葵と英輔は知り合いで、坂下と寺町は知り合いだったので、接点がないというわけではなかったが、英輔と寺町の二人が顔をあわせたのは初めてだった。
「英輔さん、これから試合ですか?」
「うん、そうなんだけど、さっきみたいな試合の後だと、観てる人達も興奮しててやり難いよ」
少し冗談めかせながら言う英輔は、ちらりと寺町の方を見た。
坂下の勘ぐりすぎということもあるのかもしれないが、英輔がまるで寺町のダメージを量っているようにも見えた。
「初めまして、寺町さん、ですよね。いえ、さっきの試合を僕も観たので、ぜひ話をしたくて」
英輔の言葉は酷く友好的で、何も裏がないようにも見えるし、最初から、そういうタイプではないのを葵も良く知っている。
「えーと、あんたは?」
「……部長、ほんっと、人の試合観ないんですね」
中谷が、かなりあきれた声を出した。何かいつもの寺町と中谷に戻ったようで、坂下などは何か非常に居心地がよかったりもした。というか、さっきまでの寺町と中谷がおかしかったというのもある。
「いえ、かまいませんよ。僕は藤木英輔と言います」
「寺町昇だ」
寺町は、英輔にはあまり興味がなさそうだった。初対面の人間だろうと人見知りなどするわけのない寺町には、その自己紹介は何ら意味のあるものではなかった。
しかし、それを知ってか知らずか、英輔は言葉を続けた。
「次に……うまく勝てたら、決勝で会えるかもしれません」
それは、他のどんなプロフィールで寺町に説明するよりも、この男にはわかりやすいものだった。というよりも、他の説明では、きっと寺町の頭の中には入らなかっただろう。
「ほう、ということは、あなたも準決勝までは勝って来たんですね」
急に寺町の口調が、さっきの興味なさそうなぶっきらぼうな感じから、丁寧になった。
格闘技の強い人間だけが、尊敬に値する人間だ、と寺町の中では決まっているのかもしれないし、実際この男はそうやって動いているように見える。
「英輔さんは、私が通う柔道道場の先輩にあたる人なんです」
葵が、坂下に軽く説明する。
「へえ、柔道とかもやってるって聞いたけど、柔道道場に行っているような人間でも、エクストリームに出てくるんだ」
もちろん、坂下の記憶力は悪い方ではないので、英輔の名前をちゃんと覚えていた。ナックルプリンスでは優勝候補の一人にあげられている選手だ。そこらへんは、格闘自体以外にはまったく興味も関心もない寺町とは大違いだ。
「えーと、私の空手の先輩で、今でもお世話になっている好恵さんです」
「どうも、藤木英輔です」
「坂下好恵よ。どう、葵の柔道の実力は?」
坂下は自己紹介がてらに聞いてみたが、葵は赤くなってその話にわって入った。
「柔道では負けてばかりですよ、私は。好恵さんも、恥ずかしいから止めてくださいよ、そんなことを聞くのは」
「誰でも最初は弱いじゃない。それを恥ずかしがってたんじゃあ、先が思いやられるよ」
「それはそうなんですけど……」
葵の赤い顔がおかしかったのか、英輔は笑いながら答えた。
「まだ柔道を始めてそんなに期間があるわけでもないのに、もううちの道場では、上級者相手ではないと松原さんには勝てませんよ」
「男でも投げられるやついるもんな」
「ま、男の方が弱いって話もあるけどね」
後ろの安部道場の面々が言いたい放題言っている。もしかすると、弱い相手にはこの道場では容赦がないのかもしれない。
「へえ、何とかものになってはきてるんだ」
坂下は、柔道自体を習う気はさらさらないが、組み技相手に対処できるように、それらしい練習はしている。どこの空手道場に行っても、上級者なると、けっこう柔道はやっていることは多い。反対に、柔道で空手をやっている者はあまりいないので、不思議なものだ。
葵が、むしろ組み技相手に対処するためだけに柔道を習っているのは坂下も知っていたが、それを許す柔道道場も珍しい、とも思う。
「そんなことはないですよ。私なんかまだまだで……正直、対処と言っても、どれだけものになっているのか……」
