にも聞こえたが、浩之は知っていた。この男は、理屈で動いているわけでは、ましてや、屁理屈をこねる男ではない。
そういう男なのだ。
浩之も、それを卑怯と思わない。
卑怯なんて、生易しいものではない。気合いだけで、マウントポジションを外せる人間が、ここに何人いるだろうか?
そして、寺町の顔は言っている。自分の打ち下ろしの正拳は、気合いだけで相手をのぞけらせることなど造作もないことだと。
どうしたものかと首をひねる審判の肩を、浩之は叩いた。
「君、離れて待って……」
「かまわない」
審判の注意を、浩之は言葉でさえぎった。
「このまま続けてかまわない。俺は打撃を受けてないし、誰が悪いって言えば、あれにひっかかっちまった俺がバカだったんだ」
まったく、浩之の気持ちはその通りだった。いや、それをひっかかったとさえ思っていない。むしろ、危機を脱したとさえ思っていた。
「しかし……」
反則を許す、というのは、悪しき例を作ってしまう可能性があるので、極力避けたいのだ。
だが、浩之は引き下がらなかった。このまま黙っておけば、勝ちを拾えるかもしれない。だが、それは寺町を倒したことにはならない。
「しかしもへったくれもあるかっ! 俺はこいつを倒したいんだ、邪魔するなら引っ込んでなっ!」
下手をすれば自分が反則負けになることもかまわず、浩之は怒鳴っていた。
「なっ……」
絶句する審判と、それに反して盛り上がる観客達。エクストリームのまだ短い歴史の中では、前代未聞のことかもしれない。
「邪魔すんじゃねえ。俺は、こいつと決着を着ける」
浩之は、審判の言葉も聞かずに、左半身で構えた。ここで下がる身を、浩之は持っていない。例え審判に失格にさせられても、この男とだけは決着をつけたかった。
それに対する、寺町の態度は雄弁だった。
「……やっぱり、藤田浩之、あんたは、楽しいよ」
右拳が、上で構えられた。観客達の期待を一身に、その構えは受けていた。これから始まる、浩之と寺町の最後の死闘に、皆心を弾ませているのだ。
観客達の中には、続けろコールを始めている者さえいる。
しかし、それでも審判は試合をはじめようとしない。すでに、審判一人の判断では判断しきれない状況になっている。
「いい、試合を続けなさい」
そして、審判のかわりに、それを言ったのは、相変わらずいつ出てきたのかわからない、北条鬼一だった。
「館長、しかし、このまま試合を続ければ……」
「かまわないだろう。ルールには反していない。二人とも納得している。何より、この続き、俺も気になって仕方ないのでね」
「よ、さすが北条鬼一」「話わかる〜」と観客は好き勝手に騒いでいる。
「二人とも、楽しい戦いを見せてくれよ」
「へっ、やってやるさ」
浩之は、北条鬼一の捨てゼリフに憎々しげに言葉を返すと、寺町をにらみつけた。寺町も、同じように、というには少しばかり嬉しそうに、浩之を睨みつける。
北条鬼一は、それだけ言うと、自分の席に戻っていった。
最高責任者の言葉で、判断は決まった。
まさに前代未聞、最高責任者が見たいという理由で、反則すれすれの行為は、あっさりと通されてしまった。
だが、この場でそれに納得していない者はいなかった。試合を止めた審判でさえ、この試合をまだ続けたかったのだ。
それに、どうせこの試合、止めれるのは、浩之か寺町、どちらかが倒されたときだけだ。
それだけは、ここにいる誰もが感じている。
「それでは、試合を再開します。レディー……」
審判が、ゆっくりと手を前に出し、上に振り上げた。
この二人は、それを感じている。いや、決意している。相手を倒すときが、この試合の終わるときだ、と。
自分は、勝つ、と。
「ファイトッ!」
続く