浩之は、後ろ頭にやわらかい感触を感じて、目を覚ました。
その感触は、えも言われぬほど心地よいものではあったが、その部分以外は、どこを取っても痛くない場所はなかった。
全身に打撲痛と筋肉痛と、おまけによくわからない痛みもともなって、起きたばかりの浩之には何が起こっているのかさっぱりわからなかった。
わかっているのは二つだけ。
この後ろ頭の感触は、おそらく綾香の膝枕であろうことと。
ここで倒れているということは、自分は……
「浩之、起きたの?」
目は開いていなかったが、気配で感じたのだろう。綾香は、優しく浩之に話しかけていた。
喉もからからだったので、浩之はとりあえず、うなづくだけうなづいた。
「どう、調子は?」
「ざい……」
最悪だ、と口にしようとしたのだが、かわいた喉は、それ正しく発音できず、浩之は途中で黙った。
「もう、世話やけるわねえ。水よ」
綾香は、まるで介護でもしているかのように、優しく浩之の頭を持ち上げると、コップの口を浩之の唇につけた。
コクッコクッ
水が喉を通るときにも痛みは感じたが、喉の渇きの方がまさり、浩之は浩之なりに必死に、ただし、身体はろくに動かないので、ゆっくりと水を飲む。
「どう、落ち着いた?」
一息ついた浩之に綾香がかける言葉は、どこかそら恐ろしいほど優しい。これにどんな罠がまっていたとしても、このままこの優しい綾香に捕まったまま過ごしたい、と半ば本気で考えたのは、痛みだけの理由ではない。
ニ、三回深呼吸をしてから、浩之は口を開いた。
「綾香の口移しで飲ませて欲しかったな」
「いいわよ、それぐらい。ただし、葵と好恵と、ついでに今日応援に来てる二人の前でいいならね」
実に魅力的な罠だ。そんなことをすれば、命はないのだが、それだって天秤にかけると、つりあうぐらいだ。
しかし、自分で話をちゃかすのも、悪い癖だと浩之は思った。一番見なくてはいけない場所から、自分でも目をそらしたかったのだ。
「俺は……勝ったのか、それとも負けたのか?」
「自分で記憶はないの?」
「ああ……」
一応は、ある。断片的にではあるが、打ち下ろしのカウンターを受けてからの記憶は、残っている。
最後の、綾香の声と、その後の自分の動きも覚えている。
あの時点で、浩之に手はなかった。
あの最後の状態は、半三眼とでも言ったらいいのか。確かに、いつもではない動きができた。限界以上のダメージを受けた、その一線で、おそらく、浩之はいつもの限界を超えていた。
だが、寺町も、完璧に自分の限界を超えていたのだ。いや、あれは寺町の通常なのかもしれない。
寺町を倒す打撃が、なかった。
どんな技でも、寺町をKOするだけの技が、浩之の中にはなかった。威力こそ、と思って使う飛び技さえ、叩き落されるのだ。
極限状態の中、浩之は考えた。寺町を倒せる打撃を。
そして、一つだけ、ほとんど無理だろうが、ほんの少しだけ、可能性のある打撃を思いついたのだ。
浩之の完全オリジナル、重心を末端に移動させての、打撃。
本当にそうなっているかどうかは別にして、常識を超える打撃を打つためには、常識を超える理論で攻めるしかなかった。
まだまだ未完成の技ではあるが、それでも、常識は超えている。
綾香に呼びかけられて、一瞬意識がはっきりしたとき、浩之はそれを打つことを決意した。
しかし、浩之には、一つだけ気がかりなことがあった。そのために、その瞬間は、重心の移動を行う打撃は打てなかった。
綾香に、それを見られたくなかった。
どんなにバカな話であっても、浩之の目標は、綾香に勝つこと。そして、重心の移動の打撃は、最後の最後、隠し球になる可能性があった。
綾香なら、一度見れば、それがどんな打撃かわかるだろう。おそらく対策も練られる。
ほとんどない、勝つ可能性を、浩之は自分で摘み取るわけにはいかなかった。
だから、瞬間的に、寺町の後ろに回りこんでいた。そして寺町の身体を盾にして、綾香の視界から逃げたのだ。
最後の打撃は……多分、当たったのだと思う。
そこになると、もう浩之の記憶はかなり曖昧になっていた。さらにその後の記憶となると、もうまったくない。
「最後の打撃、当たったか?」
「当たった、と思うわよ。寺町の身体が大きくゆれたし」
「そうか」
その言葉を最後に、浩之は黙った。
おそらく、何が起こったのか、綾香の態度を見れば分かるし、自分にさえ記憶はないのだ。わかってはいる。
わかってはいるが、聞けないことというのはある。
「浩之の、負けよ」
その聞きたくとも聞けない言葉を、平気で、どんな顔をしているかはわからないが、平気で言える、強い女の子もいるのだ。
心配りが足りないわけではない。浩之のことを心から思って、それで出てきた言葉だ、綾香は、やはり基本のところで強いのだろう。
「そうか」
浩之の反応は、そっけなかった。予想していたし、今の状態を見て、それ以外など、少しも思いつかなかった。
葵も、おそらく来るだろうあかりも志保もいない。これから起こることを予想して、気をきかせた以外のことは考えれなかった。
「くそ、もうちょっとで勝てるかと思ったんだけどな」
冗談のように「勝ち」を口にする浩之に、次の綾香の言葉は、優しくなかった。
「そうね。でも、よくやったわよ、浩之は」
それが、限界だった。
「……ちくしょう」
浩之は、今から自分がやるだろうことが、情けなくて、腕で顔を隠そうとした。
その手をどけ、綾香は、自分の身体で浩之の顔を覆った。
「誰も見てないわよ、私以外はね」
「……ああ、ごめんな、綾香。勝てなくて」
しかし、本当に悔しいのは、ただ自分が勝てなかったこと。綾香に関係なく、浩之は、それだけが悔しくて悔しくて仕方なかった。
格闘技を始めて、今まで、何度も負けた。それこそ、勝ったことなど、今日を迎えるまでなかった。
しかし、こんなに負けて悔しいのは、今日が初めてだった。
負けてだけならきっとそんなに悔しくなかった。だが、浩之は勝つことを覚えてしまった。だから、負けはこんなにも悔しい。
「ほんと、かっこ悪いよな。負けて、女の子になぐさめてもらうなんて」
「何言ってるのよ、浩之」
声を殺しながら、くやし涙を流す浩之の顔を、綾香は穴があくほどじっと見つめて目に焼き付けながら答えた。
「今日ほど、浩之がかっこいいと思ったときなんてないわよ」
綾香は、浩之のしょっぱい涙を、ちろっ、となめた。
しばらくの間、二人は誰に邪魔されることなく、ずっとそうしていた。
続く