いくら急成長したとは言え、生仕込みの浩之相手だけでは、不安は残る。本格的な組み技の選手相手に、どれだけ通用するのかは、やってみないとわからないところだ。
「柔道ですか、今まで何度か相手にしたことはありますが……」
柔道、と聞いて少し寺町は残念そうだった。
「何、寺町、柔道相手は苦手なの?」
タックルさえ対処できる寺町が、並の柔道家相手に遅れを取るとは思わないが、色々経験してきた中には、嫌な思い出でもあるのかもしれない。
「いえ、俺が今まで路上で戦ってきた相手では、自分が柔道の黒帯だという人間は多かったんですが……そういう相手に限って、正直、面白くも何ともないザコで」
何というか、寺町お得意の、素での挑発だった。英輔はその程度で怒るような人間ではなかったが、そう言われて黙っているかどうかは、葵にもわからなかった。
というより、むしろ英輔の後ろにいる安部道場の面々は、坂下の見る限り、かなり楽しそうだった。
「運が悪かったという所もあるんでしょうが……どうもそのころから柔道にはあまり良い思い出がないもので」
相手がヘボかったからと言ってそれが直接悪いと思う寺町も何だが、今言うべきことではないのは確かだ。
「ぶ、部長!」
いつも通り、寺町の暴走を中谷が止めようとしている。坂下は、すでにあきらめぎみにため息をついた。
「まあ、確かに一昔前は空手の黒帯は、柔道とかに比べると取りにくかったけどね」
坂下は平気な顔をして黒帯だが、有名な極真空手などでは、黒帯を締めれる選手は、入門者二千人に対して一人、などというバカげた状態さえあったこともあるのだ。
今は確かにそんな無茶なことはないが、それでも柔道と比べて黒帯が取りにくいのは変わりない。そういう状態で、どうしても柔道の有段者に当たる可能性が高かったのだろう。
「しかし、掴めば勝つと思っているような甘い相手では、満足が……」
路上でも、もちろん鍛えている柔道家は強い。一対一の戦いでは、投げ、締め、関節技が使える柔道はかなり有利だし、アスファルトの上でそれこそ投げなどやられたら、骨折の一つや二つ、簡単に起こるだろう。
だが、それも、所詮は実力の差。寺町なら、つかまれる前に一撃でしとめることさえできたのだろう。
「まあ、この大会に出て、しかも準決勝まで残っているような選手に、そんな弱い選手は残ってないとは思いますがね」
今までの満足できる相手を顧みての発言なのだが、どうしても挑発しているようにしか聞こえないのは、おそらく寺町の天性の才能だろう。
もちろんというか、その程度では英輔はその笑顔を少しも崩さなかった。
「そうですね、柔道をやっている誰しもが強いとは限りませんしね」
高校で柔道の大会に出れば、ほとんどが黒帯の状態で、何も珍しいものではないのだし、それもあながち間違ってはいないのだ。体格にさえめぐまれれば、中学でも取れるものだ。
しかし、それで柔道を判断するのは、間違っていた。
「でも、強い人もいますよ」
「それは、藤木さんですか?」
ここまで来て、それが挑発でないのだから凄いものだ。寺町は、純粋に英輔の実力が知りたいのだ。
「それは、試合を観てもらえばわかると思います。すぐに始まりますから」
後ろの方では、「何だ、乱闘しないのか」とか、「もう少しガツンと言えよ」とか安部道場の面々が言いたい放題言っているが、いつも通り、それは聞かなかったことにされているようだ。
「じゃあ、よかったら、松原さんも応援してくれるかい?」
「はい、もちろんです」
英輔はそれを聞いて嬉しそうに笑うと、試合場に向かった。
「ねえ、で、ここまで残ってるから弱くはないと思うけど、さっきの柔道家、強いの?」
坂下もその辺りが気になっていた。
「はい、強いです。センパイと同じか、経験が多いので、今の状態ならセンパイより上かもしれません」
微妙なところではあるが、決して弱くはないのはわかった。
しかし、弱くはない、というよりも、浩之のレベルで物を言うには、いささか。
「次の試合の相手、強すぎるんじゃないの?」
続く